第71話 せいなるだんざい
「随分なご挨拶ね、シオリ」
ナギホさんが身構えるように眼鏡の位置を整えた。
声音もいつもより2トーンくらい低い。紛れもない敵意の表れだ。
神々しいまでに整然としたシオリさんに敵意を向けられる人がこの世に存在しうることにわたしは驚きを隠しきれなかった。
そればかりか、いつも温厚なナギホさんが誰かに敵意を向けることさえあり得ないことだと思っていたのでますます混乱してきた。
信じられないことが、2つ同時に起こった。
異様な空気感に下級生のわたしたちには手も足も口も出せなかった。
「無礼を承知で頼んでいるの。少しお話ししない?」
シオリさんは表情一つ曇らせない。
それは相手の心理をまさぐるポーカーフェイスでもなければ、自分の心理をシャットアウトする仮面の表情でもない。
ごく自然体の笑顔だった。
相手の敵意を削ぎ、自分の喜びを表現する飾らない笑顔。
この場には全く不釣り合いな代物だ。
けれど、何の違和感も抱かせない。ただただ祝福を表現する笑顔をしていた。
「いいわよ。みんなごめんね、ちょっと卓貸してくれる?」
ナギホさんがわたしたちに話しかけた時にはいつもの声音に戻っていた。
けれど事態は何も収拾していない。わたしたちは磁石が反発するように静かに宅から離れた。
そこへナギホさんが椅子に腰かけ、促されるままにシオリさんが対面に座る。
「それで、話って何かしら?」
ナギホさんの利きなれないドスの利いた声が耳を打つ。
けれど、シオリさんの表情はみじんも揺るがない。
「言ったでしょう? 今すぐ部室を畳んでほしいの」
「そういうのは話とは言わないわ」
シオリさんの凛とした言葉にもナギホさんは屈しない。
「それもそうね。じゃあ言葉を変えるわ」シオリさんは溜息を1つ挟んだ。「――生徒会として、『NANA☆HOSHI』の活動停止を命じます」
「それは通らないわ。『NANA☆HOSHI』と生徒会との契約があるでしょ?」
「それが通るのよ。契約だから」
「どういう意味かしら?」
ナギホさんが一瞬表情を曇らせた。一方のシオリさんは優雅に紅茶をたしなんでいるような素振りで動じない。
鬼気迫る言葉の心理戦にわたしは気圧されていた。
その時、横にいたサナちゃんが肩をとんとんとつつく。
「ナナみん、契約ってさっきナギホさんが言ってたやつ?」
頭を近づけてささやくサナちゃんにこくりとうなづき返した。
「多分、そうだと思う」
「あれッスよね? 聖夜祭で勝負する代わりに勝手に廃部にされないっていう」
ヨミちゃんまで頭を近づけてきて、小声で会話に入ってきた。
「でもでも、それじゃあナギホさんの言う通りじゃない?」
サナちゃんが言うことももっともである。
『NANA☆HOSHI』と生徒会の間でナギホさんの言っていた契約が取り交わされていたのなら生徒会の一存で部活停止できないはずである。
けれど、それならばわざわざ生徒会長直々に来訪してくるだろうか?
わたしのこころにぞわりとした悪寒が入り込んでくる。
「まさか、『廃部』じゃなくて『活動停止』だから通るなんて詭弁を言うんじゃないでしょうね?」
ナギホさんが牽制を入れるがシオリさんは巻き髪を揺らして首を振る。
「まさか、そんな理不尽を押し付けるつもりはないわ」
「じゃあ説明してくれるかしら?」
「簡単よ。女学院の風紀を著しく低下させた場合その限りではない、ってことよ」
「あのブルマのことかしら? 残念ながらそれは通らない――」
「いいえ、違うわ」
「――えっ?」
ナギホさんが不意を突かれたような顔をして言葉を詰まらせた。
シオリさんは静かに、子供を諭すように続ける。
「4月、ここで賭博麻雀が行われたでしょ?」
その言葉と同時に、部室の空気が凍り付いた。
右目を負傷した煉獄の女王の顔が頭の陰でちらつく。
確かにこの場所では、依然いけないことが行われていた。
ヨミちゃんとヒメちゃんの顔から急速に生気が抜けていく。当然だ。ヨミちゃんとヒメちゃんは当事者だったのだから。
そして、わたしもそうだ。部室を取り戻すという名目があったし、お金はすべて返したけれど、賭博麻雀をしたことは事実である。
――だから、強く否定はできない。
「――とんだ言いがかりね。証拠でもあるのかしら?」
ナギホさんの言葉に少し動揺が見えた。
ナギホさんも気づいているのだろう。ここで賭博麻雀が行われていたことはナギホさんも知っていたことだ。だからサナちゃんがわたしに助けを求めてきたのだから。
つまり、ここにいる人はみんな知っている。
「証拠ならあなたが握ってるんじゃないの、ナギホ? 記録のために何台も監視カメラがあるんだから」
ナギホさんは再び言葉を詰まらせる。
一方で、生徒会長さんの凛とした気品な態度は揺るがない。
――誰も、何も言えない。
「でもでもっ!」サナちゃんが口火を切った。「ナナみんはきちんとお金返したし、何も問題ないじゃん!」
サナちゃんは狼狽を身体で表しながら力説する。
けれど、シオリさんは微塵も動じない。体全体をこちらに向け、柔らかな笑顔を見せて尋ねてくる。
「脅迫しても謝ったら罪は消えるのかしら? それとも、窃盗した物を返したら罪は消えるのかしら?」
柔らかな、それでいてナイフのようにとがった言葉がサナちゃんを黙らせる。
バカなサナちゃんでも理解できたみたいだ。金銭の授受が元に戻っても、罪を犯した事実自体は消えないということを。
シオリさんはとても強い。事実と正論を武器にしてわたしたちを追い詰めてくる。
そして、優しい。
「だから、少し話をしない? わたしは『NANA☆HOSHI』を追い詰めに来たのではないから」
微笑みをにじませた顔をナギホさんに向き直す。
「どういう、ことかしら?」
「簡単な話よ。『NANA☆HOSHI』の不祥事は幸か不幸かわたししか知らないの」
「つまり、取引ってことね」
「まあ、そういうことかしらね」
屈託のない表情でシオリさんはうなずく。
この人は見た目とは裏腹にとんでもない話を振ってきた。
食堂で見せた冷たい感覚が甦ってくる。
「条件は何かしら?」
「せっかく活動停止を持ち掛けているのだから、『NANA☆HOSHI』らしく決めないかしら?」
「『NANA☆HOSHI』らしく?」
「もちろん、麻雀の勝負よ」
「えっ!?」
シオリさんの言葉に、1年生みんなは驚嘆の声を上げる。
話がどんどん訳の分からない方向に向かっている。
わたしたちは今、賭博麻雀について糾弾されているはずだ。
なのに、生徒会長ともあろうお方が、部室の存続を賭けて麻雀の勝負しようと言っている。理解の範疇をはるかに超えてきている。
けれど、上級生は気にした様子を見せず、話を進める。
「――いいわ。その申し出、乗ってあげる」
「決定ね。それじゃあ、詳細は追って連絡するわ」
話をまとめた跡、シオリさんはゆっくりと立ち上がり、部室を後にした。部室を去ってなおしばらくは神々しさや清らかさが残り香のように部室を満たしているようだった。
「あ、あのナギホさん、いいんですか?」
わたしが心配してナギホさんに尋ねる。その思いは他の3人も同じみたいで、焦燥と動揺を隠せないでいる。
「ええ、乗りかかった舟、こうなったらやるしかないわ」
「そうじゃなくて、そういうことを麻雀の勝負で決めていいんですか?」
「ああ、そういうことね」
わたしの疑問にナギホさんは不敵な笑みを見せた。
「いい? これは良し悪しじゃなくてチャンスなの。あたしたちが勝てばあたしたちの不祥事の責任を生徒会長であるシオリが負ってくれるってことなの。誰かが負わなきゃいけない責任を、誰が負うかを決める勝負をあちらが提案してくれたのよ。乗らないわけにはいかないじゃない」
ナギホさんの言葉はもっともだし、ある意味で正しいと思う。
けれど、当事者であるわたしにとってはあまりそこまで割り切って考えることができない。思考をぐちゃぐちゃにするような複雑な感情が頭の中を反響している。
当事者であったヨミちゃんやヒメちゃんだけでなく、鈍感なサナちゃんでさえ同じ感情を共有しているような顔をしていた。
けれど、ナギホさんはヒマワリのような笑顔を見せた。じめじめとした梅雨のような空気に満たされた部室に、明るい次の季節を教えてくれるように笑った。
「あまり責任を感じないで。あたしにも責任の一端があるんだから。聖夜祭の勝負がちょっと早まっただけだしね」
「でも――」
「とりあえず、今日は解散にしましょう。こんな空気だと、打ちたくないでしょう?」
ナギホさんがぱんぱんと手を叩いて、今日の部活動はお開きとなった。促されるままにわたしたちは部室を出るしかなかった。
窓の外には濃い灰色をした雲が空を完全に覆っていて、しとしととまた雨が降り始めた。




