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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
三章 《黒猫》再訪
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《黒猫》再訪(4)

 昼食を終えた明莉は状況に流されるまま、沓掛と二階の洋室へと引き返すことになった。

「何かされそうになったら大声を出しな」と、どちらにとっても笑えない冗談を言った梢はバイトに入り、いまは一階にいる。

 明莉は緊張を禁じ得なかった。やっぱり、他人同然の男性と一室で二人きりという状況は、どう考えても特殊だろう。


 部屋の真ん中にクッションを二つ並べて、明莉と沓掛は教師と生徒が面談でもするみたいに向かい合った。お互いに正座である。


「応じてくれてありがとうございます、門原さん。まずは私のことを話しましょうか」

「は、はい」


 始終穏やかな空気をまとっている沓掛だが、カチカチになった明莉の身体はなかなか解れそうもない。


「おや?」

「え?」


 そこでふと、明莉の背後に動くものが目について沓掛が目を眇めた。すり、と何かがふくらはぎを這うように触れて、明莉が驚き振り返る。

 ベッドで寝ていたはずの黒猫だった。


「これでは、三者面談のようですね」


 まるで保護者のごとく明莉の隣に寄り添った黒猫に、沓掛は朗らかに笑った。


「問題ないようでしたら、このまま続けましょうか?」

「はい……大丈夫です」


 明莉は頷いた。膝に乗られた前例もあるので、たぶんこの黒猫は動かない気がした。それに、側にいてくれた方がいくらか気が楽になるというのもある。

「では」と前置きして、沓掛は本題を切り出した。


「公務員といっても幅が広いので、正確に言いますね。私は児童福祉に関する仕事をしています。児童の悩みに関する相談員だと思ってください」


 なんとなく、予期するものがあったのかもしれない。世の中にそういう場所があるということは、明莉も知っていた。

 明莉は大きくなる自身の鼓動を感じながら、沓掛の言葉を受け入れた。


「そうだったんですか……」

「約束ですので、梢ちゃんに関することは話せません。仕事上、知り合いになったとだけ言っておきます。どうか理解してあげてください」

「い、いえ……わたしも、その……興味本位で、調子に乗っちゃって……あとで謝らないと……って思ってます」


 お互いに頭を下げ合う形になり、奇妙な間が生まれてしまう。気を取り直して一度咳払いをしてから、沓掛は話を再開した。


「ありがとうございます。坂本さん……ここのマスターとは昔にご縁があってね。たまに相談を受けさせてもらっているんです」

「それって、やっぱり……」

「はい。先日の夜、雨の中傘も差さずにふらふらとしていた子を保護したと。相当思い詰めていたようだったとも聞いています。間違いありませんか?」

「…………はい」


 明莉は素直に首を縦に振る。その事実は既に伝わっているのだろうし、今更誤魔化しようもない。


「申し訳ない。責めてはいませんよ。私はあくまでも相談を受け、門原さんに協力する立場です。あなたを問い詰めたり、責めたりする権利は持ちません。あなたが必要ないと言うのであれば、踏み込むこともしません」


 すっと笑みを口から消した沓掛の声に、真摯な響きが帯びる。


「その上で、改めてお訊ねします。どうしてそのようなことを?」

「それは……」


 長い沈黙。明莉は俯いて口を噤んだ。


「いいですよ、大丈夫」


 沓掛は表情を弛緩させて、穏やかな笑みを戻す。


「それでは、少し雑談しましょうか」

「雑談、ですか」

「はい。今は秋ですが、門原さんは花粉症になったことはありますか?」

「いえ……ないですけど」

「それは羨ましいですね。秋はまだましなんですが、春は大変でして。そうそう、猫が花粉症になることもあるそうですよ」

「へえ……そうなの?」


 明莉は黒猫に視線を下ろして訊ねてみたが、答えはない。依然として黒猫は物静かに座った姿勢を保っていた。


「花粉症の解説なんかで、よくコップを使った例がありますが、知ってますか?」

「あ……はい。知らない間に花粉はどんどん溜まっていって、溢れたタイミングで発症する……みたいなものでしたっけ」

「ええ、厄介なのが目に見えない。自覚もなく症状が進んでしまうというところですよね。しかも、花粉の溜まったコップはひっくり返せないのですから」

「…………」


 本当に、ただ雑談に興じようとしているわけではないのだろう。沓掛が何を言わんとしているのか、明莉は少しずつ表情を曇らせていく。

 すると、傍らの黒猫が動く気配がした。身体を明莉の方に向けたかと思うと、ちょいちょいと前脚を上げて明莉の腿を乗せようとしている。

 彼女は正座の姿勢で両膝に手を置いていたため、それをどけろという催促だった。


「ちょ、ちょっと……」

「膝を崩して大丈夫ですよ。そのままの姿勢では辛いでしょう」


 沓掛に促されて、明莉はやむなく「失礼します……」と膝を崩した。そして早速、そこへ黒猫が飛び乗る。


「ええと、何の話だっけ? ああ、そうそう。コップの話です」


 しんみりとしかける空気の中、沓掛が話を続ける。


「私の仕事も、これと似たようなところがありましてね。相談があって、はじめて分かるんですよ」


 明莉は黙ったまま、心を落ち着けるように黒猫の背に手を添えて、沓掛の話に耳を傾けていた。


「第三者の方からの通報という形も増えていますが、児童本人からの相談もあります。不幸中の幸いとは正直言いたくありませんが、本人が自覚をもって相談してくれるのはよいほうなんです」


 沓掛は必要以上に感情を殺さず、しかし落ち着いた声で明莉に語りかける。


「ですが……自分の心の傷の過多に気付かない子も多い。決して無自覚ではないのでしょう。ただ、大丈夫だと、その一言で済ませてしまう。そうしていつか許容できる限界を超えてしまうのです」


 その心が、限界を超えてしまえばどうなるのか。明莉の胸の奥深くがざわついた。


「門原さん。私はあなたにとって赤の他人に過ぎません。ですが、周りの誰にも頼れない状況にいる方に手を差し伸べられる第三者として、我々はいます」


 背筋を伸ばした姿勢を崩さない、沓掛の目は真っ直ぐだった。


「保護したあなたに危うさを感じたから、坂本さんはこの場を設けてくれました。杞憂であるのならそれで構いません。ですが、そうでないのなら、話を聞かせてくれませんか?」

「わたしは……そんな……」


 俯いたまま、明莉が声を零す。


「あの日は……嫌なことがあって……本当に、それだけです。わたし、そこまでだいそれたことを考えていたわけじゃ、ありません。自分でも、どうしてあんなことをしていたのか……よくわからなくて」


 そこまで言うのがギリギリだった。言葉とは裏腹に、脳裡に思い出したくもない当時の情景が浮かびかける。

 腹の底からどす黒い何かが込み上げそうになる。心臓の音で自分が何を言っているのか聞こえない。頭が真っ白になって視界が濁る。


「……っ!!」


 散り散りになりそうな理性をかき集めて、明莉は死にそうな思いで立ち上がると駆けだしていた。

 腿から跳ねるように下りた黒猫も、振り向いて明莉の名を呼ぶ沓掛も一顧だにせず、洋室の横にあるトイレへと飛び込む。

 堪えきれず、明莉は腹に渦巻く感情ごと、胃の中のものを吐き出していた。


「門原さん! しっかりして!」


 明莉に追いついた沓掛が彼女の背を擦り介抱する。だが、明莉の胃は痙攣を続け、息を吸おうとしても込み上げる嘔吐感が彼女を苦しめた。


「何やってんだよ!」

「梢ちゃん!?」


 そこへ轟く激しい怒声に、沓掛が振り返る。慌ただしい気配を感じ取ったのか、いつの間にか二階に来ていた梢は沓掛を押しどけて、明莉の方を抱くようにして支えた。


「沓掛さん、水もらってきて! あたしが後始末しとくから!」

「……わかった。頼んだよ」


 己の失敗を自戒する暇はない。言葉を呑んだ沓掛は、梢に明莉を託して急いで一階へと向かった。


「……っ……なさい……、ごめんなさい……」

「おい、ベッドまで行くぞ。立てるか?」


 少しだけ呼吸が落ち着いてきた明莉に梢は肩を貸して、ゆっくりと立て膝の体勢から腰を上げる。まだ明莉は足に力が入らないようだったが、彼女の身体は軽かった。


「……ごめんなさい……お母さん……」


 梢の声は届いていないのか、彼女に支えられる明莉は譫言のように繰り返し、頬に涙を垂らしていた。

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