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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
四章 少女達の戦い
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少女達の戦い(3)

 その日は白濁とした雲が広がっており、小雨がしとしとと降っていた。

 安物のビニール傘を差した明莉は登校する生徒達の一人に混じり、薄ら寒い空を見上げながら校門を通り抜ける。


 彼女が異変を感じたのは、校舎に入ってすぐのことだった。


 朝の喧噪とは明らかに違う異様なざわめきが起きている。明莉だけではなく、登校してきた他の生徒達も出所を探ろうと、周りの生徒達に事情を聞こうとしていた。


「なんか女子が一人暴れてるってよ」


 明莉が教室へ向かうにつれて、その騒ぎは大きくなっていった。


「六組で喧嘩が――」


 自分のクラスが騒動の中心のようだった。二階への階段は既に人だかりができており、明莉は妙な胸騒ぎを覚える。


「――ふざけんじゃねえッ!!」

「……!」


 不意に喧噪を丸ごと吹き飛ばすような怒声が轟く。一瞬波が引いたあと、揺り返しのようにざわめきが強まった。


「と、通して……通してください!」


 我先に騒ぎの中心を見物しようと押し寄せる野次馬の生徒達の隙間を、明莉も負けまいと小柄な身体を利用してかいくぐっていく。

 焦燥に喉を喘がせながら辿り着いた六組の教室では、皆瀬佳奈のグループが黒板の前に陣取っていた。そして、彼女達と真っ向から一人の少女が対峙していた。


 ……梢!


 明莉は教室のドアを開け、皆瀬達と梢を遠巻きにしているクラスメイトの壁を乗り越えようとした。

 何があったのかは解らないが、先の怒声は梢のものだ。尋常ではない空気に足が竦みそうになるが、止まってはいられなかった。


「あら、アカリ。遅かったじゃない」

「明莉!?」


 教室へ踏み込んだ明莉を見つけた皆瀬が声を掛けてきた。ほぼ同時に梢も振り向き、明莉と目が合う。

 皆瀬はこの空気が気にならないのか、まるで普段通りの緩慢な口調だった。それに対する梢の方が、追い詰められたみたいに余裕が感じられなかった。


「来るな……明莉」

「い、いや、来るなって……梢こそ、よそのクラスじゃない。どうなってるの?」


 まるで状況が掴めず、明莉は梢に訊ねた。しかし、梢は苦虫を噛み潰したような顔をするだけで答えようとしない。


「木野内さん、ずいぶんとこの子と仲良くなれたみたいね。でも、お友達に隠し事はしちゃいけないんじゃないかしら? ねえ、アカリ?」

「皆瀬さん……何を言ってるの?」

「こっちを見てちょうだい」


 皆瀬が明莉に自分の背後にある黒板を見るよう促し、その場から横にずれる。彼女の取り巻き二人も、にやにやと薄ら笑いを浮かべていた。

 そこでようやく、明莉は黒板に悪意を凝縮したような悍ましい何かが書かれていることに気付いてしまった。


「お友達なら、全部教えてあげなくちゃ。私が、あなた達がもっと仲良くなれるよう手伝ってあげる」

「明莉! 見るな!!」


 梢の必死な声も遅い。明莉の瞳に、黒板の全容があまさず映し出される。

 赤いチョークで太く禍々しく、見えやすいように白いチョークで縁取られていた文字。


 黒板には、こう書かれていた。



 ――木野内梢は14歳の時に父親を刺し殺した。


 ――人殺し。犯罪者。


 ――門原明莉は、人殺しに脅迫されている!



 人は本当に理解不能なものに直面したとき、目の前が真っ暗になるのだと明莉は実感した。

 書かれている文字を目で追うが脳が理解を拒み、機能停止に陥る。

 錆び付いた機械みたいに、明莉は小刻みに震えながら梢を見た。


「お前達何をやってるんだ! さっさと自分の教室に戻れ!!」


 騒ぎを聞きつけ駆けつけたのだろう。野次馬の奥からがなり立てる教師の声が押し寄せてきていた。

 自分は関係ないと必死でアピールし、大半の生徒達は蜘蛛の子を散らしたように消えていった。残った野次馬根性の強い生徒達も、教師の手によって強制的に退場させられていく。


「木野内! お前もだ! 早く出て行きなさい!」


 最後まで六組の教室で動けずにいた梢も、教師に背中を押されていく。

 出て行く間際、顔を僅かに振り向かせた梢の視線が、一瞬だけ明莉と交錯する。


 今まで明莉が見てきたこともないような絶望を映す瞳――明莉の知らない梢が、そこにいた。



 教師達の介入によって、騒ぎは鎮静化したかに見えた。

 ただしそれは表面上のことでしかなく、尾ひれをつけた噂が学校中に広まるのは時間の問題と思われた。


「だから……わたしが来たときには、もうあんな状況で……何も分からないんです。本当です」


 緊急で生徒指導室で参考人として呼び出された明莉は、その時の状況の説明を教師から求められていた。

 梢と皆瀬佳奈達も、当事者として個別に呼び出され、事情聴取を受けているらしい。


「門原。ここ最近、お前は木野内と親しくしていたそうだな」


 明莉の聴取を担当している教師は、浮田うきたという中年の体育教師だった。

 足を開けて椅子に座り、高圧的な目で睨まれれば気弱な生徒であれば萎縮してしまうだろう。明莉もその例に漏れず、少なからず彼には苦手意識をもっていた。


「はい、木野内さんは友達です」

「そうか。何故、木野内と友人になったんだ?」 

「……それが、今回の件と関係があるんですか?」

「必要だから質問をしているんだ。答えなさい」


 明莉は無駄と分かりながら聞き返したが、一方的に行われる質疑に暗澹たる気持ちになる。


「それは……」

「答えられないということは、友人関係を強要されていたということか?」

「違います!」


 猜疑心も隠さないその物言いに、俯きがちだった明莉の顔が跳ね上がる。それは彼女の心からの叫びだったが、浮田にはさほど響いてはいないようだった。


「先生は……まさか、あの落書きを真に受けているんですか?」


 思い出したくもない黒板に書かれている内容について言及すると、浮田は肯定も否定もせず、「それだけじゃない」と威圧するように僅かに身を乗り出させた。


「お前が中庭で木野内に怒鳴られているのを見たという証言もある。手も上げていたともな」

「――!? デタラメです! 誰がそんなことを!」

「それは言えん。もう一度訊くぞ。木野内からの報復を恐れて庇っているわけじゃないんだな?」

「だから! 違うって言ってるじゃないですか!」


 机に両手を叩きつけた明莉が腰を浮かせる。流石に何かがおかしいと彼女は思い始めていた。

 こんな質問に何の意味がある。さっきから、自分はいったい何を言わされようとしているというのか。


「落ち着け。座りなさい」

「……すいません……。先生、木野内さんはわたしの大切な友達です。教えてください。今朝、何があったんですか?」

「今のところ、先生達にも見た以上の事は分かっていない。だからこうして事情を訊いて回っているんだ」


 今後の事態を想像したのか、浮田は嘆くように野太い溜息を吐いた。


「しかし、大きな問題にはなることはないはずだ。木野内と皆瀬達、どちらにも怪我はない。ちょっとした言い争いということで、まあ……そうだな。厳重注意で終わるだろう」

「……それだけ、なんですか? だって、あの落書きは皆瀬さん達が……」

「それは門原が判断することじゃない。話は以上だ。また聞くことがあれば連絡する。門原も、何か思い出すようなことがあれば来るように」


 そこでもやはり話は一方的に打ち切られた。自分の言い分などまるで歯牙にもかけられていない。そんな空気を感じずにはいられず、用済みとなった明莉は生徒指導室から追いやられるようにして、授業に戻ることになった。


 教室に戻った明莉を待ち受けていたのは、多くの好奇の眼差しだった。

 皆瀬達に絡まれていたときにも感じることがあったものだが、そのときよりも同情的なものが多い。しかし今の明莉には、そんな他人の好奇心のために割く心の余裕などありはしなかった。


 ……梢。


 明莉が思うことは梢のことだけだった。

 梢に早く会いたい。会って話しがしたいと、崩れそうな胸の思いを支えるようにそれだけを思い続けた。


 だが、授業が終わり休み時間になり、急いで梢の一組の教室に行っても、梢はそこにいなかった。

 教師からの事情聴取のあと、授業の影響などを考えて早退させられたらしい。

 途方に暮れた梢は思い立って携帯で連絡を取ろうとしたが、返ることのない反応に哀しみが込み上げてくる。


「だから言ったでしょ。木野内さんはヤバい子だって」

「――!? 皆瀬、さん……」


 階段の踊り場で立ち尽くす明莉の背後から、勝ち誇ったような皆瀬の声が落ちてきた。

 いつもの取り巻きはおらず単身で明莉の前に姿を現した彼女は、嘲弄の笑みを浮かべて階段を下りてくる。


「アカリも災難だったわね。あの子の正体を知って、驚いたでしょ?」

「正体って……どうしてあんな酷い嘘を!」

「嘘? 私はなにも嘘なんて書いてないわよ? 証拠だってあるんだから」


 そう言って皆瀬が突き出してきたのは、新聞の切り抜きをコピーしたものだった。その片隅にある小さな記事が、注目されるように手書きの丸で囲われている。


 事件があったのは約三年前の隣町。家庭内で虐待を与えていた娘の反抗を受けて、父親が刺されたというものだった。

 娘の名前は伏せられているが、父親の名前は木野内聡(43)と記されている。


「すごいよね。実の父親を刺すなんて」


 蒼白となる明莉の顔を覗き込みながら言うと、皆瀬はひょいと彼女の手から記事を取り上げた。


「ね、わかったでしょ? アカリは騙されてたんだって。ちょっと優しくされて、気を許しちゃっただけ。人殺しなんかと仲良くできるわけないよ。()()()()()()()()()()()()()()

「……! やめて!!」


 肩に触れる装飾された皆瀬のネイルが得体の知れない怪物のもののように思えて、明莉は悲鳴を上げて後ずさった。


「嘘……! こんなの嘘に決まってる!!」

「嘘じゃない。ちゃんとこの記事だって図書館に行って調べたものだし、事情に詳しい人からも話を聞いたのよ?」


 否定を繰り返すだけの明莉に対して、皆瀬は冷静に事実を突きつけるように言葉を並べていた。明莉の声を聞きつけたのか、次第に階段周りにざわざわと他の生徒達の影が見え始める。


「っと、いけない、いけない。解放されたばかりだっていうのに、また騒ぎを起こすわけにはいかないわね」


 そして皆瀬は、明莉にとってはそれこそ悪魔の笑みを湛え、去り際に契約を求めるかのような囁きを残していくのだった。


「アカリ、どっちにつくか決めておきなさい。人殺しを庇い続けるか……それとも私達のお友達に戻るかをね」



 明莉は許可も取らずに学校を早退した。鞄をひっつかみ、それこそ逃げるように教室を飛び出していた。

 クラスメイトから向けられる哀れみの視線の意味を理解し、一秒だってその場に留まっていられなかったのだ。


 悔しさに、噛み締めた唇から血が滲む。

「違う」のだと、その一言が言い出せない。すでに皆瀬達の根回しは終わっていた。説得に足る証拠も持たない自分が何を言ったところで梢の立場は悪くなる。逆効果にしかならない。届かない。

 何よりも皆瀬に突きつけられた記事と、黒板に書かれた醜聞が頭から離れない。そんな自分に対する嫌悪感で窒息しそうになる。


 小雨が明莉の身体を静かに濡らす。徐々に剥がれ落ちる心が雫となって瞳から流れ落ちる。


 少女の心は、まるであの日の再現のように打ち砕かれていた。


 だが、彼女のすべての拠り所が奪われたわけではなかった。

 救いを求めてひたすらに、少女は心が力尽きる前に必死で足を動かし続けた。


「いらっしゃ……明莉ちゃん!?」


 扉を力任せに開けば、そこは暖かな空気に満ちていた。

 走り通しで振り乱しれた髪。汗と涙で汚れた蒼白な顔。幽鬼のごとき明莉の姿は如何にも場にそぐわない。

 平日の午前中にあるはずのない少女の来訪と、うち捨てられたようなその惨状に、千香も、彼女の声を聞いて異変に気付いたマスターも言葉を失っていた。


「たすけて……ください」


 限界を迎えてくしゃりと顔を歪めた明莉は、千香の胸にむしゃぶりついて正体もなく泣き崩れた。

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