第29話 かくれたさくりゃく
キヨミちゃんの連荘により、再び彼女の親でゲームが始まる。
配牌が終わり、キヨミちゃんが東を切り出す。初手で自風を捨てるということは、無駄な字牌がなくて手が整っているということ。この局もキヨミちゃんのペースで進みそうだ。
しかし、その予想は大きく裏切られることになった。
「リーチです!」
ナナミちゃんが、七萬を横に向けて捨て、1000点棒を卓に差し出した。
――ダブリー!?
一巡目からのリーチ。それは二翻つくダブリーへと昇格される。
ナナミちゃんは手出しだから、配牌イーシャンテンで、ツモってテンパイしたことになる。
とにかく、この役は厄介だ。
第一に、上がり牌が読めない。捨て牌の数が少なくて読めないのもあるが、全くの偶然で作られる役の性質上、待ち方も偶然によって決まるのでスジを頼ったり、今までの打ち方で探りを入れるということが通用しない。どこまでも運に委ねるしかないのだ。
そして、ツモ上がりされる確率が高い。例えターチャ三人が防御に回ったとしても、ツモの残り数が十分すぎるほどある。どんなに悪い待ちでもツモってしまう可能性が十分にある。
しかし、ダブリーはナナミちゃんにとってもメリットばかりではない。
まず、得点があまり伸びない。手が偶然によって決まるので、他の役を複合させにくい。せいぜい高くてもマンガン程度。ダブリーは見送って手役やドラをそろえた方が結果的に点数が大きくなることもある。
だから、7500点と大きく沈んだ状態でトップであるあたしと競おうとするのならば、ダブリーは見送った方が賢明だ。
点差は32600点。あたしがバイマン振り込んでも逆転できないのだ。ダブリーなんかでバイマンなんてほとんど望めないから、見送るべきであるはずだ。
そして、彼女にとって最大の足枷となるのは、心理戦からの退場だ。
普通のリーチでも言えることだが、リーチをかけた後は上がり牌が来るまでツモ切りを繰り返すだけになる。そうなると相手がテンパってるかどうかや、突っ張るか下りるかといった心理戦の要素が全くなくなってしまう。その心理戦に長けたナナミちゃんがたった一巡でそれを放棄してしまうことは彼女にとってはよくない展開であるはずだ。
聡明な彼女なら、それぐらいのリスクは承知の上であるはず。
そこまで考えてのダブリーなら、キヨミちゃんの親をさっさと流して自分の親へと弾みをつけるのが目的だろう。
南二局 一本場 一巡目 北家 ナギホ 40100点 ドラ表示:一筒
三萬 三萬 四筒 一索 二索 三索 四索 六索 九索 東風 北風 緑發 紅中
ツモ:八索
――また、偏った手になったわね。
ソーズの染め手が見えるけど、やっぱり字牌整理から進めることにする。
ダブリーの対策といえば、基本的には無視することだ。上がり牌が偶然で決まるので、完璧に防御する術などないのだから、下手に手を崩して守りに入る必要も、必要以上に警戒することもない。
言えることがあるとすれば、やはり上がり牌は偶然で決まるので確率的に低い字牌からさばけばいい。
まさかイッパツツモでも起こるんじゃないか、と思ったが、その後は何事もなくゲームが進んでいった。ナナミちゃんも着々とツモ切りを繰り返していくだけで特別変わった様子は見せなかった。
南二局 一本場 七巡目 北家 ナギホ 40100点 ドラ表示:一筒
三萬 三萬 三萬 六萬 四筒 一索 二索 三索 三索 四索 六索 八索 九索
ツモ:赤五筒
――ここまで来てピンフのリャンシャンテン、か。
キヨミちゃんもヒメリちゃんも字牌整理を済ませ、本格的に手を作り始めるところのようだし、まだまだ攻めてもよさそうね。
あたしは九索を捨てながら、トイメンにいるナナミちゃんの様子をうかがう。
彼女の淀みない瞳。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
リーチをかけたら心理戦から除外されるはず。
なのに彼女は何も変わらない。闘志に満ちた瞳で勝負を静観している。
――いや、まるで勝負に参加しているようね。
キヨミちゃんがあたしに合わせて九索を切り、ナナミちゃんの番になる。
彼女の小さくてすらっとした指が牌山に触れた時だった。
あたしの脳内に閃くように記憶が甦った。既視感のような、不思議な感覚が込み上がってくる。
――あの子の指も、きれいだった。きめ細かい肌に白い爪。まるで幸運にそっと触れるために用意したような指。
もしかして、彼女も――?
彼女は引き寄せたツモ牌を手牌の横にさらした。
――上がられた。
そのツモ牌の南を見た瞬間にそう感じた。ここにいる誰もが感じたはずだ。
だから、彼女の次の言葉が怖かった。
「カンです!」
彼女は手牌の右3枚の南を表に向ける。
――ダブナン!
そのまま彼女は慣れた手つきでリンシャンパイをツモって手牌の上に重ね、新ドラを人差し指で弾いて表に向ける。
現れた表示牌は、東。
「「ドラ4!?」」
キヨミちゃんとヒメリちゃんが驚嘆を上げる。無理もない。あたしも心の底から声が漏れそうになったのだから。
ナナミちゃんとホムラの牌符が頭をよぎる。簡単にカンドラをもろに乗せる人並み外れた強運を自由自在に操る彼女の打牌が、実感を伴ったリアルとして迫ってくる。
とにかく、これでナナミちゃんの手はダブリー、ダブナン、ドラ4のあっという間にバイマンだ。振り込んだら一発で肉迫される。
――もう、下手な牌は捨てられないわね。
南二局 一本場 九巡目 北家 ナギホ 40100点 ドラ表示:一筒、東風
三萬 三萬 三萬 六萬 四筒 赤五筒 一索 二索 三索 三索 四索 六索 八索
ツモ:七索
しかし、こういう時に限っておいしいところをツモってくるのが麻雀だ。
六萬切りでイーシャンテン。しかもリャンメンターツだから三萬切りでピンフのテンパイにつながる。
この半荘で、初めてあたしがピンチに立たされた。
心臓が早鐘を打ち始める。自らの鼓動で自らの胸を圧迫するようにどくんどくんと暴れ出した。
――そう、この感じ! この感じがあってこそ、勝負をしているという実感が湧くわ!
負けるかもしれないという不安と勝ちたいという欲望が交差するこの緊張感が、ゲームの面白さを高い次元まで持ってくる。
六萬が通れば三萬はスジ。六萬さえ通れば、テンパイにつながる可能性が高い。
バイマン相手にピンフドラ1なんてとても釣り合わない勝負だと思っていても、あと10枚近いアンパイを切り続けることなんて簡単なことではない。その間に彼女が上がることは高い確率であり得る。
――だったら、攻める!
あたしは無スジど真ん中の六萬を摘まんで河に差し出した。
暴牌なのは百も承知だ。しかし、それさえ通れば、ナナミちゃんの大物手を水泡に帰すことができるのだ。
先輩の意地を、ここで見せてあげるわ!
一瞬の沈黙の中に響く拍動。こんなにも自分の心臓がうるさいと感じたのは久しぶりだった。
キヨミちゃんが牌山に手を伸ばす。そして、牌を一つ持っていった。
――通った!
言いしれない喜びが、顔をにやけさせようとするのを必死にこらえながら、誰にも聞こえないように嘆息を一つ零した。
これが通れば流れはもうあたしのもの。次巡にテンパってその次の番になった。
南二局 一本場 十一巡目 北家 ナギホ 40100点 ドラ表示:一筒、東風
三萬 三萬 四筒 赤五筒 一索 二索 二索 三索 三索 四索 六索 七索 八索
ツモ:四索
ピンフのテンパイどころか、高めのタンヤオ、イーペーコーが入ってきた。
こんなの、もう上がってくれと言われているようなものだ。
迷うまでもない。
「リーチよ!」
あたしは一索で勝負を仕掛けに行った。
これでマンガン8000点確定。6500点のナナミちゃんが振り込めばそれでゲームセットになる。しかもツモ切り状態のナナミちゃんには避けたくても避けられない。
あたしが放銃すればナナミちゃんの逆転。
ナナミちゃんが放銃すればゲームセット。
しかもそれが完全に運に委ねられた。勝負の行方は神のみぞ知る。
キヨミちゃんは完全にベタ下り。2位で得点も十分あるのだから当然の判断だ。
ナナミちゃんはツモった五筒をあっさりさばく。いくらツモ切りするしかないとはいえ、勝負が決するかもしれない捨て牌で何のためらいもなく捨ててくるのだから、肝の据わり具合が人並み外れている。
そして、ろくにピンズを捨てていないあたしに対しても五筒が通るのは当たり前だといった涼しい顔をしている。
――なるほど、ね。ホムラが化け物呼ばわりする理由が分かったわ。
普段は人見知りがちで少しおどおどしているくせに、ここ一番の大勝負では大胆不敵な行動で自慢の強運を追い風に勝利をもぎ取る。
これを『無敵の女神』と呼ばずして何と呼べばいいのか。
その後はあたしとナナミちゃんのツモ切りという激しい鍔迫り合いが幾度となく繰り広げられる。
あたしは始終心臓がはちきれんばかりにあばらの下を叩いているというのに、彼女の心臓は傍から見ればまるで平静そのものだ。彼女の胆力には感服するものがある。
そして、勝負の終了の時が来た。
「ツモ。ピンヅモ、ドラ1の一本場は800・1400よ」
和了形 ヒメリ ドラ表示:一筒、東風
二萬 三萬 四萬 九萬 九萬 四筒 五筒 六筒 七筒 八筒 三索 四索 赤五索
ツモ:三筒
メンゼンツモ 一翻
ピンフ 一翻
ドラ 一翻
20符 三翻 700・1300
供託:2本
積み棒:1本
ナギホ 39100- 800=38300点
キヨミ 31100-1400=29700点
ヒメリ 21300+5000=26300点
ナナミ 6500- 800= 5700点
――下りてない!? 真っ先に下りたと思っていたヒメリちゃんが、上がった!?
蚊帳の外と思っていたヒメリちゃんがあたしとナナミちゃんのリーチをかわしてホーラした。
麻雀ではリーチ者二人をかわして他の人が上がることなんて珍しくないことだ。
しかし、この場でヒメリちゃんが上がることは完全に想定外だった。
てっきり――。
自分の不穏な思考に、はっと我に返る。
――ダメダメ! 自分の勝利を自分が信じてあげなくてどうするの!
あたしは深呼吸を一つ入れて、牌を卓の中央の穴へと落とす。
この感覚、覚えている。場に自分の思考が支配され、冷静な判断を奪い去り、自分のミスを誘発し、勝利の階段から突き落とされる間隔。
勝負強い者が持つ、勝利に対する感覚の優れた者が持つ、そして勝利に対して貪欲な者が持つプレッシャーのような、存在感のような、圧倒的な力。
その力の持ち主が、次の親を迎える。
――冷静になれ。
あたしは目の前の彼女を見つめ、もう一度自分の心の中で唱えた。




