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ナナミ -The Gifted Challenger- ~天才少女の麻雀挑戦記~  作者: 蝶捕銀糸
第6半荘 しあわせのあおいとりをさがして
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第91話 あめのめがみとよるのちょう

 わたしは無我夢中に走り続けていた。

 どこかへ向かうわけでもなく闇雲に走っていた。

 ただ、もうここにはいたくなかった。ここではないどこか遠くへ行きたかった。

 誰も『無敵の女神』を知らない世界へ行きたかった。

 ぜえぜえと荒くなる息とパンパンになってくる足が、わたしの体を縛りつけていく。

 もうダメ、と思ってわたしは力なく地面にへたり込んだ。

 明滅する視界の中、辺りを見回すと、どうやら駅まで来ていたらしいことが分かった。

 駅から学校までは歩いて三十分ある。自分でもよくそんな距離をずっと走っていられるなぁと感心した。『NANA☆HOSHI』でちょくちょく続けていた野球部との合同ランニングで意外と体力がついていたのかもしれない。

 今さらながら、鞄を『NANA☆HOSHI』の部室に置いてきてしまったことに気づいた。

 ポケットをまさぐってみるけれど、ハンカチと生徒手帳くらいしか出てこなかった。

 そういえば、財布を忘れた時でもワンコインデラックスパフェを食べられるようにと、生徒手帳に500円玉を挟んでいたことを思い出す。案の定、生徒手帳を開いてみると500円玉が転がり出てきた。

 勝負手をテンパる牌を引き入れた時のような感覚がよぎった。運命だと思った。

 わたしは人生で初めて片道切符を買い、ちょうど来た電車に飛び乗った。

 ガタンゴトンと不規則に揺れるリズムに身を委ねて、窓の向こうの景色を眺める。どこまでも広がる梅雨の雨雲が陰りゆく夕日さえも覆いつくして、灰色がただ濃くなるばかりだった。

 ぼうっと窓の外を見つめていると、あっという間に終着駅にたどり着いた。都心に向かう電車に乗り換え、同じように窓の外を眺める。気がつけばすっかり暗くなり、華やかなネオンが踊り始めた。

 都心の駅に降り立ち、改札を出る。繁華街はまだまだこれからと活気と雑踏にあふれていた。

 雨がしとしと降り始めた。

 わたしは濡れるのも構わず、当てもなく大通りへ出た。

 財布もない、スマホもない、目的もない、期待もない、そんな一見無価値な旅路が、わたしの心の表面をはがしていく。

 お腹が空く。飲食店は数えきれないほどあるのに、手を伸ばせば届くところに食べ物があるのに、飢えが収まることはない。

 歩き疲れる。ホテルや喫茶店、カラオケだって腐るほどあるのに、腰かけて休むことも許されない。

 それが、役立たずのわたしへの罰だと思うと、恍惚としてきた。

 言葉にも声にもならない感情が吐息と共に口からあふれ出した。

 わたしは天を仰ぎ、踊るように闊歩する。無声映画の主人公になったわたしは、ミュージカルのワンシーンのように心の中核をさらけ出す。

 街中のありとあらゆるネオンがスポットライトに変わり、わたしを照らし出す。喧騒が遠くなり、言葉を持たない音が舞台を飾る。

 きっと人間が獣に帰ったら、今のわたしのようになると思った。

 わたしは泣いていた。雨が恥じらうようにそれを隠すから、わたしはどんどん大胆になった。

 衆目を集めても気にならなかった。みんなわたしに見とれているのだ。

 けれど、必ず夢は醒める。映画やミュージカルに終わりがあるように、どんな魔法の時間も終わりが来る。

 人間は獣になることはできても、獣であり続けることはできない宿命なのだ。

 十二時の鐘の音が響き、わたしはくしゃみを一つした。

 髪も制服もびっしょり濡れて、心と体は疲れ果てていた。

 周りの人たちの奇怪なものを見る視線が急に痛くなり、火照る顔を抑えてビルとビルの隙間に入った。

 路地裏の屋根のあるところで、わたしはコンクリートブロックに座る。今までの自分の行動を思い出してすごく恥ずかしくなってくる。

 心が冷静になればなるほど情けなくなってきた。

 見知らぬ街で無一文、しかも連絡手段はなし、である。オーラスでハコテンすれすれのような絶望的な状況だ。

 けれど、不思議と不安はなかった。

 とりあえず、駅に戻ればきっと何とかなる。

 あんまりしたくないけれど、最悪誰かに電話を借りれば、生徒手帳に書いてある星愛女学院の事務室にでも連絡を取れる。そしたら誰かが助けに来るだろう。

 少なくとも今日中には帰れそうにないから、濡れた服で一夜明かすことになる。風邪を引くことくらいは覚悟しなければいけない。

「あなた、さっきの子でしょ?」

 わたしが溜め息をついた時、不意に女性の声がかかった。

 そちらに目をやると、とてもきれいな女性が傘を差して立っていた。

 年は二十代前半くらいに見える。つややかな黒髪とシンプルなワンピースは清楚なイメージを与えたけれど、美しさを際立たせるナチュラルメイクと、完璧なコーディネートを作り上げるハイブランドのアクセサリーとトートバッグが、ただの清楚系女子の一言では表現しきれない大人の女性の魅力を醸し出していた。

 星愛女学院には存在しないタイプの美しい女性だ。まあ、周りは高校生しかいないから当たり前と言えば当たり前かもしれないけれど、この女性はちょっと背伸びした女子高生とは比べ物にならない。

「その服、星女高の1年生ね。今夜はもう遅いけど、泊まる当てでもあるのかしら?」

「あ、あの、えっと……」

 わたしはどぎまぎして答えあぐねる。

 普通、こんな平日の夜中に制服姿で街をうろうろしていれば目立って仕方がないし、心配されるのは当然だ。今まで何らかの形で声をかけられてもおかしくなかったはずである。

 けれど、いざこうやって声をかけられてしまうと、どう返答していいか困ってしまう。

「ああ、ごめんなさい。あたし、ヒカリ。星女高のOGなの。ちょっと、放っておけなくてね」

 挙動不審気味になりつつあるわたしを落ちつかせるような優しい声で、ヒカリさんは語りかけてくれた。

「わ、わたしはナナミです」

「それで、泊る当てはあるの?」

「その……ありません」

 わたしは正直に答えた。今さら隠しても、ヒカリさんはすべてを見破ってしまいそうな眼をしていた。

「だったら、あたしの家に来る?」

 予想もしていない提案だった。

「えっ、でも、ご迷惑じゃ……」

「女の子を一晩ぐらい平気よ。星女のよしみだから、気にしないでおいで」

 あとはもう言われるがままされるがままだった。

 ヒカリさんは、とても清楚という玉ではなかった。わたしの腕をつかむと、半ば強引にヒカリさんの傘に入れられ、連行されるようにわたしを歩かせた。

 彼女の家に向かう途中も、ヒカリさんは始終わたしに、学校生活はどうとか、好きな男の子はいないのかとかどうとか、いろいろ尋ねてきた。わたしがはぐらかすとそれ以上は追及せず、違う話をポンポン振ってくる。話題がとても多い。

 けれど、わたしがここにいる理由も、涙の訳も、全く尋ねようとはしなかった。

 逆にわたしがヒカリさんのことを尋ねると、楽しそうな声で明け透けに話してくれた。自分がいた頃の星女高はどうとか、大学には行っていたけどキャバクラのバイトが楽しすぎて辞めたとか、わたしとはまるで違う人種だと悟るのに時間はかからなかった。

 近くで見たヒカリさんの笑顔は、やっぱりきれいで美しかった。少し上気した顔と、かすかな香水とアルコールの香りが、大人の色気を際立たせていた。


 ヒカリさんの部屋は、本人の容貌と打って変わってお世辞にもきれいとは言えなかった。着替えも食事も何もかもが途中で止められているようで、とても来訪者を想定している感じではなかった。けれど、当人はさほど気にしている様子でもなかった。

 部屋に案内されるなりシャワーを勧められたので、お言葉に甘えてシャワーを浴びた。そのまま、すっかり濡れてしまった制服も洗ってもらった。

「それで、明日は何をするの?」

 シャワーを終えて、借りた服を着たわたしに、ヒカリさんがスマホをいじりながら尋ねた。

「その、特に予定はありません」

「そう。あたし、明日用事があるからどうしようかなー、って思って」

 普通の大人なら、学校に戻った方がいいとか、親御さんに連絡した方がいいとか言うはずだけれど、ヒカリさんは全くそんな素振りは見せなかった。

 ――まあ、彼女の青春時代の話を聞く限り、そんなこと言う人には思えなかったけれど。

「ナナミちゃんは麻雀打てる?」

 それは唐突な質問だった。わたしは一瞬びくっと肩を震わせる。

「――まあ、打てないこともないですけど」

 わたしは少し口ごもりつつも、正直に答えた。

「それじゃあ、明日あたしと一緒に来る? あたし、明日友達と麻雀打つ予定なの」

 思いがけない提案だった。普通、こんな誘い方はしない。

 麻雀は過不足なく四人で遊ぶゲームだ。すでにメンツが決まっているなら、わざわざわたしを誘う必要などないはずだ。

「でも、メンツ足りてるんじゃないんですか?」

 わたしの疑問は想定済みらしく、ヒカリさんは妖艶な微笑みを見せた。

「二抜けでも何でもすればいいじゃない。参加したくないなら見るだけでもいいし、どうとでもなるわ」

「まあそうですけど……」

「じゃ、決定ね!」

 これが大人の余裕というやつなのか、はたまたただ単にヒカリさんが傍若無人なだけなのか、ヒカリさんは勝手に話を進める。

 ちょっと強引に話を押し進める性格は、どことなくサナちゃんを連想させた。

「あ、みんないいって! じゃあ明日はよろしくね!」

 どうやらすでにメンツに連絡を取ったらしい。いくらスマホをいじりながら話をしていたとはいえ、少し段取りが良すぎる気がする。

 わたしはあんまり打ちたい気分ではなかったけれど、きっと明日その場に立ったら打ちたくなるかもしれないという淡い期待を抱いて、深い溜め息を一つした。


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