第80話 しんかいのそこのけはい
ナギホさんの親で東二局が始まった。
わたしたちは確実にリードしている。星2つ獲得した上、この対局もシオリさんの親番を蹴ってわたしたちが一歩前を行っている。
なのに、シオリさんは余裕の表情を崩さない。
まさか、この『七夕決戦』はあくまで建前上の口実に過ぎず、『NANA☆HOSHI』の不祥事を不問にすることに加えて、現在の実力を確かめるだけのパフォーマンスなのではないか、とも思えてしまう。
そうでなければ、こんなに追い詰められてもなお、笑顔でいられるはずがない。
神経を張りすぎない、ということを意識しても、シオリさんの思考回路を知りたくなってしまう。
それは、意識しなくてもついつい相手のことを考えてしまうのだから、恋愛感情に似ているのかもしれない。全く、厄介な話である。
わたしは今一度サイダーを飲んで、頭をリセットした。
東二局 一巡目 南家 ナナミ 33000点 ドラ表示:蘭花
一萬 七萬 九萬 三筒 一索 二索 三索 七索 南風 白板 白板 白板 夏花
ツモ:南風
配牌から、また偏った手が入ってきた。
役牌2つに、チャンタもホンイツも見える手だ。確実に流れはこちらに来ている。
ドラ表示牌は花牌だ。こういう場合は、ドラは抜きドラだけになる。花牌が1枚減り、通常のドラ4枚が封印される。通常の赤3枚の麻雀よりドラの総計が少なくなるので、ドラ麻雀は少し落ち着きを見せる。
しかも、この局のドラはすべて見えるのだ。もちろんウラドラの可能性はあるが、ダマで上がれば抜きドラ以外のドラはあり得ないので、点数の見積もりが少ししやすい。
だから、こういう状況で手役の集まった配牌は非常にありがたい。
難しく考える必要はない。流れに乗ってセオリー通りに打とう。
「ファーです!」
ためらいなく花牌を抜いてドラにする。リンシャンパイは九索なのだから、染めてくれと言っているようなものだ。
わたしは三筒を切り出した。
「ポン」
動いたのは案の定というか、あの人しかいない。
シオリさんは三筒をさらして、淀みなく九索を手放す。
――ここで、初手のフーロ、か。
やっぱりその意図は読めそうにもない。読もうとするだけ無駄な感じがしてならない。
「チー」
次巡も、シオリさんはフーロをする。カズハさんの捨てた八筒でメンツを固める。
リャンフーロですこぶる筒子の気配。まだタンヤオの目が残って入るとはいえ、あまりに露骨である。
シオリさんの三萬切りを見送って、ナギホさんがツモる。
「ポン」
さらに、ナギホさんの切った西を拾い上げた。
どうやら、配牌から揃いがいいのはわたしだけではないらしい。一度もツモることなくサンフーロだ。そして、タンヤオは死んだ。
けれど、ここまでさらしてホンイツ以外に役を連想させないなんて、バカホンもいいところである。もちろん、役牌バックの可能性だってあるが、ドラなし確定なのでそれでもたったの三翻である。
まさかまた鳴くんじゃないかと思ったけれど、次はどうやらわたしの番らしい。ナギホさんが八索を捨てた。
「チーです!」
東二局 六巡目 南家 ナナミ 33000点 ドラ表示:蘭花
九萬 一索 一索 二索 三索 四索 南風 南風 白板 白板 白板
副露:八七九索
抜き:夏花
迷うような手でも、迷うような局面でもない。どう考えても九萬切りテンパイである。
だから、わたしは九萬を手放した。
少し無警戒だったかもしれないけれど、これを警戒しろという方が無茶である。
「カン」
シオリさんが手牌3枚を表にした。ホンイツを台無しにする、役つぶしの鳴きである。
この嫌な感覚、前対局の東一局を彷彿とさせるなぁ、と思いながら、わたしは見ていた。
「ファー」
ツモったリンシャンパイをそのまま流れるような所作で抜く。
「カン」
続いて、三筒をカカンし、またもやリンシャンパイに手を伸ばした。
もうそろそろ、リンシャンで上がるのだろうと予想していたが、わたしの予想はまだ裏切られる。
ツモったリンシャンパイをハダカタンキに加えると、別のもう1牌を抜いた。
「ファー」
この人は、最後の手配、九萬3枚と花牌1枚の時に、ダイミンカンを仕掛けてきたのだ。リンシャンカイホウしか望みのない手牌なのに、リンシャンカイホウで上がれないタイミングで鳴きを入れてきたのだ。
それでもきっと、この人は上がるのだろう。それは予想や直感ではなく、確信だった。
「カン」
何度もツモったリンシャンパイを西に重ね、飽きることなくリンシャンパイへと手を伸ばす。わたしたちは、ただそれを眺めることしかできなかった。
「ファー」
幾度となく花を咲かせる。その姿は、深海を連想させる瞳と思考から離れ、初対面の時に抱いた花のイメージが似合っていた。
「ツモ。12000」
シオリさんは短く宣言して、リンシャンパイでハダカタンキの1枚を倒した。
ホーラ形 シオリ ドラ表示:蘭花
緑發
副露:対明槓九萬、下加槓西風、八六七筒、対加槓三筒
抜き:冬花、春花、梅花
ツモ:緑發
サンカンツ 二翻
レンカイホウ 二翻
ドラ 三翻 70符 七翻 跳満 12000
シオリ 21000+12000=33000点
ナギホ 23000点
カズハ 23000点
ナナミ 33000-12000=21000点
芸術品の様な上がり方だった。その見物料はダイミンカンをさせたわたしが責任払いをすることになった。
これはもう確率論や奇跡を超越している。そのくせ、上がり点はハネマンというありきたりなものだった。12000点が欲しければ、こんな神懸った手なんか作る必要はない。タンピンサンショクドラドラで十分だ。
シオリさん以外のこの部屋にいるすべての人が呆然としている中、「次、行きましょう」というシオリさんの言葉で再び時が動き始める。
東三局、わたしの親番だ。
東三局 一巡目 東家 ナナミ 21000点 ドラ表示:三筒
二萬 四萬 六萬 九萬 二筒 三筒 六筒 七筒 一索 四索 五索 六索 白板 緑發
少しずつ、わたしの配牌が調和を乱し始めた。ドラなし花なしピンフのスーシャンテン。親としてはあまりよろしくない手ではあるが、悲観するほどではない。
九萬を捨て、手を整えながら様子を見ようと思った矢先、1000点棒が舞った。
「リーチ」
シオリさんのダブリーだ。しかも、花牌切りである。
先ほどから、シオリさんの手が早い。全自動卓なので、積み込みといった自分の手牌に有利な牌を持ってくる類のイカサマはできない。つまり、それは全くの偶然としか言いようがない。
けれど、やっぱり花牌切りは理解できなかった。花牌を抜けばチーホーやダブリーの役はつかないにしても、抜けばリンシャン、ツモの二翻がつく可能性だってあり得るし、手変わりでもっと点が伸びることだってあり得る。わざわざダブリーで二翻つけにいく必要はない。
ナギホさんが珍しく焦りの表情をにじませていた。神懸った上がりやダブリーに対してではない。もっと根源的な何かに焦燥しているようだった。
わたしの番、三萬をツモる。手の進むおいしい牌だったが、楽観はできなかった。
まさかと思って白を切り出したけれど、あっさり通った。
カズハさんの北を見送って、シオリさんが牌山にそっと触れた。
その時、背筋にひやりと冷たいものを押しつけられたような感覚が走った。
それが、知性と強運を武器に戦い、貪欲に勝利を欲する勝負師独特のプレッシャーであることを、わたしは忘れていた。
やっと、そして明確に悟った。シオリさんはただのプレイヤーではない。シオリさんの心の内には、勝利だけが唯一価値のある戦場で、生き残る以上の意味を求め続けて勝ち続ける勝負の獣が棲みついていることを。
「ファー」
極めて落ち着いた悪意の微塵もない声を奏でて、シオリさんはツモ牌を抜く。
そして、穢れのない右手が上がりを奪い取るためにワンパイに伸びる。
初手でつかみに行けばリンシャン、ツモ、ドラ1の三翻手だった。けれど、今は違う。
「ツモ。――6000・12000」
シオリさんが滑らかに手牌をなぞり、ドミノのように牌を倒した。
ホーラ形 シオリ ドラ表示:三筒、裏ドラ表示:東風
一萬 二萬 三萬 六筒 七筒 八筒 一索 一索 南風 南風 南風 紅中 紅中
抜き:蘭花
ツモ:紅中
ダブリー 二翻
メンゼンツモ 一翻
リンシャンカイホウ 一翻
チュン 一翻
チャンタ 二翻
ドラ 四翻 40符 十一翻 三倍満 6000・12000
供託:1本
シオリ 32000+25000=57000点
ナギホ 23000- 6000=17000点
カズハ 23000- 6000=17000点
ナナミ 21000-12000= 9000点
やはり、狂気じみた上がりだった。
抜きドラに惑わされることもなく、ダブリーとウラドラで点数を跳ね上げ、大きな一撃を与えに行く。
そんな選択は普通の人なら選べない。なぜなら、それが選択肢にないからである。普通の人なら何の考えもなく花牌を抜き、偶然手に入れたハネマンに喜んで舞い上がって終わりである。
けれど、この人の中には、偶然の勝ちよりも必然の勝ちを選びにいくだけの器量がある。
勝ち急ぎには行かないくせに、勝利は逃がさずしっかりつかんでくる。
リスクは侵すくせに、背負えきれないリスクには手を出さない。
結果に貪欲にこだわるくせに、決して欲望の奴隷にはならない。
その絶妙な塩梅が強運を引き寄せ、しっかりとそれを踏み台に高みを目指す。
それは、普通の人をはるかに凌駕した思考と行動だ。
今まで見えなかったシオリさんの実像に、ほんの少し手が触れたような思いだった。
ここにきて、異常な上がりを連続でしてきた。これがいわゆるシオリさんの第二形態かどうかは分からないけれど、今までよりも一段ギアを上げてきたのは確かだった。
けれど、それが分かっても、打てる手は限られてしまう。こう何度も早い巡目で仕掛けられては、負けるのも時間の問題になってしまう。
――わたしも、早く手を打たないと。
かちり、かちり、とわたしの頭の中で音が反響する。
それは、脳内回路が新しいプログラムを組み替えるために切り替わる音にも、わたしの中に巣くう勝負の獣が逆転の牙を打ち鳴らす音にも聞こえた。




