《黒猫》再訪(1)
早朝の秋空は青ざめていた。
まどろみに支配されている半覚醒の意識のまま、寝返りを打った梢が見たデジタル時計の数字は、五時半を示していた。
自室として割り当てられた座敷は、梢が安らぎを得られる数少ない空間の一つだ。寝間着用の長袖Tシャツとジャージのまま、のそのそと布団から這い出して縁側の雨戸を開けると、冷たく濡れた空気が肌に染み、下ろした髪を微風がくすぐる。
今日は土曜日。この日、学校は休日だった。
「あら、こずちゃん。今朝は早いのね」
梢が腕を軽く広げて深呼吸していると、そこへゆっくりとした声が掛かる。振り返ると、割烹着姿の老女が笑みを向けて歩いて来るところだった。
「おはようございます。お祖母さん」
「おはよう。ごめんなさいね、朝ご飯の用意はまだなのよ。すぐに支度するわね」
「いえ、大丈夫ですよ。たまたま目が覚めただけですから。なんなら、今日はあたしが作りますよ」
「ありがとう。でも、気を遣わなくていいのよ。今日はお昼からお仕事でしょう? ゆっくりしておくといいわ」
「……はい。その前に用事があるので、早めに出るつもりです」
「用事? ええ……わかったわ。支度ができたら呼ぶわね」
梢の祖母は、孫の申し出を人当たりの良い微笑をもってやんわりと断り、台所の方へ静に歩いて行く。梢はせめて手伝いでもと口を開こうとしたがタイミングを逸し、やや曲がり始めた祖母の背を黙って見送った。
梢が中学を卒業してから約一年半。
両親が住む実家を離れて、母方の祖父母の家での生活。最初は馴染もうと努力はしていたが、最近では割り切った感情の方が強くなりつつある。
もう一度朝の空気を深く吸い込み、梢は着替えるために座敷へ引き返した。
朝食は和食。日曜を除き、祖父母と三人で食卓を囲むのが通例となっている。
祖父は無口で眉間に皺を寄せていることがほとんどで、たいていは二、三度言葉を交わして聞くべきことを聞けば黙ってしまうような人だった。
「今日も、あちらに泊まるのだな?」
「はい。そのつもりです」
「あまり坂本さんに、ご迷惑をお掛けするんじゃないぞ」
「……わかっています。気をつけているつもりです」
「そういえば、こずちゃん。用事があるって言っていたけれど……」
この日も例外ではなく、梢は祖父と取り決めのような会話をしていたが、そこへ祖母の横槍が入った。きっと、朝食前の何気ない会話が引っかかっていたのだろう。
「ええ……。ちょっと、その」
「何かやましいことでもあるのか?」
「いえ! そんな、違います」
探るような祖父の視線に、梢の声が大きくなる。彼女は誤解を解くため、いったん朝食の箸を置き、一呼吸置いてから祖父の目を見た。
「……友人をバイト先に呼ぶことになったので、迎えに行くだけです」
「まあ、お友達?」
「はい……、そうです」
目を見開く祖母に頷き、梢は改めて祖父を見る。変わらず祖父は眉間に皺を寄せたままで、押し黙っている。梢はそれ以上、余計な説明は付け加えず彼の言葉を待った。
「そうか。どういう子なんだ?」
「どうって……普通の女の子ですよ。ちょっと、抜けてるところはあるかもですけど」
「それは、大丈夫なのか?」
「……どういう意味ですか?」
「その子と友人になって、梢自身が大丈夫なのかと訊いている」
「え……と」
いつになく喋る祖父に、梢も彼と似たような顔となる。そこへ、またも祖母が助け船を出すように口を挟んできた。
「ちょっと、あなた。そんな言い方はないでしょう。こずちゃんにお友達ができたんですよ。喜んであげないでどうするんですか」
「誰も悪いとは言っていない。だが、今の梢の状況を、お前も理解しているだろう」
「だからって、そんな否定するように言わなくても……」
「否定はしていない。大丈夫かと訊いただけだ」
「あの、心配をお掛けして申し訳ないと思っています。でも、本当に大丈夫ですから……」
にわかに剣呑になる老夫婦の空気に、言い争いが発展しないよう梢が頭を下げる。
これもまた、この家ではよく起こりうる光景であった。
「……ならいい。くれぐれも、軽率な真似はするんじゃないぞ」
「はい、気をつけます」
矛先をおさめてくれた祖父に、真摯な思いで梢は首を縦に振る。世話になっている老夫婦の期待を裏切るような真似はしたくない。それは偽らざる少女の本心でもある。
朝食の時間が再開される。重たげな沈黙は、梢の箸の動きを鈍らせた。
◆
午前九時。梢は予定していたよりも早く家を出ることにした。
バイト先の《黒猫》には電車を乗り継いで一時間弱はかかる。入る時間は午後一時からのため、通常であればまだ早すぎる。
だが、最初に向かう目的地は《黒猫》ではない。祖父母にも話した通り、今日は迎えに行く人がいる。
……とはいえ、やっぱり早かったな。
門原明莉の暮らすマンションの近くにある公園が、彼女との待ち合わせ場所だった。時間が余ることを考えて徒歩で来てみたが、それでも思っていたより早く着いてしまった。
梢の格好は、白のセーターに暗色のナイロンジャケット。下はスキニージーンズにスニーカー。被ったキャップの淵からは、結わえた茶髪が飛び出している。着飾ることを好まない彼女の姿は、遠目からは線の細い少年に見えたかもしれない。
公園内に人気はまだないが、今日は週末だ。しばらくすれば子供達も集まってくるだろう。梢は木陰のベンチに座り、深閑とした時間の流れにしばし意識を委ねた。
昨日の放課後、結局梢と明莉は《黒猫》には行けなかった。
教室の後片付けを終えたときには下校時刻ギリギリだった。その頃には明莉の気分も大分落ち着いたのだが、梢はそこで彼女を放り出すほど無責任にはなれず、結局家まで付き添った。
予定が変わって欠勤の断りまでいれることになってしまったが、電話に出たマスターは二人が無事なことだけを確認し、詳しい事情は聞かずに許可してくれた。
そして、代替日として明日――つまり今日。
学校も休みということも手伝い、そっちの方がゆっくりできるだろうと、マスターからあるイベントを持ちかけられた形で予定は繰り越されたのだった。
「あたし、何やってんだろうな……」
手持ち無沙汰となった梢は、片手でスマートフォンを弄り出す。高校生になって祖父母から買い与えられたものだが、登録されている連絡先は二桁にも届いていない。
内訳の大半は《黒猫》の面々。そして昨日、門原明莉が最新の登録相手となった。
同じ年頃の相手では初でもある。交換する際、待ち合わせに連絡できなければ困るだの、何のかんのと言い訳がましい理由を並べてしまったのには、我ながら呆れ果てるしかない。
祖父母には友達などと口走ってしまったものの、明莉の存在をどう捉えるべきなのか、まだ梢は結論を出せないでいた。
だが、行き掛かり上どうしようもないとは、もはや言うまい。
「……木野内さん?」
「あ……」
控えめな少女の声。どれくらい煩悶としていたのか、梢は声をかけられるまで、彼女の存在に気付かなかった。
明莉の私服は、アイボリーのニットをインナーにした、チェック柄の丈の長いワンピースだった。膝下からは黒タイツに覆われた両足が覗き、ファー付きのショートブーツを履いている。
全体的な色味は梢と同じく大人しいが、装いは真逆で、いかにも少女らしさを絵に描いたようだった。
「ごめんなさい、待たせたみたいで」
「いや、あたしが勝手に早く来ただけだよ。えっと……」
腰を上げた梢は明莉と向かい合い、そして視線を彼女の後ろへと動かした。
明莉は一人ではなかった。もう一人、少女に付き添う形で、ぴしっとスーツを着こなした女性がいたのである。
「明莉、お友達ってその子なの?」
「うん。えっと……木野内さん、紹介するね。わたしのお母さん」
「はじめまして、木野内さん。明莉の母の陽和です」
大人の女性から折り目正しくお辞儀をされて、梢は虚を突かれた思いがした。動じそうになる心を抑えて、素早くキャップを脱いで礼を返す。
「いえ、こちらこそ……はじめまして。木野内梢です」
「ごめんね……わたしは、来なくていいって言ったんだけど……」
「そうはいかないでしょう。挨拶ぐらいはしておかないと。木野内さん、娘がお世話になっているみたいで、本当にありがとうね。この子の性格だから、学校でうまくやれているか心配で」
母親なだけあり年はそれなりに重ねているはずだが、綺麗な人だと梢は率直に思った。溌剌とした笑顔は、どこか風格すら感じられる。
「だから、急にお友達とお泊まりしたいって言われて驚いたわ。でも、少しだけ安心もできたの。私も、もっと家に居られたらいいんだけど、なかなかそうもいかなくて……このあいだもこの子の誕生日だったのに……って、いけない。あなたに愚痴を言っても仕方ないわよね、ごめんなさい」
「も、もう……お母さん。そろそろいいでしょ。早く行かないと、お仕事遅れるよ?」
「あら、いけない。そうね……じゃあ、お母さんは行くけど、粗相をしないようにね。木野内さん、明莉のことよろしくお願いします。今度また、きちんとお礼させてね」
「あー……、はい。どうぞお構いなく。お仕事頑張ってください」
「ありがとう。あなたみたいな子が、明莉のお友達になってくれて良かったわ。それじゃあ、またね」
早口で捲し立てるように喋り続けていた明莉の母は、最後に必要なものを詰めた鞄を娘に託すと、手を振って職場へと赴いていった。
突然の嵐から抜け出したように、緊張感から解放された梢がほっと気の抜けた息を漏らす。すると、それをどう受け取ったのか、頬を赤らめた明莉が謝罪した。
「木野内さん、あの、ほんと……いきなりごめんね……」
「何に対して謝ってんだかしらねえが、気にすんなよ」
すぱっと中指を弾く真似をすると、明莉は「うっ」と息を呑んで小さく顔を仰け反らせた。彼女の反応にくぐもった笑い声を零した梢はキャップを被り直し、素直な感想を口にする。
「驚いたのは確かだけどな。いい母親じゃねえか」
「……そう見える?」
「あたしにはそう見えたぜ。違うのか?」
「ううん、そんなことない。自慢のお母さんだよ」
控えめだが、はっきりとした意思のある声で言い切り、明莉は首を振った。
「だから……、悲しませたくないんだ」
そよ風に流されてしまいそうな程の呟きだったが、梢の耳にはちゃんと届いた。
ふと気付けば、小さな子供達のはしゃぎ合う声が聞こえ始め、彼等に付き添う母親達の姿も見られるようになっていた。
「行くか」
「……うん」
梢の呼び掛けに、明莉が頷く。
二人は自然と横に並びあって、歩き出した。




