第32話 こころなぐまで
次局に向けて洗牌の音が鳴り響く間も、あたしはどこか腑抜けた感覚が残っていた。
――役満、ねぇ。
前局のあたしの幻となった上がりが頭から離れないでいる。
大物手を張った、あるいは上がった次の局は、あたしの経験上最も難しい。
テンパイするとただでさえ緊張する。ましてやバイマン以上のテンパイは簡単にお目見えすることないので、心臓の鼓動は早まるし、呼吸は浅くなり、発刊、喉の渇き、瞳孔の開きといった形で緊張が生理的な影響を与える。
その手が上がるか否か、どちらにしても体の活動はすぐには切り替わらないので、結果的に次局にも引きずることになる。
上がったら喜びが、上がれなかったら悔しさという大きな感情の揺れが生じるし、それをリセットするだけの時間が与えられないので、打ち方が冷静さを欠いたものになってしまう。
このまま弾みをつけて大きな手を作りたくなる気持ちを抑えるのが難しい点差でもあるし、この局はみんなを見守るつもりで打ちに行きましょう。
南三局 二本場 一巡目 西家 ナギホ 14300点 ドラ表示:六索
一萬 四萬 九萬 二筒 五筒 八筒 二索 二索 六索 九索 南風 西風 緑發
ツモ:白板
――しかしまぁ、こんな手が入るとはねぇ。あたし、明日死ぬんじゃないかしら?
シーサンプータという古い役がある。親の配牌時、あるいはフーロのない状態での子の第一ツモでトイツが一つあり、それ以外にメンツやターツがない時に成立する役だ。点数は役満32000点。
すなわち、あたしは前局の興奮が冷めないうちにまた役満を上がってしまったのだ。
しかし、星愛女学院公式ルールでは、シーサンプータは認めていない。もちろんピンフ縛りの条件も満たしていない。
だからこの手は、ただのチーシャンテンの遅い手。
――あたしにとって役満は、どこまでも幻なのね。
溜め息をつきたくなる気持ちを必死に抑え、ツモってきた白をそのまま河へ置いた。
あたしの心情とは真逆にも、ゲームは穏やかな立ち上がりを見せる。
字牌、字牌、字牌……。卓上には字牌という字牌が顔を見せていく。
その様子は少し気持ち悪くもあった。
あたしはピンフ縛りなのだから、字牌で上がることはできない。すなわち、字牌はあたしに対して絶対安全牌なのだ。
戦術の読めないナナミちゃんはともかく、リードを守りたいキヨミちゃんやヒメリちゃんはもっと引いて防御の構えを見せるべきだ。
なのに、字牌ばかりが切れていく。
――少し、考えすぎなのかもしれない。
他三人もあたしのようにひどい配牌なら、とりあえず手を整えてから下りるか安く流すかを選べばいいのだから。
南三局 二本場 五巡目 西家 ナギホ 14300点 ドラ表示:六索
一萬 四萬 七萬 九萬 二筒 五筒 八筒 二索 二索 三索 六索 九索 西風
ツモ:七筒
とりあえず、少し落ち着いたとはいえ、ウーシャンテン。ピンフはおろか、まだまだ戦える状態ではない。
あたしは最後の字牌である西を手牌から追放した。
次巡、キヨミちゃんが八筒を切り出し、手を進める。
その動きは淀みなく、あたしとの点差が15400点ということも手伝ってか、少しは精神的に楽になっていることが何となく分かる。
ナナミちゃんは、白切り。そのツモさばきはホムラのそれに似ていて、怯えも迷いもない。
しかし、少し怪訝な顔をしているところから汲み取ると、あたしと状況が同じで、大きな手を張った後の余波に苦しめられていそうだ。
ヒメリちゃんは九萬切り。彼女が一番落ち着いているように見える。
ナナミちゃんやあたしの行動に翻弄されながらも、対処が適切で立ち直りが早い。その冷静な判断が捨て牌を置く所作にも表れている。
その後も、雪が積もっていくように場は静かに、しかし着々と進行していく。
壁牌から1枚牌を持ってきて、自分の手と見比べ、不要な牌を1枚河へ送る。その他愛のない所作でさえ個性的で、その人の性格や心情が如実に現れている。
――そうは言っても、どんな手をそろえようとしているかは分からない。ましてや、落ち着いた立ち上がりほど狙いは読めなくなる。
次第に、キヨミちゃんやヒメリちゃんからチュンチャンパイの中でも厳しい四、五、六といった数牌が出てくる。
しかし、今回は今までとは違う傾向が一つ。
ナナミちゃんに全く動きが見られない。八巡目にやっと初めての数牌が出てきたが、それも一索である。
麻雀ではツモや手牌が最悪で、八巡目ぐらいまではヤオチュウハイを捨てる羽目になることはそう珍しいことではない。
だから、本来は手作りに苦心していると気にも留めないだろう。
しかし、ナナミちゃんがこうも愚直に字牌を捨ててくるとは、何か企んでいると考えてもおかしくはない。
チュンチャンパイがそろうとピンフが付くリスクも上がるので、ナナミちゃん的にはあまりよい流れにはならないはずである。
それを知りながら、積極的にチュンチャンパイを抱え込んできている。
ということは、タンヤオはもちろん、下手するとサンアンコーぐらいは抱えていてもおかしくはなさそうだ。
字牌をさばくだけでアンコーが簡単に作れればそんな楽なことはない。そう、麻雀はそんなには甘くない。
でも、目の前のこの子はそんな芸当をまるで呼吸をするようにこなしてくる。
「リーチです!」
十巡目、今までの静寂を突き破って卓上にリーチ棒が舞った。
ナナミちゃんの闘志を湛えた鋭い眼光が、眼鏡のレンズを通して突き刺さってくる。
――そう、幾度となく見せてきたこの攻撃的な眼差し。自分の勝利を確信して疑わない真っすぐで無垢な瞳。
彼女の後ろに立つサナエちゃんが、不安げな表情を見せながら「ナナみん……」と小さくつぶやいた。
その瞬間、あたしの脳内にはある可能性がひらめいた。
――ブラフ? もしかして彼女は、ピンフで待っているの?
彼女は現在28700点の2位。あたしとは14400点差だ。
この点差なら、無理に上がる必要など、どこにもない。
だからこそ、ピンフの形であっても、リーチという積極的な攻めの姿勢を取ることができる。
上がれないリーチ。上がらないリーチ。それはまさに東場で見せたあたしの攻撃スタイルそのものだ。
――その神経が怖い。あたしにマンガン振り込めば逆転されるというこの状況で、こんな思い切ったことができるかしら? あるいは、本当にピンフではない大物手を作り上げてしまっているのかしら?
それが、彼女の強さなのかもしれない。普段は全く見せないその大胆不敵なプレイスタイルが、『無敵の女神』を作り上げているのかもしれない。
少なくともあたしは、彼女のそこが天才たらしめるもののような気がしていた。
ヒメリちゃんは動じることなく、九筒の合わせ打ち。絶対的な安全牌とはいえ、これだけ落ち着いて打てるということは、下りきる自信があるということね。
南三局 二本場 十巡目 西家 ナギホ 14300点 ドラ表示:六索
四萬 六萬 七萬 二筒 三筒 五筒 七筒 八筒 二索 二索 三索 六索 七索
ツモ:四筒
相変わらず、あたしの手は煮え切らない。シャンテン数は下がったが、ターツが多すぎる。攻めの方針を決めるに決められない嫌な流れだ。
だからと言って防御に回るにも向かない手だ。危険牌が多すぎて、とても流局まで下りきれない。
――もういっそ、吹っ切れた方がいいかもしれないわね。
あたしは苦笑を噛み殺しながら、五筒を人差し指で倒して、河へと引きずった。無スジのど真ん中。リーチ者に対して最もやってはいけない行為だ。
もう心の底から信じるしかなかった。彼女はブラフのカラテンリーチをしているというあたしの判断を。
人差し指の先から感じる痺れるような緊張が、心拍数を大きく跳ね上げる。ほとばしる身体中の熱が血液の流れに乗ってかき回される。
息を持つかせぬ一瞬を、沈黙が支配した。
この嫌な沈黙があたしの身体を縛り付け、精神を高ぶらせる。
自分が自分でなくなるような、次の瞬間には自分の命の灯火が消えてしまいそうな、超自然的な緊張感があたしの魂をゆっくりと侵食してくる。
しかし、麻雀では沈黙が答え。沈黙こそが真実。
――通った!
キヨミちゃんが次の牌をツモって確信に変わった。
次巡、ツモってきた三萬を突っぱね、さらに手の内の四萬を切り出した。
ここまで来ると、自然ともう迷いはない。ナナミちゃんのリーチをかわして上がりを勝ち取るだけ。
南三局 二本場 十三巡目 西家 ナギホ 14300点 ドラ表示:六索
六萬 七萬 八萬 二筒 三筒 四筒 七筒 八筒 二索 二索 三索 六索 七索
ツモ:八索
流れが甦ってきた。高めでタンピン、サンショク、ドラ1。マンガンまで手が伸びるのでナナミちゃんが六筒を捨てれば逆転できる。
しかもナナミちゃんはリーチをかけているので防御に回ることができない。それに、闘志が宿った瞳とは裏腹に上がる気配が全然ない。
――だったら、上がらせてもらうわ!
あたしにはもう怯えはなかった。三索を切り出してテンパイを取る。
直後のキヨミちゃんの番、あたしの上がり牌である九筒を捨ててきた。
一瞬、ほんの一瞬だけ右手が動きそうになったが、ぐっとこらえる。
ここはセンスの見せどころだ。
上がりを宣言してキヨミちゃんから2000点奪ったとしても、順位は変わらない。点差がわずかに縮むだけだ。しかし得点できるというメリットは享受することができる。
逆に上がらない選択を取れば、マンガンを獲得するチャンスは残るが、何も得られずに終わる可能性もある。得点できたのに判断ミスで何も得られないとなると、悔しさの味も一層苦くなる。
――それでも、あたしは上がらない。こんな逆転のチャンスが次局にも訪れることを願うぐらいなら、今この場で逆転できるチャンスに賭ける!
この一巡は注意が必要だ。上がり牌を見送った一巡に限り、フリテンが成立する。つまり、次のあたしの順番が来るまで、ナナミちゃんやヒメリちゃんが六筒を捨ててもフリテンで上がれないのだ。
それが唯一の懸念材料。この一瞬の隙を彼女は逃さず突いてくるのではないかという不安がどうしても拭い切れない。
そんなナナミちゃんが捨てたのは、一筒。
緊張感を吹き飛ばすようなほっと安心した直後だった。
「ロン! ピンフ、ドラ1の二本場は2600点よ」
ヒメリちゃんが落ち着いた声で上がりを宣言した。
和了形 ヒメリ ドラ表示:六索
二萬 三萬 三萬 四萬 四萬 赤五萬 二筒 三筒 二索 三索 四索 六索 六索
ロン:一筒
ピンフ 一翻
ドラ 一翻
30符 二翻 2000
供託:1本、積み棒:2本
ヒメリ 26300+3600=29900点
キヨミ 29700点
ナナミ 28700-2600=26100点
ナギホ 14300点
ヒメリちゃんの申告に従って、ナナミちゃんが点棒を支払う。
その終わり方は、あまりにあっさりしていた。
ナナミちゃんとの点差は11800点に縮まった。それでも逆転するには四翻以上必要になる。
トップのキヨミちゃんをまくるにはハネマン以上のツモが必要だから、厳しいとはいえ現実的なところにその可能性がある。
泣いても笑っても、次が最終局。最後まで気を抜かずに食らいついて、部長らしいところを見せないとね。
そういう思考を巡らせていると、ふと全員の点数が目に留まった。
瞬間、脳髄に衝撃が走る。ナナミちゃんの振り込みには緻密に計算されたロジックが組み込まれていることに気が付いた。
――キヨミちゃんも、ヒメリちゃんも、プラスマイナス0の原点!?
あたしは再び揺れ動き始めた心を押さえつけ、目の前の少女を見た。嵐に翻弄される風見鶏のように定まらない焦点の先にいる彼女が初めて正真正銘の化け物に見えた。
――この子、始めから全員を入部させるために、みんなに点数を配っていたのね! しかも全員原点越えだから、文句のつけようがない。
彼女が本格的に動き出したのは南場から。しかも南入した直後はナナミちゃんが4位だった。人に気を配る余裕なんてないはずなのに、それをやってのけてしまった。
オーラスに彼女が原点を越える上がりをあたしに直撃するのは、きっと造作もないことかもしれない。
しかし、あたしの脳髄は同時にそれに納得していた。いやむしろ、今まで感じていた言い知れない恐怖に理由が付いて安心さえしていた。
だからこそ、悔しい。ぐっと噛みしめる口の中に唾液が溜まり、飴玉をゆっくりとなめるように苦く酸味のある屈辱の味がする。
ここまでされたら、黙って終わらせるわけにはいかない。
次の局でゲームが終わる。
それまでに、必ず彼女を超越してみせる!
だからもう予定調和な勝負をここで打ち砕いてみせる!
あたしは目の前の勝負の獣と鋭い眼光で対峙した。




