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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
プロローグ
1/37

迷子と黒猫

 少女は雨に濡れていた。


 胸元に薄いピンクのリボンが添えられた白いシャツに、紺色のブレザー。膝を隠すチェックのスカート。

 それは近隣の公立高校の制服であり、午後四時を過ぎたこの時刻、少女が下校途中であることは瞭然だった。


 そして、傘を持っていない少女が普通ではないことも、また確かだった。


 十月も半ばを過ぎ、冷たい空気を纏った雨は少女を容赦なく打ち続けている。しかし彼女は家路を急いでいるわけでもなく、むしろその足取りはたどたどしかった。ふらふらと、帰る場所を失った迷子にさえ見える。


 雨を吸ったセミロングの黒髪は重みをもって俯きがちな顔にかかり、少女の表情を隠していた。肩に提げられた学生鞄も鉛を詰め込んだかのような重さになっていたが、彼女がそれらを一切気にすることはなかった。

 大きくできた水たまりも避けずに進み、ぐしょぐしょになったローファーでアスファルトを踏みつけていく。

 通学路はまったくの無人ではない。現に何人かの通行人は少女とすれ違い、何度も振り返っていた。


 にもかかわらず、誰も彼女に声を掛けようとはしなかった。

 少女はその場で蹲っているわけでもなかったし、家に帰る途中なのだ。きっと傘は忘れたのだろうと一瞬だけ気に掛けた振りをして、それぞれの道を行き急ぐ。

 誰もが少女の存在を見て見ぬ振りをして通り過ぎていった。面倒事には関わりたくないという本能的な部分で、少女は忌避されていたのだろう。

 事実として、もう次の一歩でくずおれてしまうのではないか。たった一声のきっかけで、取り返しがつかなくなるような危うさが、少女からは醸し出されていたのだった。


 少女――門原明莉かどはらあかりは、家とは真逆の、本来辿るべきではない方向へ進んでいた。

 ただ、家に帰りたくないと思って、それ以外に方法が思いつかなかったから、そうしていただけだった。

 無数の雨粒に、明莉の視界は濁りきっていた。これからの行動に指針などあるはずもなく、足下から這い上がる寒気が、彼女の逃避する心を現実へと引き戻そうとしてくる。

 足を止めてはいけないと、明莉はそれだけを己に言い聞かせていた。

 どこでもいい。遠くへ逃げなくてはいけないから。

 誰にも追いつかれないくらい、遠く、遠くへと。

 どうかそれまで雨よ止まないでと、明莉は荒ぶる黒雲の空を仰ごうとして――


 その足を止めた。


 ほんの二、三メートル前方は丁字路になっており、明莉よりも背の高い塀が聳えている。

 彼女の視線は、塀の上にいる黒い存在に縛り付けられていた。


 黒猫。


 雨に濡れるのも厭わず、黒い成猫が金色の双眸で明莉を見下ろしていたのだった。

 ただの猫に何が解るはずもないというのに、何故か見咎められたような気がして、明莉は喉を引き攣らせる。それほどまでに、濡れ羽色の猫の瞳は知性を感じさせるものだった。

 互いに見つめ合ったまま、いくばくかの時間が流れる。

 先に動いたのは、明莉だった。


「あなた、独りなの……?」


 自分で口にした台詞の馬鹿らしさに、明莉は自嘲的に唇を歪めた。重い右腕を伸ばし、一歩前へと動かした足が路面を流れる雨水を跳ねさせる。

 そして、明莉の指先が触れようかという寸前で、黒猫はするりと身を翻して塀から飛び降りた。

 驚いて道を譲るように半歩退く明莉の目の前を黒い影が素早く横切る。そのとき、黒猫の首に巻かれている飼い猫の証が目に映り、明莉は一気に夢から醒めた。


「はは……」

 

 伸ばしかけた右腕がだらりと下がり、口から渇いた笑いが転がり落ちる。何か決定的なものに見放された気がして、明莉はわななく心を締め付けるように両腕で自身の身体を掻き抱いた。

 黒猫が横切ると不幸になる。よくある噂が脳裡を過ぎる。

 もしかすると、黒猫は自分にとどめを刺すために現れたのではないか。どこへ逃げようとしても無駄なのだと。

 あの黒猫にだって、帰る家がある。惨めさに唇を噛み締めて、黒猫が去ったであろう方を見ようとする。

 だが、明莉の思いに反して、黒猫はまだそこにいた。

 道路に降り立った黒猫は、さっきまでの立ち位置とは逆となり、明莉をじっと見上げていた。


 ……なんなの。


 早く飼い主のもとに帰ればいいのに、どうして立ち止まっているのか。

 苛立つ明莉は黒猫を睨み返したが、黒猫はまるで動じず、お座りの姿勢のまま問い掛けるように彼女を見つめ続けていた。

 飼い猫である以上、野良よりも人には慣れているのだろうが、流石に不気味さを覚えてくる。かといって、明莉は不思議と目を逸らすことも、背を向けることもできない。雨音が生む奇妙な静寂が、少女と黒猫を隔てていた。


 均衡を先に破ったのは、今度は黒猫の方だった。


 ゆるりと上半身を反転させ、立てた尻尾を明莉に向けて歩き出す。にらめっこに飽きたのかと明莉は思ったが、すぐに黒猫は四つん這いのまま歩みを止めて、顔だけ振り返らせた。


「まさか……ついて来いって言ってるの?」


 荒唐無稽な話にも思えたが、黒猫の所作からはそうとしか受け取れなかった。明莉は再び夢のような錯覚に陥り、導かれるように黒猫が向かう方へと足を動かす。

 すると、それを待っていたかのように黒猫は前に向き直り、歩みを再開させた。

 明莉に行く宛てなどなかった。普段の行動範囲からはとっくに外れてしまっており、帰り道はもう分からなかった。

 黒猫は少女がついて来ている事を確認するように、ときどき振り返りながら、するりするりと路地を進んでいった。たまに民家の間を通るような細い道もあり、数分も経たないうちに明莉は完璧に帰り道の方向さえも見失っていた。


「ねえ、どこまで行くの……?」


 明莉は体力の多い方ではない。黒猫と出逢う前から長い距離を歩き続けていたし、雨に打たれ続けるだけでも体力は奪われていく。

 心では何処までだって逃げたいと思っているのとは裏腹に、身体はもう悲鳴を上げそうになっていた。

 たった一つの道標に縋るように、黒猫を追い続けるのも限界が近い。

 雨にも負けない大声が轟いたのは、そんな明莉の胸を覆う弱気な影が濃くなろうとしたときだった。


「あぁ!? やっと帰って来やがったな!」


 ハスキーで迫力のある声に、黒猫だけを見て追っていた明莉は顔を跳ね上げた。


「シュヴァルツ! 雨だってのにどこ行ってたんだよ!」


 シュヴァルツ――妙に洒落た名前であるが、おそらく黒猫のことを指しているのだろう。

 黒猫を呼ぶハスキーな声の持ち主は、明莉と同じ年頃の少女だった。

 茶色に染めた髪をポニーテールにしており、つり目が鋭い印象を表情に与えている。だが、黒猫の姿を認めて文句を言いながらも膝を折り、笑いかける顔は優しいものだった。

 服は襟元に黒いリボンタイを誂えた白いブラウスに、黒のストレッチパンツ。胸元から膝下まで覆う黒いエプロンを掛けている姿は、飲食店の制服のようだった。


「ん……?」


 そこで少女は茫然と立ち尽くす明莉に気付いたようだった。黒猫と戯れる手を止め、笑みを消して立ち上がる。


「あんた、何?」

「……っ、あ、え……その……」


 鋭く見据えられて、明莉の身体は震え上がった。その反応が予想の内だったのかは定かではないが、たいして返事は期待していなかったのだろう。少女は目を眇めた程度で質問を取り下げた。


「客ならこっちは裏口だよ……って、どう見てもそんな感じじゃないよね」

「えっ、と……わ……わたし……」


 明莉の姿はもはや濡れ鼠どころではない。制服は吸水の限界をとっくに超えており、全身から雫を滴らせているような状態である。

 途方に暮れる明莉の様子に、少女は面倒くさそうに息を吐いた。


「ちょっと待ってな」


 そして、ぶっきらぼうに告げると目の前にある裏口のドアノブを回した。

 開かれたドアの隙間から淡い光が路地に漏れ、温かな空気が良い香りを運んでくる。黒猫は明莉を振り返らず、少女がドアを開けきる前に身を滑り込ませていってしまった。


「マスター! シュヴァルツが帰ってきたよ! ついでに迷子も一人拾ってきたみたい!」


 拾われた迷子が自分なのだと明莉が気付くのは、もう少し後のことだった。

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