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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
三章 《黒猫》再訪
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《黒猫》再訪(7)

 明莉と千香と別れて、梢は一階へと下りた。

 ホールからは暖色の灯りが漏れており、人の気配に彼女は一瞬だけ足を止めたが、尻込みする思いを振り切って前に進んだ。 


「あ、梢ちゃん」


 カウンターの席に座っていた城森が梢に気付く。梢は目線を上げて彼に目で挨拶すると、カウンターの内側に視線を向けた。


「マスター。明莉、ご飯食べるってさ。いまは千香さんとお風呂してるよ」

「そうですか……。梢君、伝えてくれてありがとうございます。それから、申し訳ありませんでした」

「……うん、あたしもごめん」


 もう梢には、目を伏せて切々と頭を下げるマスターを責める気持ちはなかった。彼女は自分の気持ちを込めて短く謝罪し、勇司の隣に座った。


「勇司さんも、八つ当たりしてごめんね」

「気にしてないっすよ。梢ちゃんの方こそ、もう平気なのかい?」

「あたしは別に……最初から平気だよ。ところで沓掛さんは?」

「お帰りになられましたよ。お二人には日を改めて、またお詫びする旨を伝えて欲しいと」

「そっか……あたしも、謝んないとね」


 沓掛の不在にほっとしたような、そうでもないような複雑な心境で梢は吐息する。

 深く椅子に背中を預けて、ぼんやりと天井を見上げる。じんわりとした疲労が身体の奥から滲み出ており、心の弱り具合を自覚してしまう。


「……なんで、堪えるんだろう」


 気付けばそんな台詞を、梢は誰にあてるでもなく呟いていた。とりとめのない疑問の羅列が宙に浮く。


「死ぬほどの思いをしながら、堪える意味ってあるの? なんでその前に抵抗しないの? 自分だけが堪えればいいなんて……絶対に間違ってる……。そんな気持ち一人で抱えて、取り返しのつかないことになったらどうするのよ。そんなの、どうしようもないじゃない。遅いじゃない……」


 それが、明莉の境遇を聞いて梢が思う全てだ。母親を傷つけたくないからと、これからも少女は傷を負い続けるというのか。

 そんなことが、正しいとは思えない。他人に正しさを押しつけるのは傲慢だなんていうのは百も承知だ。それでも、梢には明莉の行為を認めることがどうしてもできなかった。


「明莉ちゃんの問題は、相当深刻みたいだね」


 まだ事情を詳しく知らない城森は、梢の表情だけを読んで言った。


「梢ちゃんは、明莉ちゃんを助けたいのかい?」

「助ける……? わからないよ。いったい、どうしたら助けたことになるのかなんて……」


 明莉を傷つける少女達を追い払うことを想像したが、それだけでは何も変わらないだろう。他人からの救いはきっかけになっても、永遠ではない。一時をしのげたとしても、そこに依存しては意味がない。

 結局のところ、自分を助けるのは自分なのだ。梢の至る結論は、いつも同じところに行き着く。

 手を差し伸べることはいくらでもできる。それを取る手も、立ち上がる足も、本人にしか持てないものだ。


「そうだなあ……梢ちゃんは、いま幸せかい?」

「幸せ?」

「うん。これは持論というか、体験談みたいなもんでね。ま、お説教みたいになっちゃうんすけど……自分は不幸だーって思ってる人が集まったところで、誰も幸せになんてならないんすよ。そこに救いがあったとしてもね」


 組んだ両手を頭の後ろに回して、城森も梢と同じように顔を上げながら、どこか懐かしむように語った。


「誰かを助けるってのは余裕のある人がやることだからね……。だったら、まずは胸を張って幸せだって言える人になった方がいいと俺は思う」


 下を見ればキリがない。自分よりも同じか、あるいは不幸な人を見つけたとしても、自分の人生は豊かになんかなりはしない。


「なんとなく予想だけど、梢ちゃんは明莉ちゃんの傷を、自分のものみたいに受け止めているんじゃないかな?」


 城森の言葉は一滴の水のように、梢の胸の内に落ちて波紋を生んだ。

 図星だったのかもしれない。


「共感はしてあげてもいい。でも、同じ不幸に溺れないようにだけは気をつけないといけないよ。それだと、相手を利用して自分の傷を誤魔化しているだけだ」


 だから、とそこで城森は結論づけた。


「明莉ちゃんを助けたいと思うなら、君がまず不幸から抜け出す方法を学ぶんだよ。そして、抜け出し方を教えてあげる。一緒に考えてあげてもいい」


 城森は柔弱そうに見える顔に、芯のある微笑を浮かべる。ぽんと優しく頭に手を置かれた梢は、反論を封じられたように大人しくなっていた。


「皆が不幸になる道よりも、幸福に向かう道を選びなさい。そのためになら、俺達はいくらでも力を貸すよ。ねえ? マスター」

「もちろんですよ」

「そういうこと。以上、マスターからの受け売りでした」


 梢から手を離して立ち上がった城森は、椅子から立ち上がると種明かしでもするみたいに両手を広げ、屈託なく笑った。


「さて、夕飯は何が食べたい? 皆で幸せになるための一歩だ。今なら何でもリクエストを聞くっすよ」



 剥き出しの背中に鼻唄を受けながら、明莉は気恥ずかしさをぐっと堪えていた。


「ん~、やっぱり見込んだ通りだったわね~。明莉ちゃんってば、いい身体してるわよ」

「え、えと……その、ありがとうございます……?」


 お互いに髪をタオルで巻いている以外は一糸纏わぬ姿で、湯船に浸かっている。明莉が前で、彼女を抱き締めるような形で千香が後ろだ。


 何の前触れもなしに「お風呂に入るわよ!」と宣言された次の瞬間には、こんな状況になっていた。

 一応、吐いてしまった明莉を綺麗にしようというものだったが、何のことはない。千香が一緒に入りたかった方が理由としては強い。

 とはいえ、汚れてしまっているのも事実なので拒否もできない明莉だった。


 湯船は二人が収まる余裕のある広さはあるが、距離を取るには十分とも言いがたい。さっきから肉感的な肢体を押しつけられ続けて、明莉はどきどきとしっぱなしだった。


「そう緊張しないでいいのに。リラックスしましょ。ほらほら~」

「ひゃぅ!?」


 肩を揉みほぐされて、明莉が変な声を上げてしまう。すっかり千香の餌食になってしまっているのだが、助け船を出してくれる梢はここにはいない。


「梢ちゃんも入ればよかったのにね~」


 心底残念そうな千香の間延びした声が、湯気に溶けるように響いていく。誘いこそしたのだが、返されたのは「いやです」の一言だった。

 てっきりもっと食い下がるのかと思ったが、千香はあっさりと梢の返事に頷いた。聞けば、千香が梢と風呂に入ったのは過去に一度だけらしい。


「園花さんは……こ、梢と付き合いが長いんですか?}


 本人のいないところで聞くのもルール違反かと思ったが、どうしても気になってしまい、つい明莉は質問していた。


「そうね~、梢ちゃんが《黒猫》に来てからだから、一年くらいかな~」


 まるで昨日のことを思い出すように、千香は明莉をそっと引き寄せながら語って聞かせた。


「実はね。梢ちゃんを《黒猫》に連れてきたのも、シュヴァルツなのよ」

「え? そうだったんですか?」

「そうよ~。今はちょっと丸くなったけど、出逢った頃の梢ちゃんはもっと気性が荒くてね~。野良猫の方がまだマシかもってくらい」

「もしかして、園花さんが梢を?」


 明莉の言わんとしていることを汲んで、千香は「ええ」と首肯した。


「いまの明莉ちゃんと梢ちゃんの立場に似てるかもね~。当時の私は、梢ちゃんのお世話係って感じだったかな」


 そう言われると、つくづく奇妙な縁だと思えた。迷子の明莉を拾ったのが梢なら、梢を拾ったのは千香というわけだ。

 梢が千香に頭が上がらないのも、そういう所に理由があるのだろうかと、明莉は大事そうに思い出を振り返る千香の顔を振り仰ぐ。


「気になる? 梢ちゃんのこと」

「え……と……はい。気になります。でも、勝手に聞いちゃダメっていうのは解ってますから……」

「いい子ね。そうしてくれると助かるわ」


 正直だが一歩引いた明莉の返答に、千香はゆるりと微笑んだ。


「これからも、梢ちゃんと仲良くしてくれると嬉しいわ。よろしくね」

「……頑張ります。でも、正直ちょっと不安かも……しれません」

「あら、どうして?」

「だって……名前で呼んでいいって言われましたけど、全然釣り合いはとれてないですし……わたし、弱くて、助けてもらってばっかりですから」


 確かに距離は縮まったと実感している。だが、出逢ってから今に至るまで、梢には世話を掛けっぱなしだと明莉は肩をすぼめた。とてもではないが、対等な関係ではないと思える。


「……じゃあ、明莉ちゃんはどうなりたいの?」


 そうやって声を沈める明莉に対して、千香は優しく問い掛けた。


「わたしは……」


 明莉が恐る恐る瞳を上向ける。その先には、何でも包み込んでくれそうな慈愛に満ちた目で笑む千香の顔があった。


「強く、なりたいです。誰にも迷惑をかけないくらい、強くなりたい」


 千香の目を真っ直ぐ見つめて、明莉はありったけの決意を込めて宣言する。

 千香は笑みを深めると、その健気な意思を丸ごと抱え込むようにして、明莉の背中に両手を回して華奢な身体を抱き寄せた。

「わぷっ」と声を漏らした明莉の顔が千香の胸に埋もれる。微かな抵抗に水面が揺らぐが、すぐに静かになっていた。

 湯の温かさに人肌の熱が加わり、明莉は宙に浮いたような心地だった。


「明莉ちゃん。私ね、あなたは強くならなくていいと思うの」

「……えっ?」


 まさかそんな事を言われるとは思わなかった明莉は、動揺に顔を上げようとする。けれど、千香が彼女の頭を優しく抱えるようにして、動きを封じ込める。


「だって、明莉ちゃんはもう十分に強いもの」


 そして千香が続けた言葉は、明莉にとって信じがたいものだった。


「ごめんね。実はふたりの話、聞こえちゃってたの」

「……そんな!」


 明莉の身体が恐れと羞恥にがくがくと震え出す。千香は「大丈夫よ」と明莉をあやし、落ち着かせるように優しく抱き締め続けた。


「本当にごめんなさい」

「…………いえ、大丈夫です。聞いていただいてよかったのかもしれません。自分からじゃ、話せなかったと思いますし……」

「ごめんなさいね……許してくれてありがとう」

「あの、それで……どういうことですか? わたしが強いって……」 

「だって、そうじゃない。今日まであなたは、たった一人で痛みに耐えてきたんですもの。そんな子が弱いはずがないわ」


 千香の抱擁が僅かに緩み、顔を上げた明莉を千香が見つめ返す。

 自分なんて強いはずがない。そう言いたげな少女へ、千香はきっぱり自分の思いを伝えた。


「だから明莉ちゃんは、もう少し弱くなることを覚えましょ?」

「弱く……」

「ますは、そうね~。自分を許すことから始めましょうか」


 そう言って笑うと、徐に千香は明莉の柔い頬に両手を添えて、ぐにっと笑みの形に持ち上げた。


「ふ、ふぉの花さん!?」

「あなたは何も悪くないわ。よく頑張ったわね」

「あ……」

「あなたが悪いと思っている自分を、ぜんぶ笑って許してあげなさい。困ったら誰かを頼りなさい。弱さを持つのは、決して恥ずかしいことじゃないんだから」


 少女の頬から両手を離し、千香はもう一度ぎゅっと明莉を抱き締めた。


「できれば親に頼るのが一番いいわ。明莉ちゃんが信頼して、愛しているのなら、なおさらね。子供に強かさを求める親なんてろくなもんじゃないんだから、弱いくらいで丁度いいのよ」

「でも……受け入れられなかったら……」


 それでも不安の影は忍び寄る。弱い自分を母親は許してくれるのか。情けない姿をさらして失望されるのではないか。

 誰かの言葉で簡単に変われるのなら苦労はしない。もしもという可能性の闇は、常に彼女の選択肢を掠め取ろうとしているのだった。


「そのときは、いくらでもお姉さんの胸を貸してあげるわ。お母さんには及ばないけどね。張り切っちゃうわよ」

「……ふふ、はい。ありがとうございます」


 瞳から溢れるものを我慢せずに、明莉は笑って千香の抱擁を受け入れる。ほんの少しだけ弱くなれる勇気をもらえた。そんな気がした。

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