少女達の事情(1)
一夜明け、早朝。
学校へ向かう木野内梢の足取りは重かった。
制服のスカートを履き、シャツとブレザーに袖を通して学校指定の鞄を肩に担ぐ。
ルーチンワークをこなすがごとく、毎朝とる同じ行動。
しかし、平日の日々を淡々と過ごす事こそが、少女にとっては重要だった。
特別な事など、何も起こらなくて構わない。
花の高校生としては、随分と冷え切った考え方かもしれない。それでも日々は変わらないからこそ価値があると、彼女はそう信じていた。
……面倒な事になったよね。
寝不足の頭の中を埋め、足が重い要因となっているのは、もちろん先日の少女――門原明莉だ。
昨夜、明莉は無事に城森勇司の運転する車で家まで送り届けられた。二人きりではなく、梢と千香も同乗する形だった。というよりも、梢と千香を送るついでに明莉も、というのが建前だった。
城森には梢と千香も世話になっており、バイト帰りに送ってもらうことが多いのだ。
梢もまた明莉と同じ未成年であるため、気遣われている部分がある。千香からに関しては、完全にアシとして使われている節があるのが彼にとっては残念な点だ。
と、思考が横道にそれ始める。それが現実逃避のサインだと自覚して、梢は短く溜息をついた。
本当なら、もう関わり合いにはならないはずだった。自分の平穏な日々に門原明莉は介在させない。少なくとも、梢はそのつもりだった。
しかし、彼女の意に反して、そうも言っていられない事情ができてしまったのである。
◆
昨夜の車中での話だ。
明莉の自宅は住宅街にあるマンションの一室らしく、何度も振り返って頭を下げる彼女の姿が無事に敷地内に入って見えなくなったのを確認して、城森が車を発進させた直後だった。
「あ、しまったな~。忘れてた」
助手席の千香がいかにも困った顔を振り向かせ、後部座席の梢に視線を送ったのだ。彼女のその芝居がかった口調から不穏さを感じ、梢は嫌な予感に眉をひそめた。
「梢ちゃん、悪いんだけどね? これ……明莉ちゃんに返しておいてくれない?」
片目をつむって差し出されたのは、梢もよく知るデザインの生徒手帳だった。
表には『桶布高等学校』の文字と、明莉の顔写真が載っている。
「……これって、あの子のですよね?」
「うん、そうなのよ~。制服を洗濯するときポケットから出したんだけど、渡すの忘れちゃってたみたいで」
「それ、絶対わざとですよね!?」
「いいじゃないの。学年も同じみたいだし、これを機会にお友達になったらいいんじゃないかしら?」
「勝手なこと言わないでください!」
「まあまあ、梢ちゃん。千香さんも、悪気があってやってるわけじゃ」
「勇司さんは前見て運転しててください!」
少女の低い怒鳴り声が車内に響く。怒り心頭の梢だったが、それから何のかんのと半ば強引に言いくるめられてしまい、明莉の生徒手帳を預かってしまったのだった。
◆
門原明莉。二年六組。正面から撮られた顔写真は、間違いなく昨夜の少女だった。
セミロングの黒髪の前は長く、目元はやや隠れがち。口は横に引き延ばされていて、緊張している様子が窺える。
「六組ね……。廊下の端と端か」
二年は全部で六クラスある。梢は一組のため、互いの教室は最も距離が離れていた。
合同授業などでも接する機会はなかっただろう。もしかしたら、どこかですれ違っていたりしたのかもしれないが、記憶に残っているはずもない。
学校に着き、自分の所属する一組のドアを開ける。誰もいない教室の空気は、まだ淀んでいない。
梢は届けるタイミングをいつにするか悩みつつ、窓側にある自席に座った。
普段通り予習をしていようと一限目の授業の教科書を開いてみたが、内容は全く頭には入ってこなかった。
それもこれも、千香のせいだと梢は心の中で悪態をつく。高校が同じだったのは偶然にしても、千香は最初からそのつもりで生徒手帳を拝借していたに違いないのだ。
明莉とは誰も連絡先の交換をしていない。つまり何もしなければ、彼女を家に送り届けた時点で、関係は切れていたはずなのだ。
あえて接点を残すための布石を打った。忘れ物を届けるという口実づくりに、自分は利用されている。
「何なのよっ。やってられないったら……!」
ぶつけようのない苛立ちに声を荒げ、八つ当たり気味に教科書を机に突っ込む。
まだ教室に誰もいないのをいいことに取った行動だった。しかし、そこで梢は誰かに見られている気配を感じて顔を上げた。
その直感は正しく、教室の前の方のドアを開けて、廊下側でこちらを窺うようにして立っている男子生徒の姿があった。
「おっす、木野内。何か今日は……機嫌悪そうだな」
少々気まずそうな笑みを顔に貼り付けて、大柄な男子生徒が教室に入ってくる。彼の挨拶に、梢は「別に」と一言だけ応じて顔を背けた。
「そうか? ならいいんだけど。なあ、ちょっといいか?」
明らかに話し掛けるなという雰囲気を出しているのに、男子生徒は自席に鞄を置くや、梢の席の前に座った。
「なに? あんたと話すことなんてないはずよ」
「そう言うなよ。その、なんだ……今日は良い天気だよな」
「はあ?」
がたいの良さに似合わず歯切れ悪く、野球部特有の丸刈りの頭が窓の外へと向けられる。何の話しをしているのかと剣呑な気を放つ梢にめげず、彼はしゃべり続けた。
「つっても、昨日の夜はずっと雨だったから、グラウンドはぐちゃぐちゃで朝練は大変だったけどな。はは」
「山岸、うざいよ」
切り付けるような鋭さを孕んだ梢の言葉に、男子生徒の表情が固まる。
「考えないといけない事が山ほどあるのよ。あんたの話に付き合ってるほど、あたしは暇じゃない」
「お、おいおい。そりゃないだろ。俺達……幼馴染だろ?」
「話し掛けるなって言ってんだよ。そんなことも解らないの?」
取りつく島もないとはこのことだった。男子生徒は食い下がろうとしたが、梢に睨み付けられて開けかけた口を閉じ、言葉を呑んだ。
「……解ったよ。あんま、気を張り詰めるなよ」
廊下の方では登校する生徒達の気配もし始めてきている。時間切れだと、男子生徒は大人しく自分の席へと引き返していった。
肩を落として小さく見えるその背中に、梢は一瞬だけ目を向ける。
ほんの一瞬だけ、胸の奥で疼く感情。それをすぐに押し殺した梢は即座に窓の方へ顔を背け、自身の思考の淵へと沈んでいった。
およそ十年前。彼――山岸とは小学校に上がる直前まで、隣近所に住んでいたというだけの関係だった。
梢にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。振り返る価値もない過去の存在だった。