第101話 むてきのほんしつ
眠気を感じさせないネオンが踊る真夜中の繁華街を、わたしはホムラさんの背中を追いかけて歩く。
メシを食べに行く、と言われてついて歩いてもう十数分になる。
飲食店なんて至る所にあるけれど、ホムラさんは見向きもしないで歩き続ける。
「ホムラさん、どこ行くんですか?」
「――馴染みの店だ」
「まだ歩きますか?」
「――もうすぐそこだ」
人込みの中を風のように歩くホムラさんについて行き、急に曲がったと思ったら、かなり高級そうなホテルに入っていった。
こんなホテル、入るどころか、見たこともなかった。わたしにとっては異世界同然の豪奢な空間だった。
自動ドアをくぐり、広いロビーを我が物顔で歩いているホムラさんとは対照的に、わたしの体は勝負の時とはまた違う緊張感に縛られていた。
「ホムラ様、お待ちしておりました」
「――最上階の店は空いてるか?」
「はい。今の時間であれば、展望個室も空いております。席をお取りしましょうか?」
「――頼む」
「かしこまりました」
コンシェルジュと二、三やり取りして、そのままエレベーターへ向かう。慣れているとか、そういう次元の会話ではない気がする。
エレベーターを待つ間も、エレベーターに乗ってからも、心臓が高鳴るばかりで微塵も落ちつかない。
ホムラさんもわたしに何か話しかけるわけでもなく、沈黙が続く。
最上階につくと、あまりにも高級すぎる雰囲気で何のお店か分からないレストランに連れて行かれた。
「ホムラ様、お待ちしておりました。ご案内いたします」
店内に入ると、待機していた上品なウェイトレスが恭しく一礼して、奥の個室へ案内する。こんな人も、映画とかでしか見たことがない。
案内された個室は、壁一面がガラス張りで夜景が一望できるおしゃれでロマンチックな空間だった。
けれど、今のわたしには感動する余裕なんてなかった。
ウェイトレスが引いてくれた椅子に腰かける。純白のテーブルクロスの上に並べられたカトラリーの数々も、素人のわたしが一目見るだけでも分かるくらい高級なものだった。
ワイングラスに水を注いでくれたけれど、ファミレスのお冷やみたいに気軽に飲むことなんてできない。喉が渇く一方だ。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
「――いつものを頼む」
「かしこまりました。お連れ様はお決まりでしょうか?」
「えっ、その……」
お決まりも何も、メニューがないし、どう注文していいか分からない。
わたしが戸惑っていると、ウェイトレスが抱えていたメニューを開いて、見せながら一品ずつ丁寧に説明してくれた。どこどこ産の何牛とか、どの部位はこういう特徴があるとか、焼き加減がどうとか、プロのお肉屋さんじゃないかと思うくらいの豊富な知識を駆使して勧めてくれるけれど、とても選べはしない。
だいたい、今日の卓のチップ3、4枚ほどするステーキなんて食べようと思ったことさえない。
「――彼女にも俺と同じ物を頼む。彼女の分のカットインは結構だ」
「かしこまりました」
選びあぐねていたわたしに代わってホムラさんがオーダーする。逆にわたしは何だかほっとしてしまった。
ウェイトレスが部屋を出て行くと、少しだけ肩の力が抜けた。
「――こういう店は初めてか?」
低く重い、けれどどこか親しげなホムラさんの声が聞こえた。
きっと、ホムラさんなりにわたしの緊張を解こうとしてくれているのだろう。
「はい。一生縁がないと思っていました」
「――俺も、一生ないと思ってたがな。縁なんざ、どこでつながるか分かったもんじゃねぇ」
「そうですね。まるで麻雀みたいです」
「――麻雀打ちはみんな似たようなことを言う。お前も立派な雀士だな」
前菜が来た。慣れないナイフとフォークを使った食事に悪戦苦闘する。――いや、そもそも前菜はナイフ使うんだっけ? とかいうレベルのわたしは前菜一品で、もうすでに参っている。
ホムラさんに倣って食べようと思い、ちらっと見るけれど、ホムラさん側には右手にしかカトラリーが並んでいない。料理も一口大に切りそろえられていて、左腕が不自由なホムラさんへの配慮が行き届いていたので、参考にならなかった。
しかも、ウェイトレスが少し離れたところで立って待っている。これほど緊張する食事はない。
やっとの思いで食べ終わると、ウェイトレスが食器を下げて部屋を出た。
「わたし、もう麻雀は打ちたくありません」
二人きりになったところで、わたしは思い詰めていた感情をこぼした。
ホムラさんは、その理由を無理に聞こうとしない。わたしのペースで話すのを待ってくれているようだった。
ようやくわたしはグラスの水に口をつけることができた。
「麻雀が嫌いなわけじゃありません。むしろ、サナちゃんに誘われて、『NANA☆HOSHI』で麻雀できたことはとてもよかったです。でも――」
わたしの次の言葉を紡ぐ前に、スープとパンが来た。
スープなら知識の乏しいわたしでも安心して食べられる。とにかく、音を立てなければいいのだろう。
料理が来ると、自然と会話が止まってしまう。ホムラさんも食事中は何か話しかけてくるわけでもないので、余計に話しづらくなってしまう。
再び空になった食器をウェイトレスが下げた頃を見計らって、言葉を続けた。
「何だか、悪いことにどんどん巻き込まれています。今日だって、大金賭けて、イカサマ使って騙すようなことして」
「――気にしすぎだ。そんなこと気にしてんのはお前だけだ」
わたしの心配をよそに、ホムラさんは一蹴する。
「でも――」
「――お前、なぜ星愛女学院公式ルールではイカサマを概ね認めてるか、知ってるか?」
どうしてそういう話になるのか、まるで見当もつかなかった。
「……分かりません」
「――イカサマは、悪じゃねぇからだ」
「意味が分かりません」
「――善悪の基準なんざ、あってねぇようなもんだ。星愛とインターハイ、そしてあの卓じゃ価値観が違う。それだけだ」
「でも、法律違反は――」
「――法律なんざ、麻雀のルールと大差ねぇ。価値観が違えば、意味合いも解釈も遵守する理由も違う。まあ、これはあくまで俺の価値観だがな」
わたしが口を噤むと、先ほどのウェイトレスとは異なる正装の女性が入室した。
「ホムラ様、本日はお越しいただき、ありがとうございます。また、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。先日ご所望していました八十二年物のシャトー・シエレトワレが入りましたけれど、いかがなさいますか? 本日のステーキとも相性は抜群ですよ」
「――すまない。連れが飲めないから、また今度にする」
「承知しました。それでは、ストレートのヴィエルジュがおすすめです。甘味は控えめで香りも程よく、テーブルワインにも負けませんよ。ワインに慣れ親しんでいないお連れ様の口にもきっと合うでしょう」
「――じゃあ、それを頼む」
「承知しました。では、失礼します」
笑顔が素敵なその女性は一礼すると、そのまま部屋を後にした。ホムラさんの知り合いか尋ねると、顔なじみになったソムリエだと教えてくれた。
少しして、ソムリエの女性が戻ってくると、新しいグラスに高級そうなボトルから深い赤紫色の液体を注いだ。
断ろうと思った矢先、グレープジュースだと伝えられた。一口つけると、深く複雑な味わいがした。
そして、ついにメインディッシュのステーキが来た。分厚くて柔らかいステーキは記憶に残る絶品だったけれど、あまり満足はできなかった。
わたしはステーキが半分ほどになったところで、ナイフとフォークを止めた。
ホムラさんが待機しているウェイトレスに席を外すよう頼むと、呼び出し用の小さなハンドベルをテーブルに置いて一礼し、部屋を出た。
「――シオリに負けたのが相当応えてるみてぇだな」
わたしはドキリとしてホムラさんの顔を見た。
「――全部シオリに聞いた。というよりは一方的に聞かされたがな。ご丁寧に、『七夕決戦』の時の牌符も寄こしてきやがったよ。ずいぶんいい勝負してるじゃねぇか」
「……でも、わたしは負けました」
「――無理もねぇな。あいつ、去年のインターハイのMVPだからな」
「えっ?!」
「――お前、知らねぇのか?」
「はい、初めて知りました」
「――ナギホも相変わらず、出し惜しみが好きだな」ホムラさんがグラスに口をつける。「シオリは去年のインターハイ、個人戦では決勝戦で俺とナスカを差し置いて優勝、団体戦ではシオリが副将戦で史上初の決勝戦でのハコテン終了で星愛が優勝だ。お前みてぇな素人が勝てる相手じゃねぇよ」
ホムラさんが告げたのは、意外な事実の数々だった。
『NANA☆HOSHI』がインターハイの個人戦、団体戦で優秀な成績を収めていたことは知っていた。ナギホさんはシオリさんが強いことも教えてくれてはいた。
けれど、ホムラさんの語るシオリさんの戦績は、あまりにも別格だった。
最初から、勝てるわけなんてなかったのだ。
わたしに、『NANA☆HOSHI』を守ることなんてできなかったのだ。
「負けて当然、ですよね。わたしみたいな弱い人は、『NANA☆HOSHI』を守れなくて当然ですよね」
言葉にすると、涙が出てきた。
その時、わたしが心に抱えていた曖昧模糊としていた感情が形を成していくのが分かった。
――無力感だ。
わたしは、法律違反が嫌なんじゃない。
わたしは、負けたわたしに優しくするみんなの態度が嫌なんじゃない。
結論はただ一つ。
――わたしは、弱いわたし自身が嫌なのだ。
『無敵の女神』ともてはやされるほど実力があるはずなのに、『NANA☆HOSHI』のみんなを守れない。
そればかりか、『七夕決戦』で負けたわたしを、みんなは守ってくれたのだ。
サナちゃんも、ナギホさんも、自分も悲しいはずなのに、わたしを気遣ってくれるほど強いのに、わたしはみんなを気遣うことができなかった。
麻雀だけじゃない。精神的な弱さも含めて、弱い自分が嫌なのだ。
自分の感情が知覚できればできるほど、涙となってあふれ出てくる。
「――お前は知らねぇみたいだから教えてやるよ」
ホムラさんの言葉に、顔を押さえていた両手を外し、彼女の方を見る。
そして、すべてを看破して受け入れてきた左の黒い瞳と、闘志と覚悟に満ちた紅い右目が、わたしの視界に焼きついた。
「勝った者が強いんじゃねぇ。敗北を超えた者が強いんだ」
わたしは小さく息を呑んだ。
「――シオリはインターハイのMVPになるほど強い。だが、その強さは、何百何千という敗北を経験し、幾度となく大きな挫折を味わってもなお、それでも勝ちたいと戦い続けて培われたものだ。MVPなんて肩書きは、それを証明したにすぎねぇ」
「……でも、わたしはそこまで強くないです」
「――一度や二度負けたぐらいでめそめそする潔癖なお前には、自分自身を正しく測るなんざ無理な芸当だ」
わたしは何も言い返せなかった。
「――お前が麻雀をやめるかどうかは、お前が好きにすればいい。だが、忘れるな。敗北した今のお前には、強くなる権利と資格がある」
脳髄が痺れる思いがした。
わたしは、ホムラさんの本当の強さを知った。
右目の刀痕と義眼、自由に動かない左腕。この人だって想像に絶する敗北と挫折にさらされてきたはずだ。
それなのに、シオリさんと共にインターハイの決勝まで上り詰め、身寄りのないルミコさんを手伝い、今もこうしてわたしを叱咤してくれている。
――敗北を超えた者が強い。
それは、ホムラさんが自身で経験し、シオリさんを傍で見てきたからこそ、血の通った強い信念になったのだろう。
「……わたしは、強くなりたいです」
気がつけば、わたしはそうつぶやいていた。
それはきっと、自分の心の叫びだったのかもしれない。
「――じゃあ、俺が麻雀を教えてやる」
「……ありがとう、ございます」
広い窓の向こうには、満天の星空のような夜景が広がっていた。
わたしはステーキを一口食べる。冷めて少し固くなっていたけれど、とてもおいしく感じた。
「――すっかり冷めただろ。シェフを呼んでもう一枚焼かせるか?」
「いや、それはいいです」
さすがに今のわたしは、そんなことができるほど強くはなかった。
本日は投稿時間が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
次回で第6半荘は簡潔です。
最後までお付き合いいただけると幸いです。