《黒猫》再訪(6)
泣き震える明莉に対して、梢はどうしやることが最善なのか解らず動けなかった。
「悪い。あたしは、あんたの気持ちを汲んでやれない。でも、これだけは言えるよ。あんたは何も悪くない」
だからせめて、自分の中で渦巻く感情をできる限り言葉にして伝えようとした。
「親の愛情がどんなものなのか、あたしには皆目見当がつかないんだ。だから……ごめん。何を言ってやればいいのか解らない」
「大丈夫だよ。聞いて欲しいっていったのはわたしだから」
梢と絡ませていた方とは逆の手で目元を拭うと、明莉は寝返りを打って身体を横に向ける。そうして落ち込んで俯く梢と瞳を合わせた彼女は、くすりと笑った。
「だから謝らないで。これじゃ、いつもと立場が逆だね」
「ああ、そうかもな」
「木野内さんのお陰でだいぶ楽になった気がする。ありがとう。誰かに聞いてもらえるだけでも、心は軽くなるんだね」
「…………だな。あぁ……そうだ。ついでに言っとくよ」
明莉につられて口もとを緩めた梢は、ふと何かを思いついたように間延びした声を出し、迷った末に言った。
「苗字で呼ぶのはやめてくれ。実はあたし、自分の苗字が嫌いなんだ」
「え……それって……」
「あたしもあんたのこと、明莉って呼ばせてもらうからさ。いいだろ?」
梢は多くは語らず、明莉も訊こうとはしなかった。
お互いに重ね合った掌に力がこもる。やがて頷いた明莉は、気恥ずかしそうに小さく口を動かした。
「こ、梢……さん?」
「なんでだよ」
梢が苦笑する。
「丁寧なのは偉そうだから嫌だって言っただろ。呼び捨てでいい。いや、そうしろ」
「……梢」
「ああ。上出来だよ、明莉」
まだ違和感を覚えるくらいに拙い言い方だったが、梢は返事をして力強く明莉の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「く、くすぐったいよ」
「うるせえ。面倒なこと聞かせてくれやがって。これくらい甘んじて受け入れろ」
有無を言わさず明莉の髪を乱し、梢が声を弾ませる。明莉も決して嫌がりはしなかった。
ふたりの意識の外をつくように部屋のドアがノックされたのは、丁度そのときだった。
「梢ちゃん、明莉ちゃん。入るわよ~」
「千香さん!?」
叫んだ梢が高速でベッドから飛び退く。さっきまで明莉と繋いでいた右手には汗が滲み、彼女はそれを背中に隠した。
「ちょっと暗いわね。電気付けるわよ~」
千香は断りを入れてからドア横にある電灯のスイッチを入れた。照明の白い光が、ぱっと部屋に広がる。
「ん~? 梢ちゃん、顔が赤いわね。楽しそうな声が聞こえていたけど、何かいいことでもあったのかしら?」
「……何でもないです。何の用ですか?」
頬の熱気を振り払うように梢はかぶりを振った。明莉も布団で半分顔を隠すようにしており、これでは何かあったと言っているも同然だった。
「そろそろお夕飯の準備もしないとだからね。明莉ちゃん、何か食べられそう?」
「あ……は、はい。だいぶ気分はよくなりました。大丈夫だと思います」
「それならよかったわ」
「ちょっと待ってください。千香さん」
さらりと流してしまいそうだったが、会話の中に聞き逃せない台詞があり、梢が待ったをかける。
「夕飯の準備って、千香さんも泊まる気なんですか?」
「あら、ダメ?」
「いや……別に、そういうわけじゃ、ないんですけどね」
梢に付き添う形で千香が《黒猫》に泊まるのは、別に初めての事ではなかった。その行為そのものに問題があるわけではない。
ないのだが、梢の目に映る千香の笑みは、何か企んでいるものだった。
「何も企んじゃいないわよ。私は女子高生二人と親睦を深めたいだけなんだから~」
「言ってますよね!? はっきりと!」
「いいじゃない。なんだかいつの間にか、二人とも良い感じになってるんだもの。私も混ぜてよ~。ねえ、明莉ちゃん」
「え!? あ、あの、その」
「ちょっと千香さん! 病み上がりなんだから明莉にちょっかい出さないでください!」
すすっと音もなくベッドに近付いて来た千香に、明莉は実に分かりやすく慌てふためく。そこへ梢が割って入ったのだが、言った瞬間彼女は自分の失言に気付いてしまった。
千香は口もとに指を添えてにんまりと弧を描くと、あっさりと身を引いていた。
「ほ~ら、やっぱり仲良くなってる。いいわよね~、青春って。私も十年くらい戻ってやり直したいわ~」
「~~!」
口を開けばその数だけ墓穴を掘らされてしまう。梢は唇を噛み締めてますます顔を紅潮させた。
「…………ふふっ」
「あら?」
「明莉?」
そのとき、唐突にくぐもった笑い声が聞こえる。千香と梢が声のした方を見ると、布団を顔にまで被せた明莉が、ぷるぷると必死で笑いを堪えようとしていたのだった。
「ご、ごめんなさい。でも、もう無理です……おかしくて」
「あんたねえ、あたしがからかわれているのがそんなに面白いわけ!?」
「あはは……そ、そうじゃないんだけど……うん、でもそうなのかな。わかんないや」
「いいのよ、明莉ちゃん。楽しいときに笑っちゃいけない理由なんてないんだから、遠慮しなないでどんどん笑ってね~」
「は、はい……そう、します」
布団から顔を出した明莉が、初めて心からの笑顔になる。それは待ち望まれていた蕾が、ようやく可憐な花を開かせた瞬間だったのかもしれない。
ベッドの傍らで我関せずと伏せた黒猫が、ぴくりと耳を動かしていた。




