第8話 にほんばとふぉんぱい、ばかぜ
負けられない勝負はまだ続いている。ギリギリのラインでわたしは何とか連チャンを重ねられている。
女王ホムラとの点差は29600点まで縮めることができた。一発で逆転するのは難しそうだけれど、丁寧に上がりを積み重ねれば越えられない壁ではないはずだ。
配られた牌をきれいに並べてわたしは次の戦術を確認した。
東四局 二本場 一巡目 東家 ナナミ 19100点 ドラ表示:四萬
三萬 四萬 四萬 五萬 八萬 五筒 六筒 八筒 四索 五索 九索 西風 北風
ツモ:二索
狙うとしたら、やはり数牌の二から八で作るタンヤオだろうか。
けれど、かなり使いづらい牌が多い印象を受ける。九索と西、北はもちろん、完全に孤立している八萬も邪魔だ。
おまけに八筒は一見使えそうでも、七筒を持ってくると五、六、七、八とつながり、3枚一組とするならば結局八筒はいらないことになる。同じ理由で二索も不必要だ。
もっとも、2枚ペアがない今は五、六、七、八という待ち方は五か八が来れば3枚一組と2枚ペアができる。まあこの理想形も七筒や三索が来ないと成り立たない。
とりあえず、わたしが組み立てたセオリー通りに字牌をさばくことにする。
東四局 二本場 三巡目 東家 ナナミ 19100点 ドラ表示:四萬
三萬 四萬 四萬 五萬 八萬 五筒 六筒 八筒 二索 四索 五索 九索 北風
ツモ:北風
ここで北が2枚ペアになってしまう。苦笑いがこみ上げてきそうである。
とりあえず、タンヤオは保留してテンパイを目指すことにする。序盤からあまり無茶しない方がいいだろう。
その後も、ゲームは先ほどとは打って変わって静かに進行する。ポニテのキヨミも女王ホムラもカチューシャのヒメリも捨て牌に大きな偏りもなく、一、九、字牌を中心に消費されていく。
その上、白、發、中いずれも3枚以上卓の上に置かれた。もうこの手の牌で役を作ることはできない。
――ということは、みんなタンヤオ狙いか。
そうなると、全員で二から八の数牌の取り合いだ。
東四局 二本場 六巡目 東家 ナナミ 19100点 ドラ表示:四萬
二萬 三萬 四萬 四萬 五萬 五筒 六筒 八筒 二索 四索 五索 北風 北風
ツモ:三索
なるほど、ラッキーパンチの準備はできてきたみたいだ。
二、三、四、五索で3枚一組と2枚ペアで決まり、さらに四、五萬と五、六筒と待ち方もかなりいい。
わたしは迷わず、北の1枚を拾い上げた。
その時だった。一瞬、頭を貫くような寒気が走った。
――いや、それはないはず。
みんな順調に一、九、字牌、二や八といった端っこに近い牌を切り出している。そしてわたし自身もその流れに乗って字牌である北を切り出そうとしているだけだ。
――まさか、誰かがポンをするのか?
確かに卓上に北の牌は1枚もないけれど、その可能性は低いはずだ。北はわたしがすでに2枚持っているのだから、残りの2枚をこんな状況で持っているとは考えにくい。
それに、東西南北の牌は親の東が強力なことくらいしか分からないにしても、他の西、南、北はまだ一度もポンされていない。
嫌な予感はするけれど、タンヤオを目指す以上通らないといけない道だ。
――進むしかない!
わたしは思い切って北を卓上に置いたけれど、あっさり裏切られてしまった。
「ポン」
ポンをしたのはヒメリだった。ヒメリは北3枚を表にさらして、三萬を捨てる。
――ヒメリ?
何かおかしい。仮に親にとって強力な牌である東を親であるわたしの方角とすると、反時計回りに北、西、南となるはずだから、ヒメリの方角は南になるはず。
万が一、それが逆方向だったら、これがヒメリの役になるということになるのだろうか。
ならば、急いだ方がいい。最悪でもテンパイしなければ。
「チーです!」
すかさず、わたしは四、五萬を表に向けてヒメリの三萬を手に加え、もう1枚の北を切る。二、四萬でチーをしてドラを持っていることを隠すこともできたけれど、プレッシャーをかける意味でもドラを持っていることをアピールした方が得策だと瞬時に判断した。
そして次のわたしの番が来る。
東四局 二本場 八巡目 東家 ナナミ 19100点 ドラ表示:四萬
二萬 三萬 四萬 五筒 六筒 八筒 二索 三索 四索 五索
副露:三四五萬
ツモ:二索
来てる。今流れはわたしに来てる! そう確信した。
これで八筒を切れば四、七筒待ちのタンヤオにドラ1。あまり高い点数は期待できないけれど、今回はあくまで連チャン狙いだ。さっさと上がってしまえばいい。
わたしは迷わず八筒を差し出した。
そして、続くキヨミが三索を、女王ホムラが八筒を無難に捨ててくる。
まだ二人がテンパイしているかどうかはよく分からない。
問題は、ヒメリの手だ。
北3枚が役になるのであれば、あまりいい状況とは言えない。最悪、テンパイしているのかもしれない。
ヒメリが上がってしまえば、どんなに低い点数でも、わたしの負けが確定してしまう。
わたしは、何が何でも連チャンしなければいけないのだ。わたしの番さえ回ってくれば、次に望みを託せるのだ。
わたしは祈るような気持ちで、ヒメリの手つきを見ていた。
そして、ヒメリの番。山から持ってきた牌をそのまま切り出した。その牌は六萬。
――やっぱり、流れがわたしに来ている!
ほっと胸を撫で下ろし、わたしは山から1枚牌を持ってくる。
手にしたのは、七索だった。わたしの上がり牌ではない。
けれど、大丈夫。わたしにはまだ上がれるチャンスがたくさんあるから。
そう思って七索を卓の上に捨てた直後、背筋にゾクッと悪寒が走った。
そして、ヒメリが上がりを宣言する。
「ロン。ペイ、ドラ3の二本場は8600点よ」
和了形 ヒメリ ドラ表示:四萬
二萬 二萬 五萬 五萬 五萬 一筒 二筒 三筒 六索 八索
副露:下北風
ロン:七索
ペイ 一翻
ドラ 三翻
40符 四翻 満貫 8000
積み棒:2本
ホムラ 48700点
キヨミ 24000点
ヒメリ 8200+8600=16800点
ナナミ 19100-8600=10500点
――先に、上がられた!
ということは、わたしの、負け?
わたしがヒメリを上がらせたのだから、その点数はわたしが全額支払う。
4位のヒメリが上がったのだから、わたしが最下位転落。
一人一回ずつ親を行ったのだから、おそらくこれでゲーム終了。
女王ホムラとの得点差は、31600点。つまり、女王ホムラとの賭けでわたしの支払う額は――31600円!?
――終わった。
サナちゃんに頼まれていた部室の鍵は、結局取り戻せなかった。
しかも、そんな高額なお金、とても払えない。高校一年生のわたしが払える額じゃない。
頭が真っ白になる。胸の奥からこみ上げる苦々しい感情が、喉を刺激し、口いっぱいに苦みの錯覚を覚えさせる。
――落ちつけ! せめてこの場を切り抜けなければ。
わたしは自分の手牌を伏せ、すかさずポケットに入れていた財布を雀卓の上に放り投げた後、立ち上がって踵を返した。
財布の中身は4000円ちょっとと学食の回数券数枚、駅前の喫茶店のポイントカードくらいだ。大したことはない。――賭け金に比べたら、の話だけど。
つまり、あの財布は時間稼ぎだ。あたかも、賭け金を払ったかのように見せて、わたしが部屋を出るまでの時間を稼ぐ犠牲だ。
財布があちらの手にあるのだから、わたしを引き留めはしないだろう。
けれど、低く重たい勝負師の声がわたしの耳をつんざく。
「――おい、どこ行くんだ?」
身体全体に震えと緊張がまとわりつく。心臓の鼓動が早まる。
けれど、わたしは歩を止めない。全身を縛りつけられるような恐怖を振り切ろうと必死にあがく。
やっとの思いで部室の扉まで行きついた。ほんの四、五歩だったけれど、ものすごく長い時間がかかったような感覚だった。
わたしが必死になってこの場を立ち去ろうとしているのは、単に賭け金が払えないからだけではない。
わたしは、勝負師としての本能をよく知っていた。だから、その本能がわたしを動かした。
――敗者は、ただ去るのみ。
部室の扉に手をかけると、目頭が熱くなってきた。
――そういえば、わたしが何かのテーブルゲームで負けたのって何年ぶりだったかな?
扉を開けようと力を入れた時、圧倒的にこの場を支配している者の声が再び響いた。
「――まだゲームは終わってねぇだろ? 南入だ。南場の四局が残ってるだろ?」
その言葉は、わたしの脳髄に鋭く突き刺さった。
――なん、ば?
まだ、ゲームは終わってない?
まだ、勝機がある!
「――ちょっと外の空気を吸いたくなっただけですよ。財布はわたしが逃げ出さないための担保みたいなものです」
わたしはとっさに振り返って営業スマイルを見せた後、部室を堂々と出ていった。
震えが、怖気が、吐き気が止まらない。
脳髄が千切れんばかりに痛んで、心臓がはちきれんばかりに鼓動する。
――本当に、負けたかと思った。大事なものをたくさん失うところだった。
わたしは化粧室で顔を洗い、火照った身と心を鎮める。
――冷静にならなければ。
スカートのポケットからハンカチを取り出して、濡れた顔を拭きながら、頭の中で思考がぐるぐる回る。
負けたと勘違いした時の身体の動揺が落ちつかない。とりあえず、身体は二、三分もすれば落ちつくだろう。
それよりも、ここで得た最後のチャンスを生かす手立てを、女王ホムラとの31600点の点差をひっくり返すための手立てを、考えなければ。
最後の勝負で、東西南北の牌の謎がようやく解けた気がする。
おそらく、各人に方角が与えられる。それは親が東で反時計回りに南、西、北となるのだろう。地図上の方角とは逆だけれど、ヒメリの手は北とドラしかなかったことから、前者の仮定は成り立ちそうだ。
そして、女王ホムラの上がりで宣言したダブトン、さらに次からは南場らしいこと。この二つを踏まえると、今までは東場だった、ということだ。
おそらく、次からは南場ということだから、親から見て右側に居る人の南3枚は強力になるということだろう。
それならば、むしろここからの南場がわたしのチャンスだ。
キヨミの親。女王ホムラの南3枚さえ凌げれば何とかなる。
ヒメリの親。何とかして南3枚集めたいけれど、あまり無理は禁物か。
――逆転の鍵は二つ。
女王ホムラの親番に大きな手を自分のツモか彼女の捨てた牌でロンすること。
そして、自分の親番。連チャンはもちろんだけれど、女王ホムラの捨て牌で上がりたい。
けれど、今まで一度も女王ホムラは誰からも捨て牌で上がられていない。
その上、わたしがテンパイした時の女王ホムラの捨て牌は明らかに不自然だった。わたしに上がられないように、わたしの捨て牌に重ねるように牌を切り出していた。
女王ホムラのことだ。ただ単純にわたしが捨てた牌では上がられないだろう、なんて安直な思考の元に動いていたとも考えにくい。
ならば、おそらくルール的に麻雀では自分の捨てた牌では上がれないのだろう。
となると、女王ホムラからわたしの上がり牌を引き出させるためには、罠を張らなければ。
腕時計を見る。部室を出て三、四分、か。部室を十分以上離れるのはあまりよくない。
時間いっぱいまでルールでも役でもとにかく情報を集めよう。
そう思ってわたしはスカートのポケットに手を入れて……。
――しまった! スマホは部室の鞄の中だ!
情報を得る手段もなし、か。いつも通り、ゲームの中で法則を見つけないといけないなんて、とんだ受難だ。
――まあいいか。いつものことなら、なおさら。
わたしは鏡を見つめながら、両手で自分の頬をぱんぱんと叩いて気合いを入れ直した。
――さて、戻ろう。『無敵の女神』の名に恥じない華麗な逆転劇を見せてあげるわ!