第86話 せかいははいいろでみちている
目を開けると、灰色の天井が広がっていた。
まどろむ意識の中、ここはどこだろうと夢想する。
灰色のカーテン、灰色の掛け布団に灰色のベッド。薄暗い部屋の中は何もかもが灰色に見えた。
ふと見ると、左手にチューブのついた針が刺さっている。その先をたどると、薬液の入った袋に行きついた。どうやら点滴のようだ。
それだけで場所は簡単に特定できた。病院だ。
ではなぜ、わたしは病院で点滴を打たれながら寝ているのだろうか。
きっと、交通事故にでも遭ったのかもしれない。
どちらかと言えば、わたしはのんびりしている方だ。下校中にでもふらっと路肩に出て行ってしまって、後ろから来た車に引っかけられたのかもしれない。
けれど、不思議と体は痛くない。ギプスをしていないから、骨は折れていないようだ。
体を起こしてあちこちを触ってみるけれど、擦り傷も見当たらない。きっと大ケガはなくて、粗方の小さなケガはすっかり治ってしまったのかもしれない。
――考えてはダメ。
そこから先を考えるのが怖かった。分厚い雲に覆われた失神する前の記憶をたどると取り返しがつかないような気がして、考えたくはなかった。
いつかは向き合うことになるだろうことは分かっていたけれど、今は忘れていたかった。
時計を見ると、5時を過ぎたところだった。それが朝なのか、晩なのか、ぼんやりと中途半端な明るみを帯びた窓の向こうからくる光では判別できなかった。
もう少しだけ横になっていようと思って、ベッドに潜った。
寝る時はコンタクト外すの忘れないようにしなきゃ、なんてつまらないことを考えていたら、たっぷり眠ったはずだったのにまたそのまま眠ってしまった。
夢を見ていた。
星愛女学院高等部の入学式。わたしは生徒が整然と並ぶ体育館の中にいた。
「ねえ、あの子、『無敵の女神』じゃない?」
誰かがささやいた。
蔑むようなささやき声が、聞こえてくる。
「ほんとだ! あの顔、ネットで見たとおりね」
「でも、ネットの写真、金髪じゃなかった?」
「そんなの、染めてたに決まってるじゃん」
「うっそー! 中学で金髪とか、どんだけチャラいのよ」
――違う。
わたしは両手で耳をふさぐ。
けれど、耳をなで、心を突き刺す嘲笑は鳴りやまない。
「見てあの子、胸デカすぎでしょ!」
「盛ってるに決まってるじゃん。あの大きさはあり得ないって」
「シリコンでも詰めてんじゃないの? めっちゃビッチじゃん」
「でも身長とのバランス悪すぎでしょ。頭弱すぎて引くわ」
――違う!
脳を締めつけられるような気持ち悪さに、わたしはしゃがみ込み、目を閉じる。
それでも、嫉妬や怨嗟、軽蔑の声はやまない。
「ねえ知ってる? 『無敵の女神』って八百長とか自演とか結構やってたみたいよ」
「やっぱり。『無敵の女神』の最強伝説も嘘ばっかりだったのね」
「どんだけ承認欲求強いのよ。ほんと、社会のゴミよね」
――違う! わたしはそんなことしていない!
「死ねばいいのに」
「みんなに迷惑かけたんだから、死んで当然でしょ?」
「死ねばみんな幸せになるんだから、早く死になよ」
「さすが『無敵の女神』よね~! どんなに叩かれても、どんなに炎上しても負けないんだもん!」
――違う! わたしは、無敵じゃない。ましてや、女神でもない。
わたしは、北中ナナミという、一人の女の子だ。
「あなた、負けたの?」
――えっ?
呼びかけられた声に見上げると、見知らぬ女子生徒がわたしを見下ろしていた。
無表情で生気のない顔が、くしゃっと笑った。
「あなた、負けたの?」
とても楽しそうに、声を上げて笑った。
体中が悪寒で震え出した。
「あなた、負けたの!?」
「負けたのね?」
「負けたんだ!」
周りにいる生徒が一斉に笑い出した。
不気味に満ちた嘲笑が反響する。
――いや!
「いやああああああああああああああ!」
次に目を覚ました時、わたしの顔は涙で濡れていた。
嫌な夢だった。現実に起こったことではないけれど、現実に近い夢ほど怖いものはない。
わたしが『無敵の女神』としてネット対局をしている時の話だ。
その頃は将棋やチェス、囲碁、オセロなんかのボードゲームをしていた。自分の知力と洞察力をいかんなく発揮して、どんなゲームでも常勝だった。
何がきっかけだったかは分からないけれど、わたしは妬みを買い、誹謗中傷の的になった。わたしの写真や個人情報も拡散され、陰湿ないじめはリアルにまで及んだ。
わたしは逃げるように故郷を離れ、星愛女学院高等部に入学した。
入学式の時、一部の生徒の注目を集めたけれど、幸いにも表立ったいじめはなく、一時的な興味の対象で終わった。
だからと言って、わたしの引っ込み思案な性格が治るわけでもなく、多くの生徒が中等部からの持ち上がりなので、その友達の輪に入っていくことはできなかった。
そんな中、声をかけてくれたのがサナちゃんだった。
サナちゃんに誘われるまま始めた麻雀。友達ができて、先輩ができて、わたしは少しずつ変わっていった。高校生活の毎日が彩りに満ちたものになっていった。
けれど、――。
わたしが悪夢の残り香にぐずぐずしていると、医師が回診に来た。そのまま簡単な質問をされたり、バイタルを取られたりした後、簡単な検査を済ませたら今日中にも退院できると言われた。
意識を失った時の記憶がないことを伝えたら、強い精神的ストレスによる一時的な記憶喪失だと告げられた。すぐに記憶が戻るだろうとも、記憶が戻らなくても日常生活には支障がないとも、どっちつかずのアドバイスをもらっただけだった。
医師が病室を出て横になり、少しした後、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
ここの病室は四人用の相部屋だけれど、今はわたし以外他の患者はいない。わたしの来客だろうことはすぐに察しがついた。
今は誰とも会いたくなかった。
そんなわたしの気持ちを無視するように病室のドアが開く。良くも悪くもそういうことをする人は簡単に想像ついた。
「ナナみん、大丈夫?」
わたしは反射的にそっぽを向いた。なぜか分からないけれど、サナちゃんの顔を直視できなかった。
サナちゃんがわたしのベッドの傍にある丸椅子に座るのが分かった。
少しだけ沈黙の時間が流れていった。
「わたし、覚えてないの。気を失う前のこと」
わたしが置かれている状況を、端的に伝えた。
はっ、と小さく息を吸う音が聞こえた。
しばらくしてもサナちゃんは何も話さなかった。いつも純粋でまっすぐなサナちゃんの気持ちが、この時ばかりは分からなかった。
けれど、突然ぽつりとこぼした。
「――じゃあナナみん、あたしとナナみんが初めてしゃべった時のことは覚えてる?」
少し真剣な声色に、わたしはサナちゃんの顔をちらりとうかがう。
「――まあ、覚えてるけど」
「ナナみん、あの時教室の隅っこで隠れるようにご飯食べてたよね。生クリームたっぷりのクリームパン」
入学式の次の日の昼休みだったのは覚えているけれど、正直そこまで覚えていない。何が印象に残るかなんて人それぞれだから、そういうものだと思うけれど。
「あたしね、その時ピンと来たの。あの時何をしゃべったかは忘れちゃったけど、この子となら、一生の友達になれるって」
「そこは覚えてないんだ」
思わず苦笑いがこみ上げてしまう。なんか、サナちゃんらしいなぁ、と悪い気分ではなかった。
「えぇっ!? いや、その、そんなことないよ! 今は思い出せないだけだよ! 覚えてる。うん、覚えてる!」
あたふたと取り繕うサナちゃんを見ていると、何だかさっきまでの嫌な沈黙が嘘のように気にならなくなってきた。
「でも、今のナナみん、あの時と同じ顔をしてる」
「――同じ顔?」
「うん。人の目が気になってびくびくしているような顔」
――わたし、そんな顔をしていたんだ。昔も、今も。
かすかに苦笑を浮かべたわたしの手を、サナちゃんがそっと握る。
「でも大丈夫。あたしはずっとナナみんの友達だから」
「――ありがとう、サナちゃん」
彼女の温かい言葉と笑顔で、少しずつ心が軽くなってくる。
だから、抜けた記憶について尋ねるなら、サナちゃんがいいと素直に思った。
直前の記憶はなくても、それを推し量るための足掛かりとなる記憶はちゃんと残っている。
「――生徒会との勝負は、どうなったの?」
わたしたち『NANA☆HOSHI』は部の存続を賭けて生徒会と麻雀勝負をすることになっていた。決戦当日、わたしとナギホさん、サナちゃんの三人で時計塔に行って、卓についたところまでは覚えている。
けれど、そこから先がないのだ。
わたしの言葉に、サナちゃんの瞳がすっと小さくなった。
それだけですべてが伝わったけれど、サナちゃんは震える唇で真実を教えてくれた。
「――負けちゃったよ」
その言葉を聞いた瞬間、バチッと脳内の奥で音がして、あの時の光景があふれ始めた。
明るくて上品な亜麻色の縦ロール。気品のある清らかな笑顔。魔法のように牌を引き寄せる白くて細い指。天上の竪琴のような澄んだ声。
そして、『無敵の女神』を殺し、わたしたちの青春に終止符を打った『深海の乙姫』の一撃。
彼女との激しい対局の光景が走馬灯のようにフラッシュバックした。巡るめくイメージに酔ったみたいで頭がガンガンクラクラしてくる。
「――わたしたち、もう麻雀打てないんだね」
突きつけられた事実を口にすると、何だか無力感があふれ出してくる。
「そ、そんなことないよ!」サナちゃんがあわててフォローする。「あくまで三か月間の活動停止だから、十月になったら『NANA☆HOSHI』は活動できるよ!」
「でも、夏の大会には出られないんだよね?」
「そうだけど……あたしたちには来年があるし」
「ナギホさんと行く夏の大会は、もう来ないよ」
少し意地悪な言い方だったけれど、ナギホさんを含めたみんなと一緒に大会に出場したかったのは本心だった。
けれど、その夢はもう二度と叶わない。
しかも、その夢をつぶしてしまったのは、わたしのたった一度の打牌だったのだ。
サナちゃんは少し黙っていたけれど、わたしの手を取ってまっすぐな瞳で見つめてきた。
「あたしだって、残念だよ。でも、あたしたちには『聖夜決戦』だってあるんだよ? ナギホさんが作ってくれた『NANA☆HOSHI』を守るための、ナギホさんと一緒に戦えるあたしたちだけの大会が」
サナちゃんの熱っぽい声色が耳朶を打つ。サナちゃんの未来を見据える真剣な眼差しはとても大人びて見えた。
「――そう、だね」
わたしは、こくりとうなずいた。
勇気と希望をもらえる言葉だったけれど、やっぱり今のわたしはなかなか前向きになれなかった。
わたしの手を握るサナちゃんの手にわずかに力が入った。
「ナナみん、あたしたちには『聖夜決戦』までの時間はある。だから、それまでに強くなって、今度こそ勝とう!」
サナちゃんは努めて明るい声で励ましてくれた。
わたしは、微笑みを返すことしかできなかった。




