第85話 ずぶぬれなあなたに、はなたばを
雨が、後部座席の車窓をまだらに輝かせていた。
明かりの少ない自然豊かな坂道を上る車の中で、シオリは闇夜に染まりうっすらと気配だけをにじませる遠くの山を見つめていた。
会食の帰り道、送迎を快く引き受けてくれた教師の車の中、小さなため息を1つ零す。理事長と校長の説得には骨を折ったが、何とか実を結びそうでひとまずは一息つけることに安寧を感じていた。
しかし、眠気は全くなかった。午後10時を少し過ぎた時間帯にもかかわらず、脳内の一部がせわしなく動いていた。
豪奢な造りの校門をくぐり、暗黒と静謐を宿した校舎の間を通り抜け、唯一ぽつぽつと明かりの灯った時計塔の前までくると停車した。
お礼の言葉を丁寧に紡ぎ、シオリは降車した。
雨は降っていた。
傘を差し、闇夜に消えるテールランプを見送って時計塔に入ろうとした時、時計塔の入り口の脇に遠巻きには気づかなかった人影が目に入った。
彼女は雨に打たれながら、うつむいていた。誰かを待っていたというよりは、そこから一歩も歩けなかった、といった様相だった。
「風邪引くわよ、ナギホ」
シオリはそっと少女に傘を差しだした。
少女はシオリの顔を見つめた。髪も制服も大量に雨水を吸っていて、顔もすっかり濡れていた。
そして、あいまいに作り笑顔を見せた。
「――シオリ」
「話がしたいの。部屋に上がってくれるかしら?」
「あなたはいつも優しいのね」
シオリは彼女を先導し、エレベーターに入ると生徒手帳をかざして7階のボタンを押した。ナギホは黙ってうつむいたまま、シオリの後について行った。
全寮制の星愛女学院において、生徒会長だけが唯一校内に自室を持っている。限られた者しか入れない時計塔の7階の生徒会室、その奥に生活するための個室がある。そこの個室を利用したことのある人の中でも、登校0秒の部屋を便利だと感じる人はごく少数である。
シオリはそのごく少数の勤勉勤労な生徒会長だった。
「少し待っていて。タオルを取ってくるわ」
ナギホを生徒会室の扉の前に立たせ、中に入る。社長室のような生徒会室を通り過ぎ、奥の扉からプライベート空間に入る。
生徒会室と相反して簡素なワンルームからバスタオルを取り出すと、生徒会室の前で待つナギホに手渡した。
「一通り拭いたら、奥のわたしの部屋まできてくれるかしら? シャワーと必要なものを貸してあげるから」
「ありがとう」
ナギホが入室できるよう扉を開けたままにして、シオリは自室に戻る。
妙に寒さがしみる梅雨の夜のせいで、何か温かいものを欲していた。
手鍋に水を張り、コンロにかける。持ち回りの当番で労働する寮生活と異なり、生徒会室では生きるための労働をすべて一人でしなければならない。学業や校務だけでなく、人間生活も生徒会長の重要な仕事だ。
「お邪魔します」
「シャワー室はそこの扉だから、勝手に使ってちょうだい」
「それじゃあ失礼して、お風呂いただきます」
いつもの明るい彼女と打って変わってしんみりしている姿にできるだけ背を向けたまま、シオリは戸棚から必要なものを取り揃えていく。
手鍋の水が沸騰してきた頃合いに、シャワー室から水が弾ける音が聞こえてきた。火を止めて大匙いっぱいの茶葉を入れ、ふたをして蒸らしにかかる。
クローゼットから下着と春物のワンピースを出してバスルームに向かい、目立つところに新しいバスタオルと一緒に置く。ぐっしょりとした彼女のセーラー服をドラム式洗濯乾燥機に入れ、自分の制服と共に洗濯を始めた。
タイマーが時間を知らせたのでコンロへ向かい、予め常温に戻しておいた牛乳を手鍋に加えて改めて絶妙な火加減で温め直す。仕事のスイッチを入れる時も、プライベートでリラックスする時も、シオリにとってロイヤルミルクティーは欠かせなかった。
再び沸騰する間の時間を利用して、ネグリジェに腕を通す。ティーカップと茶こしを準備し、スマホで明日のスケジュールを確認し始める。
ちょうど鍋が再沸騰を知らせ始めた頃、眼鏡を外したままのナギホがバスルームから出てきた。
「お風呂、ありがとう」
「座ってて。ちょうどお茶が入ったから」
「上げ膳据え膳ね。申し訳ないわ」
「わたしが誘ったのよ。当然でしょう」
茶こしを通して手鍋の中身を二つのティーカップの中にを注ぎ容れる。
ソファに座るナギホの前のテーブルにロイヤルミルクティーを並べ、上家の位置に腰かけた。
「蜂蜜を入れると柔らかい甘みが出ておいしいのよ」
「あなた、相変わらずの凝り性ね」
蜂蜜の瓶からひとすくいしてカップに垂らし、軽く混ぜてから口をつけた。ナギホも言われるままにシオリに倣い、蜂蜜でロイヤルミルクティーを味わう。
「おいしいわ。すごく、贅沢な味ね」
「最近はすっかり時間をかけることが贅沢な世の中になってしまったもの」
「昔から手間暇をかけたものは贅沢じゃなかったかしら?」
「時間の価値が変わってしまった今ではもっと贅沢になってしまったわ」
「それもそうね」
取り留めのない話をすると、一緒に部活を興じていた昔を思い出すようだった。
『七夕決戦』は、生徒会の勝利で幕を下ろした。事前の取り決めに従い、麻雀部『NANA☆HOSHI』の3か月間の活動停止と部室の使用禁止が執行された。
最終局のホーラが成立した直後、ナナミが失神し、椅子から転落した。立会人を務めていたサナエがすぐに駆け寄り、必死に呼びかけるが応答はなかった。
シオリはすぐさまミハギを使いに出した。ほどなくしてナナミは駆けつけてきた保健委員に介抱された。
それを見届けたシオリは事実だけをナギホに告げ、執務に戻った。その後のことは、ナナミが近くの病院に搬送され、命に別条はないことを保健委員長から知らされたこと以外は知らなかった。
ナギホが時計塔の前で雨に濡れていた理由は尋ねなかった。彼女の傷をえぐる以上の成果が得られるとはとても思えなかった。
「最後のインターハイ、雨で中止になっちゃった」
空になったカップをソーサーの上に置き、ナギホがぽつりとつぶやいた。眼鏡を外したナギホの顔は、ひどく幼い顔をしていた。
「その旨はわたしが代表者として、主催者に伝えておくわ」
シオリは事務的なことを簡潔に述べた。
最後のひと口を済ませ、続けて口を開こうとしたが、珍しく言いよどんでしまった。
自分が言おうとしていることは、あまり口外すべきではない内容である。そのうえ、ナギホを始め、『NANA☆HOSHI』にとっては何の救いにもならないことを知っている。
だから、少し探りを入れることにした。
「去年の聖夜祭の事故、覚えてる?」
シオリはナギホの顔色をうかがった。反応次第では、核心に触れるつもりはなかった。
「もちろん」ナギホは軽くうなずいた。「これでもあたし、毎週ナスカのお見舞いに行っているのよ?」
「あら、さすがナギホね」
今年になって一度も言っていない自分が薄情な人間に見えて、心の中でひどく恥じた。
自分が多忙の身であることは、ナギホもナスカも理解していることは推察できたが、それに甘えて言い訳する姿はみっともなくて仕方なかった。
去年、星愛女学院の2大文化祭のひとつ、聖夜祭の時に大事故が起こった。
聖夜祭が無事に終わり、浮かれた気分の抜けない空気の中、後片付けをしている最中に百年に一度の大地震が女学院を襲った。校舎の窓ガラスが割れ、植木や電灯、防球ネットの支柱が倒れ、解体中の模擬店はすべてが倒壊した。食品の出店の至る所でガス爆発が起こり、火の手が上がった。
一瞬にして星愛女学院は見るも無残な地獄絵図と化した。幸い死者は出なかったが、重傷者12名に加え、全校生徒の半数以上が負傷した。その後、さらに3分の1以上の生徒が1か月以内に精神的不調を訴えた。
そして、全く落ち度のなかった当時の生徒会長が責任を問われ、退学した。生徒会は解散し、他6人全員が休学処分を受けた。
その大きな傷跡は『NANA☆HOSHI』にも刻まれた。ガス爆発に巻き込まれたナスカが生死の境を彷徨い、それを庇ったホムラは左腕の神経を負傷した。その後、当時1年生の部員、サクラが精神的不調を理由に退部した。
残されたのはナギホとシオリだけだった。
その後、星愛女学院復興に尽力したシオリは理事、教職員、生徒多たちの高い評価を受け、次期生徒会長の候補に挙がった。シオリはためらっていたが、ナギホの推薦と激励で『NANA☆HOSHI』退部を決意した。
前倒しになった生徒会長選挙でシオリが選出された。それから約半年間、不断の努力で生徒会を再建し、星愛女学院の復興は加速度的に進んだ。
しかし当然、理事や教職員から今年の2大文化祭の中止が言い渡された。一部の生徒からは開催の是非を問われた。
シオリは2大文化祭の開催を望む多くの生徒に後押しされて、粘り強く交渉を行った。一部の模擬店を制限し、安全ガイドラインを強化し、万が一に備えての対処法を徹底的に議論して準備した。
今日、その努力が認められ、理事会・職員会・生徒会の間で2大文化祭開催の大筋合意に至った。
その事実を、シオリはナギホに伝えることを決心した。それは、あの大惨事に向き合い続けたナギホの次の希望になると信じた。
「今日、今年の七夕祭と聖夜祭が開催されることで大筋合意したわ」
ナギホが目を丸くして驚いた。その後、すぐに合点がいった顔になった。
「――おかしいと思っていたのよ。1年生は知らない子も多いと思ったけど、あんなことが起こったのに平然と七夕祭をやる空気になっていたもの」
「まだ正式には決まっていないわ。でも、生徒会と各委員会の全面協力で準備が進められていたの。全校生徒の半分程度は委員会に所属しているのよ? 自然とその動きは伝わってくるわ」
「それじゃあ、『聖夜決戦』は今年も行われるのね?」
「ええ、その予定よ。だから、全国大会は中止になってもあなたたちの戦いはまだ終わっていないわ」
シオリの説明を聞いても、ナギホは納得がいかないというしぐさをしていた。
「それはいいとして、今回の一軒は全く関係ないんじゃない?」
ナギホは鋭い。彼女に隠し立てはできない、とシオリは内心嘆息した。
「あまりいいたくはないのだけれど」と付け加えて、シオリは今回の件の本質を口にした。
「『NANA☆HOSHI』の活動停止を交渉の材料に使わせてもらったわ。風紀が乱れるの一点張りで麻雀を嫌う頭のお堅い好調ですもの。今回の件を伝えたら大層ご機嫌になったわ。生徒会の監督能力も評価されて、交渉の進展に弾みがついたの」
嫌な顔でもされるだろうと覚悟はしていた。友人を、自分の居場所を作ってくれた部活を道具に使ったのだから、罵詈雑言もも甘んじて受けるつもりだった。
けれど、シオリの予想に反して、ナギホは微笑んでいた。いつもの明るいヒマワリのような笑顔だった。
「シオリはほんと天才ね! 今回の件はあたしたちにだって非があるのよ? その贖罪の機会を作っただけじゃなく、きちんと将来のことを考えてくれてた。しかも、あたしたちだけじゃなく、女学院みんなの誇りと楽しみを守ってくれたのよ! あたしの頭じゃ、そんな最善手思いつかないもの!」
「それは褒めすぎじゃないかしら?」
「そう? あたしはそうは思わないけど。あなたが友人で、ほんとよかったわ!」
「わたしも、あなたが友人で嬉しいわ。わたしたちの『NANA☆HOSHI』をきちんと守って導いてくれるもの」
無邪気にほほ笑むナギホを、シオリは暖かい気持ちで見つめていた。
「今夜はもう遅いし、泊っていくといいわ」
「えっ、いいの? ベッド1つしかないじゃない。間違いを起こすかもしれないわよ?」
「あら、わたしは理解のある方だと自負しているのよ」
そんな風に軽口を叩き合って笑っていると、本当に一緒にいたあの頃のような楽しさが蘇ってくるようだった。
しかしその夜、シオリはナギホが声もなく涙を流していることに気づいていた。




