《黒猫》の日常(1)
「あらあら、けっこう降ってきたわね~」
客足の途絶えた喫茶店内。窓を打ち付ける雨音とは別に、おっとりとした女性の声がする。
目尻の下がった瞳を物憂げに細める声の主は、妙齢のウェイトレスだった。白のブラウスに黒のセミフレアスカート。生足は晒さずストッキングを履いており、歩けば編み上げのブーツの踵が鳴る。
それがこの店における彼女――園花千香の基本スタイルだった。
格子状になった窓面に細い指先を這わせ、空模様を嘆くように仰いだ千香は、閑散とした店内を振り返った。
「マスター、今日はもう店仕舞いにしませんか?」
左腕で自らの引き締まった腰を抱き、空いた右手で緩く編んだ茶髪を弄りながら悩ましげに身をくねらせる。その動きに合わせて、左腕にのし掛かる脂肪で構成された双丘がふるりと揺れた。
「そうですね。もうよい時間ですし、早めに切り上げましょうか」
職務怠慢にも聞こえる千香の発言に鷹揚に頷いたのは、白髪をオールバックにした壮年の男性だった。
千香が着る制服と同様、白と黒を基調にした皺一つない制服。違いは上がベストで下がスラックスであるということ。背筋を真っ直ぐに伸ばした姿勢は惚れ惚れするほどであり、どこかの良家の執事然とした佇まいである。
マスターと呼ばれた彼――坂本宗平は革張りの木椅子が並ぶカウンターの奥で備品をチェックしていた手を止めて、柔和な笑み頬に浮かべる。
自宅経営ならではの臨機応変な対応に、千香は両手を打ち合わせて歓声をあげた。
「やった。勇司君、聞いた~? 本日は閉店ですよ~」
「はいはい、聞こえてますよ」
千香の呼び掛けに応じ、カウンターの横にある厨房への入り口から、ひょっこりと青年が顔を出す。マスターと同じ男性の制服にエプロンを加えた姿で、痩せ気味の長身に癖毛が特徴的だった。
自身の持ち場である厨房からホールへと出てきた青年――城森勇司は、人好きのしそうな穏やかな顔つきを苦笑に曲げて、大仰に肩を竦めた。
「マスター、千香さんを甘やかしちゃダメっすよ。すぐ調子に乗っちゃうんだから」
「まあ良いじゃないですか、城森君。それに、そろそろ日が落ちるのも早くなってきましたからね」
「私は暗くなっても平気だけどね~。優秀なアシが控えておりますゆえ」
「それって、もしかしなくても俺のことっすよねえ」
「ほ~ら、自覚があるのは優秀な証拠よ。頼りにしてるんだから」
「はは、園花君を甘やかしているのは、城森君の方でしたか」
「そりゃないっすよ、マスター……」
蠱惑的な微笑を湛えながら上目遣いで見つめられては、健康な男としては抗いがたいものがある。城森は迫る千香から上体を仰け反らし、理性で顔を背けていた。
こうした会話は一度や二度のことではないので、マスターの口調も冗談交じりなものだ。照明がやや暗めに落とされた、ブラウンを基調とした空間に和やかな歓談の声が静かに広がる。
「ところで、梢ちゃんは~? 彼女にも伝えてあげないと」
「ちょっと前から、シュヴァルツを心配して裏口を見張ってましたよ。大丈夫だって言ってるんすけどね」
「仕方ありませんね。呼んで来ましょうか」
ふと、この場に居合わせていない従業員の女の子について千香が触れると、城森が思い出したように答えた。厨房にある裏口から、少女が外に出て行ったのを彼は見ていた。
木野内梢は高校生のアルバイトである。千香も城森も成人しているため、この喫茶店では唯一の未成年だ。
マスターも少女を配慮するように少し眉を顰め、厨房の方へ視線を向けようとする。そのタイミングで、大人達の心配を払拭する大声が聞こえてきた。
「マスター! シュヴァルツが帰ってきたよ!」
その声に三人が視線を交わし合い、思い思いに頬を緩めようとする。
「ついでに迷子も一人拾ってきたみたい!」
だが、続いて叫ばれた台詞によって、和やかな空気は一転した。
「迷子~? 野良猫でも連れてきたのかしら?」
「ともかく、行きましょう」
マスターを先頭に、大人達は少女が呼ぶ裏口へと向かった。果たして、開け放たれた裏口の前には、喫茶店の制服を着たポニーテールの少女が立っていた。彼女の足下には、水を滴らせながらも平然としている黒猫の姿もある。
「うわ! シュヴァルツ、ずぶ濡れじゃないっすか」
「園花君、すみませんがタオルを用意してください。それで、梢君。迷子というのは?」
黒猫を一瞥してマスターは千香に使いを頼み、少女に先ほどの言葉の意味を訊ねる。少女は口で説明はせずに裏口の影に腕を伸ばすと、皆にも見えるように、その迷子を力強く引き寄せた。
いったいどれだけの時間この雨の中にいればそのようになるのか、濡れそぼった女子高生の姿に三者三様に息を呑む。
しかし、動揺した空気が流れたのは一瞬のことだった。事情を問い質すのは先送りにして、マスターが冷静に口を開く。
「園花君、タオルをもう一枚追加です。それからお風呂も沸かしてください。城森君は閉店の準備をお願いします」
「は~い。これは残業決定ねぇ」
「アイサーです」
するべきことを簡潔に指示された従業員二名は、早速行動に映るべく厨房から出て行った。
「梢君、ひとまず彼女を連れて中へ。身体を拭いたらホールへ来てください。温かいものを用意しますので」
「はい。ほら、こっち」
「あ、あの、わたし……!」
「ごちゃごちゃ言うな。もう手遅れだっつーの」
少女は尻込みしている迷子の手を強引に引いて建物の中へ入れ、裏口のドアを閉めた。
外の冷たい空気の流れが止まり、束の間の静寂が訪れる。
「では、申し訳ありませんが少し辛抱してください。シュヴァルツ、連れてきた責任をもって、園花君が戻るまで君も彼女達についていなさい。いいね?」
迷子の少女に一声掛けて、次にマスターは黒猫を見下ろした。その言い方は、迷子を拾ってきたという先の少女の言葉を、きちんと信じている口ぶりであった。
彼の言葉を受けた黒猫は、少女達の足下に座った姿勢のまま顔を上げ、金色の両眼を細める。それを了承と捉えたマスターは微苦笑し、後を任せてその場を後にした。