第9話 なんばとといとい、さんあんこー
小娘が出て行った部室の中、俺は深々と背もたれによりかかり、腕と足を組んで帰りを待っていた。
「ホムラさん。あの子、ほんとに戻ってくるッスかね~?」
俺の左に座るキヨミが前局の捨て牌をいじりながら気だるそうにつぶやく。
「案外そのまま逃げちゃったんじゃないかしら? ホムラさんとの点差は31600点。とてもじゃないけど、素人のあの子には逆転できないんじゃない?」
そして、右側に座るヒメリも退屈そうに頬杖をつきながら零す。とんだ期待外れだった、と言わんばかりの表情で部室の何を見るわけでもなく視線を上げている。
「確かに。『無敵の女神』なんて呼ばれてるけど、大したことなかったッスね」
ヒメリの言葉にキヨミも嘲笑うように同意した。
――こいつら、何も分かってねぇな。
「ホムラさんもそう思うッスよね?」
にたにた笑いながらこっちを向くキヨミに呆れながらも、ただ一言忠告してやった。
「――お前らは自分の点棒のことだけ考えてろ」
とはいうものの、待つ身は長い。
俺はおもむろに右のポケットに手を入れる。
「吸うぞ」
「ちょっ、ホムラさん!?」
「さすがに部室ではまずいんじゃないかしら?」
二人の制止する言葉が響いた直後、部室の扉が開いた。
「お待たせしました!」
そこに立っていたのは、『無敵の女神』だった。
腰まで伸びるふわっとした黒い髪、豊満で制服の上からでも分かるくらい凹凸のはっきりした身体。背は平均より低く、ともすれば愛くるしい小動物に例えられそうな容貌である。
しかし、部室から出る前にはなかったものがそこにはあった。
――誇り、勇気、そして戦う者の覚悟。
「――待ってたぜ、小娘」
思わず、笑みが零れた。彼女の目は、曇っていない。最初に卓に座った時と同じ目をしている。
――これはなかなか楽しめそうだ。
彼女は卓上の財布をポケットにしまい、卓についた。
それを合図に、ゲームが再開された。
キヨミの親で、南場が始まる。
南一局 一巡目 南家 ホムラ 46500 ドラ表示:五筒
八萬 九萬 九萬 九萬 一筒 一筒 四筒 五筒 三索 四索 八索 八索 西風
ツモ:三索
配牌は役なしのリャンシャンテン。ツモも受けは広くなるが手は進まない。タンヤオもチャンタも遠い。ドラ六筒をツモればリーチをかけて出上がり2600点、ツモれば1000・2000、ってところか。
小娘との点差は31600点。役も知らないド素人同然の彼女が役満32000点をツモる確率は限りなくゼロに近い。バイマン以上に放銃しなければ順位は変わらない。
ツモ次第だが、無理して攻める必要もない。
――だが、一、九、字牌は必ずしも安全とは思わない方がよさそうだ。今まで様子見も兼ねてぬるい打ち方に付き合っていたが、そろそろ切り替え時かもしれない。
とは言ったものの、最初から二から八のチュンチャンパイを切り出して下手に勘繰られるのもよくない。
俺は親指で西風を押し倒し、第一捨て牌の置き場であるホーの左上まで移動させる。
彼女の捨て牌は、落ち着いたものだった。順調に字牌をさばき、その後も一や九やチュンチャンパイでも比較的使いにくい二萬や八筒を捨てる。典型的なタンヤオ狙いだ。
さて、
南一局 七巡目 南家 ホムラ 46500 ドラ表示:五筒
九萬 九萬 九萬 一筒 一筒 四筒 五筒 五筒 三索 三索 三索 八索 八索
ツモ:白板
ツモは好調で、サンアンコーのイーシャンテン。ドラ六筒をツモれば出上がり5200、トイトイまで手が伸びればマンガン8000点、運が良ければ役満スーアンコーも狙える好手になった。
だが、ここで厄介な牌をツモってきたか。
――場に1枚も切られていない、ションパイの白板。
ここまで場に1枚も切られていないのだから、誰かが2枚ペアのトイツで持っている可能性が高い。つまり、この白板を捨てるとポンされる確率が高い。
その相手が、小娘だったらさらに厄介だ。ファンパイはろくに役の知らない小娘が安心して揃えられる役の一つだから、やつにとっては絶好な牌だ。
だが所詮はハクのみなら安手だ。他の役牌は切られているからドラのアンコーでも抱えられない限り、そんなに高い手はできない。
それに対してこちらは高めも狙える手だ。怯むわけにはいかない。
俺は躊躇なくツモってきた白板をそのまま捨てる。
だが、小娘は動き出した。
「ポンです!」
小娘は自分の白板2枚を晒し、俺の白板を手に加える。
――やはり動いてきたか。
ここまではまだ予想の反中だ。
問題は、やつがここからどうやって手を伸ばしてくるかだ。
小娘が白板をポンした後に切り出したのは三筒。他の字牌や一、九牌を捨てているのだから、またチャンタを狙っているとは考えにくい。
小娘程度なら、3枚一組を四つ作るトイトイや一種類の数牌と字牌だけで作るホンイツくらいは推定できる。やつがこの局に上がりを目指すなら、トイトイか、マンズの染め手か、あるいは上がりを見ているサンショクだ。
続くキヨミはツモってから少し考えた後、手出しの二索切り。おそらくキヨミの狙いもマンズの染め手か、サンショク込みのタンヤオだな。
「ポン」
ヒメリが鳴いて二索を加える。ヒメリの手はおそらくタンピンを目指していたが、手が遅くなると見越してタンヤオのみの速攻に切り替えたか。
そして、ヒメリは四筒切り。――テンパったか?
それを見送った小娘が山へ手を伸ばす。
その手が、小さくて細くきれいな指がツモ牌にそっと触れる。
何かにすがるような――いや、違う! 強運を引きずり込むような不気味な指だ。
無邪気な、いや無邪気だからこそ震え上がりそうな凶悪な悪魔の指先だ。
――まるで、あのガキのような、恐ろしいほどの化物手を引く無邪気な手だ。
まさかと思うが、この小娘、役満張ってるのか?
やつは白板を晒している。ダイサンゲンやツーイーソーはホーの様子からあり得ない。
そもそもやつは今日卓についたばかりの初心者だ。ホーラ形を予想できたとしても、狙ってできるものでないことぐらい分かるはず。
あの小娘が手っ取り早く点数を跳ね上げるには、ドラだ。ドラ六筒のアンコーぐらい抱えていてもおかしくない。ハク、ドラ3ならマンガンだ。そんなに寒気のするような手ではないし、俺が逆転されることもない。
――だったら、さっきの心の警告は何だ?
その時、小娘の声が響き渡った。
「カンです!」
持ってきたツモ牌をポンした白板の横に向けた中央の牌の上に重ねて置いた。
――白板をカカン、だと?
カンをするとドラが1枚増える上にリンシャンパイを追加でツモれる。今回のルールでは即付けなのでダイミンカン、カカン、アンカンに関わらずドラ表示牌を先にめくる。
やつの小さな指が王牌の表になっている五筒の隣をめくる。
その牌は紅中。
――新ドラは、白板! この対局二回目のハク、ドラ4、だと!?
カンしてドラがもろに乗ることなんざ千局に一回でもあればいい方だ。そんな芸当をこの対局中に二回も、しかも全く同じ牌でやってくるとは、この期に及んでこの小娘はあり得ないような強運を引きずり込んできやがった。
とにかくやつはこれでマンガン確定。仮にドラ六筒がアンコーならバイマンもあり得る。
さらにやつはリンシャンパイをツモる。
――まさか、この牌で上がるのか!?
この圧倒的な気迫は、まさに戦場で戦い続け、勝ち続けた者だけが見せる闘志に違いねぇ。
だが、予想に反して、やつはツモってきた牌を手牌の上に置いて、別の牌をホーに捨てた。
その牌は、五筒。
その刹那、すべてを悟ったかのように閃いた。
「――ポン」
南一局 八巡目 南家 ホムラ 46500 ドラ表示:五筒、紅中
九萬 九萬 九萬 一筒 一筒 四筒 三索 三索 三索 八索 八索
副露:対五筒
俺はすかさず鳴いて、手に五筒をコーツで固めた。
確信したからだ。やつの手牌を。
――六のサンシキだ。マンズ、ピンズ、ソーズで同じ数字の3枚一組を作るサンシキを絡めれば、やつほどの腕があれば役満に届く。
ハク、トイトイ、サンアンコー、サンシキ、ドラ7――十四翻、一翻多いが数え役満だ。役満は8000・16000点。一発で逆転される。
そして、おそらく小娘は最後の2枚ペアで待つタンキ待ちでテンパイしている。タンキ待ちなら、待ち牌を読むのは難しい。最悪、放銃することもあり得る。
――屠りに来たな。この小娘、本気で勝つつもりどころか、本気で直接俺から点数を奪いに来てやがる。
ならば、俺がさっさと上がってしまえばいい。
そのまま流れるように四筒を手に取る。これで小娘が上がれないことは容易に察しがつく。
やつはすでに三筒、五筒を切っている。仮に四筒タンキならすでに三、四、五筒ができていたことになる。それならすでにホーラしていたはずだ。
わざわざ上がりを蹴ってまで攻める器量が、この小娘にあるだろうか。いや、いくら勝負強い『無敵の女神』でも、この正念場でそんなことできまい。
俺は四筒をそのまま卓上に叩き出した。
その瞬間、無言の緊迫が走った。凍り付くような痺れる感覚が指先から伝わる。
この一瞬が、勝負師としての最高に高ぶる瞬間だ。
――さあ! 上がってみせろ、小娘! 本当に俺に勝つ気があるならな!
小娘は闘志を湛えた瞳で俺を見つめる。その眼の奥に宿るのは確かな勝負師としての信念、俺に絶対勝つという気迫。
だが、やつは動かなかった。
――無理だよなぁ、分かっていたぜ!
お前が麻雀の経験者だったら大きな罠を張って上がることもできただろうが、ビギナーズラックしか持ち合わせていねぇお前が、スーアンコーを蹴ってお前の上がりを阻止しに行った俺の足をすくうことなんざ、できやしねぇんだよ!
そのまま、何事も起こらず、ヒメリ、小娘、キヨミの順番が終わる。ただただ牌をツモっては切るだけの静寂が続いていた。
――分かっちまうんだよ、命懸けで修羅場を潜ってきた俺には。
今、流れが俺に来ていることも、このツモで俺が上がってしまうこともな!
俺は流れるような動作でツモってきた牌を表にして卓上に置き、手牌を右手でなぞり倒した。
「――ツモ。トイトイサンアンコーはマンガン、2000・4000だ」
和了形 ホムラ ドラ表示:五筒、紅中
九萬 九萬 九萬 一筒 一筒 三索 三索 三索 八索 八索
副露:対五筒
ツモ:一筒
トイトイ 二翻
サンアンコー 二翻
40符 四翻 満貫 2000・4000
ホムラ 48700+8000=56700点
キヨミ 24000-4000=20000点
ヒメリ 16800-2000=14800点
ナナミ 10500-2000= 8500点
これでやつとは48200点差。次は俺の親だが、役満ツモられても逆転はされない。
――だが、そんな万に一つの可能性を掴むだけの力量が、やつにはある。
俺はそう確信してきた。
この局もそうだった。俺が動いていなければ、やつは数え役満を上がっていてもおかしくなかった。
こんなマンガン手、下りたのと大差ねぇ。
だからこそ、次の親番は重要になる。俺にとっても、やつにとっても。