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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
三章 《黒猫》再訪
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《黒猫》再訪(2)

 自然と引き締められた顔で、明莉は《Schwarze Katze》と書かれた喫茶店の看板を見つめていた。

 シュヴァルツ・カッツェ。ドイツ語で意味は黒猫というらしい。梢は彼女に、マスターからそう教わったと話した。


「気取った名前だろ? つっても、みんな《黒猫くろねこ》で通してるけどな」


 まだ一度、それもその時は夜だったため、明莉が《黒猫》の外観をまともに見たのはこれが初めてだった。

 閑静な住宅地の奥まった場所にある二階建ての三角屋根の家。洒落たカフェ風の建物はマスターの自宅を改築して、一階が開放されている。入口の前には、ランチメニューがやたらポップな字体で書かれた黒板が置かれていた。


「いらっしゃいませ~。あら、二人様ですか~?」


 梢が先頭となって入口のドアを開けると、来客を告げるベルが鳴る。まだ昼の時間には少し早いため、客はいないようだった。

 そして、おっとりとした声で二人を出迎えたのは、ウェイトレス姿の園花千香だ。彼女の芝居がかった口調に明莉が少しまごつく。梢は慣れたもので、「はいはい」と軽く流してカウンターの方へ進んだ。


「マスター、お疲れ様です。昨日はすいませんでした」

「ああ、梢君。お疲れ様です。なに、大丈夫ですよ。君達が無事で何よりでした」


 カウンターの奥で作業をしていたマスターが振り向き、穏和な微笑を浮かべて応じる。


「門原さんも、ようこそいらっしゃいました」

「い、いえ! その節は大変お世話になりました。今日も、その、本当に泊めて頂いても良かったんですか……?」

「それこそ、問題ありません。寂しい爺の一人暮らしですからね。自宅が華やぐのであれば歓迎ですよ」

「は、はい」


 マスターがおどけた調子で笑んでみせると、明莉の表情からもようやく硬さがとれ始めたようだった。


「梢君。よければ先に門原さんを二階に案内してあげてください」

「了解です。そんじゃ、ついてきて」

「明莉ちゃん、また後でお話しましょうね~」


 マスターと千香に頭を下げて、明莉は店の奥へと先導する梢を追う。途中で厨房も覗き、城森勇司に挨拶をするのも忘れなかった。

 店から住居スペースへ通じる玄関口で靴を脱ぎ、二人はスリッパに履き替えて二階への階段を上る。


「そういえば、二階にはあがったことあったんだっけか」

「う、うん。お風呂をお借りしただけだけど……」

「ま、それどころじゃなかったよな」


 からかうような梢の物言いに、明莉は口を閉ざして彼女の背に抗議の眼差しを向けた。そうこうしている内に階段を上りきり、二階へ着く。


「そっちの横にあるのがトイレね。で、ここが今日泊まる部屋な。荷物は適当に置いとけよ」


 見える範囲を軽く案内をしてから、梢は正面に見えるドアを開けた。

 明莉が通されたのは、カーペットが敷かれた簡素な洋室だった。家具はベッドとクローゼットに化粧台のみ。あえて余分なものは省かれているようだった。

 静かで落ち着いた空間。見る人が見れば冷たいと思うかもしれない。だが明莉は、そこに一階の店の雰囲気に通じる、人が醸し出す温かみのある空気を感じていた。


「木野内さんも、ここに?」

「部屋はここしかないからな。そうなる」

「そ、そうなんだ」


 明莉は鞄を部屋の隅に置いて、会話の切れ間に部屋をざっと見渡す。すると、清潔に保たれて寝心地が良さそうなベッドの真ん中に、何やら黒い物体が鎮座しているのを見つけた。


「あの、あれって……」

「ん? ああ、シュヴァルツじゃねえか。いないと思ったら、ここで寝てたのかよ」


 窓から差し込む陽射しが心地よいのか、丸まった黒猫は気持ちよさそうに眠っていた。 


「でも、ドアは閉まってたんじゃ……あ」


 もしやずっと部屋に閉じ込められていたのだろうかと、ふと明莉が疑問に思ってドアの方を振り返る。しかし、それは杞憂であるとすぐに判明した。

 何のことはない。部屋のドアの下部には、猫用の扉が造られていただけだった。


「心配することはねえよ。こいつはあたし達なんかより、よっぽど自由だからな」


 気ままな黒猫を羨んで言った梢は、ベッドの淵に浅く腰掛けて黒猫の腹部分をそっと撫でる。黒猫が起きる気配はないが、ぐるっと喉を鳴らして身じろぎをする姿を見せていた。


「あ、あの……木野内さん」

「? どうしたよ」


 少女と黒猫から少し離れた位置で様子を見ていた明莉が、遠慮がちに口を開く。梢に問われた明莉は、恐れ多そうに切り出した。


「わたしも、撫でてみていいかな……?」

「……わざわざ訊くことかよ。いいんじゃねえの。つーか、前にも膝の上に乗られてただろ」

「うん……実は、あのときの感触が忘れられなくて……」


 少し横にずれた梢の隣に腰掛けて、明莉は緩みきった顔で幸せそうに黒猫を優しく撫で始めた。


「美人さんだね。シュヴァルツちゃんは何歳なの?」

「三歳くらいじゃなかったかな。ああ、そうそう。こいつの正確な名前は、シュヴァルツ二世なんだぜ」

「に、二世?」


 どこの王侯貴族なのだと思わず明莉が聞き返すと、梢もおかしそうに笑った。


「あたしがここに来る前にも、黒猫がいたんだってさ。そいつが初代店主で、こいつの親猫。子どもで真っ黒なのはこいつだけだったってんで、二代目店主に選ばれて店に残ったんだと」

「そうなんだ……その、親猫は……」


 黒猫を撫でる手を止める明莉の顔が微かに曇る。梢は「違う違う」と彼女の誤解を払うように首を振った。


「あたしは会ったことはないけど、いまはマスターの息子さん夫婦のとこにいるってさ。他の子たちも、店の常連さんとか、信用できる里親のところにもらわれてる」


 明莉を安心させた梢は立ち上がり、ぐいと両腕を頭上にを伸ばして身体をほぐした。


「さて……、ぼちぼち着替えるかな」


 梢はクローゼットを開けて、キャップと上着をハンガーに掛ける。続けてセータとジーンズも脱いで、無地の長袖Tシャツに下着姿となった。

 ハンガーからストレッチパンツ、引き出しからブラウスを出してさっと制服に着替え、化粧台の前でリボンタイと髪型を整えて全身を点検。ここまでの行程にかけた時間は三分もなく、実に手慣れたものだった。


「ところで、貸してた制服は持ってきてるのか?」

「あ……うん! ちょっと待って。すぐ出すから」


 黒猫を起こさないよう、明莉はそっとベッドから離れて小走りに自分の鞄へと向かった。


「えっと、はい。これも……返すね」

「はいはい。確かに」


 明莉から両手で差し出される、丁寧に折りたたまれた《黒猫》の制服。その上にちょこんと乗せられているのは、まるで梢の趣味ではないレースつきのショーツである。

 よりによってこんなものを貸していたとは。梢は忌まわしい物を見る目で制服ごとひったくるように受け取ると、無造作にクローゼットの引き出しへ突っ込んだ。


「本当に、寝泊まりしてるんだね」

「ん、ああ……そうだな。毎週、休日はこんな感じだよ」


 勝手知ったる梢の振る舞いを目の当たりにして、明莉の口から改めて感想が出てくる。

 梢は週末を《黒猫》で過ごす。これは彼女がバイトを始めてから続けられている。今回のイベントは、そこへ明莉が同伴する形になっていたのだった。

 はじめその事を聞かされて、明莉はすぐに信じられなかった。自分と同じとしの少女が、他人の家で寝泊まりするなんて現実味がわかなかったのである。


 ただ、ここまで梢と接するうちに、口に出して訊きこそはしないが彼女にも何か人に言えない事情があるのではないかと、明莉は感じるようになっていた。

 きっかけは、昨日の放課後の事件が大きい。つっけんどんな態度が目立つ梢だったが、あのとき見せた剥き出しの刃物みたいにぎらついた瞳は脳裡に焼き付いている。


 本当にあれは、自分をイジめる少女達だけに向けられた感情だったのだろうか――と。


 明莉は芽生えようとしている他人への興味に、僅かな戸惑いを覚えていた。自分自身に余裕などないのに、おかしな話だった。


 しかし、そんな明莉の思いとは他所に梢はふっと短く息を吐き出し、この話題を切り上げた。


「そんじゃ、昼にしようぜ。勇司さんに何か作ってもらおう」

「え……? それって、大丈夫なの?」

「問題ねえよ。客として金は払うんだから。あんた、あたしを何だと思ってるんだよ」

「ご、ごめん。そうだよね……あはは」


 梢にじろりと睨まれて、明莉が愛想笑いをする。二人は起きる様子のない黒猫を洋室に残し、一階へと戻った。

 ホールには既に少数の客が入っており、千香が給仕する姿も見られた。


「あら、梢ちゃん。もう着替えたのね」

「ええ。とりあえず昼にしようと思ってますけど、手伝いましょうか?」

「これくらい平気よ~。それより、梢ちゃんに御指名入ってるわよ」

「は?」


 千香に声を掛けると、彼女はにこやかに応じてホールの一番隅にあるテーブル席を手で示した。何の事かと梢は首を傾げてみると、そこには彼女もよく知る常連客が座っていた。

 眼鏡を掛けたサラリーマン風の男性だった。年齢は四十を越えているだろうか、上品そうなスーツを着ている。

 梢に気付いた男性は、人懐っこそうな笑みを見せた。その穏和な佇まいは、店の雰囲気に馴染んでいるように明莉は思った。


「もしかして、マスターが呼んだの?」

「さてね~。ともかく挨拶はしてきなさいな」


 梢の質問をはぐらかした千香は、接客に戻っていく。急に神妙な顔つきとなった梢に、明莉は聞いていいものか迷いながらも声をかけた。


「木野内さん、知ってる人なの?」

「まあ……なんていうか、沓掛くつかけさんって言って、一応世話になってるオジさんだよ」


 答える梢の声は、彼女にしては珍しく歯切れの悪いものだった。

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