黒猫の願い事(1)
「はじめまして。門原明莉の母の、門原陽和です。記者をしております。本日はお時間を割いて頂き感謝します」
革張りのソファに腰を据えた陽和は、規律正しい礼をして名刺を差し出した。
桶布高等学校の応接室。
この日、沓掛に同伴して学校を訪れた彼女は燃えていた。物腰は丁寧だが、瞳から発せられる並々ならぬ気迫に隣の沓掛も緊張するほどである。
そして対面のソファには桶布高校の校長と、生徒指導兼体育教諭の浮田が座っていた。
「……これはどうも。よろしくお願い致します」
校長が丸眼鏡の奥の目を細め、薄い白髪の頭を下げて応じる。続けて浮田も眉を渋い形に曲げながら、軽く会釈をして彼女の名刺を受け取った。
「さて、それでは……」
場の準備が整ったところで、早速沓掛の主導で話が進められる。
「事前に通達していましたが、改めてご説明させて頂きます。木野内梢さんの、皆瀬佳奈さんに対する傷害の件についてです」
皆瀬佳奈によって引き起こされた一連のイジメ――その行為そのものは終息した。
ただしそれは、梢が皆瀬に刃物を振るい、傷を負わせたという最悪の結果を招いた形でのことだった。
二人を止めに入った山岸も、梢から凶器を奪う際に両手に浅くない傷を受けていた。山岸本人はたいしたことはないと問題にしない構えだったが、皆瀬の方はといえばそうではなかった。
命に別状があるものではないが、頬と喉を切られた。これは立派な傷害だとして、被害届けを出すと主張を譲らなかった。
梢が置かれている立場を客観視すると、それが現状。彼女はいま、非常に危ういところに立たされている。
門原明莉を始め、現場に居合わせた生徒達の幾人かからも、梢の味方をする動きはあった。しかし梢が自ら刃物を持ち、皆瀬に向けたという事実を覆すことはできなかった。
その肝心の皆瀬は、病院で怪我の治療を受けたのち、生徒達を煽って騒動を引き起こしたとして自宅謹慎を言い渡されている。
逆に言えば、それだけの処分で済まされようとしていた。
「その後、皆瀬さんの容態は変わりありませんか?」
「ええ、まあ……多少、情緒が落ち着かないこともあるそうですが、おおむね良好だそうですよ」
沓掛の質問に、校長は隣の浮田を流し見て曖昧に返答する。浮田も多くは語らず、首を縦に振るだけだった。
「私どもの方でも、大事はしたくない。木野内さんへの最大限の配慮はさせてもらいたいと思っています」
「…………失礼ですが、本当にそう思われているのでしょうか?」
その定型句のような回答に、陽和が切り込むように口を挟んだ。両者の間で静電気が迸ったかのように、空気がぴりつく。
「門原さん、どういう意味でしょうか?」
「今回の決定的な事件が起きる前までも、皆瀬さんはイジメを助長する真似をしていたと聞いています。そして、度々同じような騒ぎが起きているにも関わらず、対応が遅れたのは学校側の怠慢もあったのではないですか?」
「……仰られる通り、事件が起きてしまった経緯には私どもにも責任はあります。それは関係者の皆様に対して、幾重にもお詫び申し上げた次第です」
「ならばなおのこと、木野内さんにも便宜をはかるべきでは? イジメの原因は、木野内さんの家庭の事情を揶揄したことから始まったとも聞いていますよ。それについてはどうお考えなのですか?」
「いや……それは……門原さん、あなたが仕事熱心な方だということはわかりました。ですが、なぜそこまでのことを? 沓掛さん、あなたが話されたのですか?」
「そうです。本人の許可は得ています。今回の交渉にあたり、こちらが必要だと判断したことは、全て包み隠さず」
「ご安心ください。私の職業は記者ですが、悪戯に記事にしようというわけではありません。大事に至らせないためにも、こうしてお時間をいただいたわけですから。ただし――」
陽和はきっと目つきを鋭く尖らせる。
「そちらの対応次第では、こちらにも考えがある……とだけ申し上げておきます」
「くだらない。脅迫のつもりですか?」
浮田が大柄な身体を揺すり、侮るように口を歪めた。
「どうやら私達の対応に不満がおありのようですが、今回の事件を記事にすると言うのでしたら、木野内への配慮がないのはそちらになるのでは? こちらは公にしたくないというのに、自ら二次被害を起こそうというのですか?」
「その覚悟があると申し上げています」
「な……」
即答する陽和に浮田は目を瞠った。彼女は背筋を直立させ、舐めるような浮田の態度を一蹴する。
「ご存じでしょうが、いま問題としている木野内梢さんは私の娘、明莉の友人です。娘は私に頼みました。『わたしの友達を助けて』と」
自分はその願いのために来たのだと、陽和は母の強い眼差しをしていた。
「娘は全てを私に告白してくれました。皆瀬さんを始めとするグループにイジメを受けていたこと。梢さんに助けてもらったこと。これまでの経緯、全てをです」
一個人としての謝意を込め、陽和は梢のことを名前で呼んだ。
「仕事にかまけて娘のことに気付けなかったのは、親として猛省しています。梢さんには感謝してもしきれません。母として娘の願いを叶えたい。そしてまた、一人の人として彼女の窮地を救いたいと思っています」
「いや……だからといって、我々に何をしろと仰るのですか?」
困惑に校長が眉をひそめる。その言葉を待っていたとばかりに、陽和は本題を切り出す。
「皆瀬さん側に、被害届けを出させないよう働きかけてください。それが双方にとっても一番穏便に済む方法です」
「……本気ですか? それは、確かにそうできれば楽なのでしょうが……」
「それができないのであれば、娘と梢さんへのイジメに関する全ての証拠を公開し、学校側の態勢についても責任の追及をさせて頂きます」
「バカな!」
冷然と言い放たれた陽和の台詞に、校長が色をなくして腰を浮かしかける。
「あなたは親でしょう! 木野内さんだけでなく、実の娘をネタにするなど……!」
「そうでしょうね。我が子の被害をダシにして記事にするなど、親として誹りは免れないことでしょう。しかしだからこそ、話題性もあるとお思いになりませんか?」
言葉から冷静さこそ失われていないが、それを裏返すように陽和の瞳には怒りと悔しさが荒波のように渦巻いていた。
「これは娘の願いでもあるのです。あなた方に解りますか? 一人の女の子が友人を救うために我が身を天秤に掛けようとする気持ちが。どうか、その覚悟に見合う心構えで応えて頂きたいものですね!」
熱い呼気に乗せられた言葉は相手を貫かんばかりである。押し負けたように校長は腰を落とし、目を白黒させていた。
「……門原さん、少し落ち着きましょう」
そこへ示し合わせたかのように、沓掛が苦笑して陽和を宥めた。
「もちろん、私達もただ闇雲に皆瀬さん側を説得してくれと言うつもりはありません。交渉材料になる情報を提供させて頂きますよ」
「じょ、情報……ですか?」
水を向ける沓掛に校長が訊ねる。沓掛は神妙に頷き、手札を切った。
「実は、今回の一件の一部始終を録音したものを、とある生徒から提供してもらっています。それによれば、水瀬さんは梢さんに自分を刺せと教唆するようなことも言っている。これは極めて重要ですよ」
「そんな、いったい誰がそんなものを――」
「勇気あるその生徒は必要ならば名乗り出るとも言ってくれていますが、その必要がない限りは申し上げることはできません。また、これは非常に申し上げにくいことですが……」
そして更に、畳みかけるように次の手を晒す。
「皆瀬佳奈さんは少人数のグループを率いて、援助交際を斡旋するような真似をしています。必要ならば証拠も出しましょう」
沓掛はそこで、言葉を失っている浮田の目の奥深くを見据えた。子細に追及できないのは遺憾でしかないが、ここが交渉の山だった。
「梢さんへの攻撃材料となった家庭の事情は、そこから漏れたと考えられます。私が言えるのはここまでです」
「……! その証拠はどうやって集めたんだ!? 違法じゃないのか!?」
判りやすく狼狽えて唾を飛ばす浮田の態度に、沓掛は残り一割の疑いを確信へ変えた。
校長を一瞥すると、彼も沓掛が何を言わんとしているのか流石に理解しているようだった。恐ろしい形相で浮田を見ていたが、浮田はまだ気付いていない。
「違法か合法かは、この際問題ではないでしょう。この場には私達しかいないのです」
伝えるべきことは伝えたと、沓掛は改めて要求を口にした。
「どうか梢さんを見捨てないでください。私どもからのお願いはそれだけです。すみやかに、本気でお願い致します」




