イキルメーター
世の中なんて糞食らえだ、とは口が裂けても言えなかった。加湿器が吐き出す白い蒸気に窒息しそうだ。夢現の間を彷徨い、金縛りに遭った体の、眼球だけがギョロギョロと動く。
数多の小人が俺の腕をよじ登り、半開きになった唇からあわよくば潜り込んでやろうと匍匐前進する。俺に気づかれていないつもりだろうがそんなことはない。小人の襤褸きれ同然の服も、こびりついた垢の臭いも、嘘で塗り固められた善意にまみれた目も、全部俺にはお見通しだ。何故なら、眼球だけは動くのだから。
けれども身体が動かない。脳からの指令がシャットダウンされ、ぴくりとも動かない。
その間に小人のにやけ面はどんどんと俺に迫ってくる。「君のために何かできることはあるかい?」と、心にもない言葉を吐き散らかす。
やめてくれ、来ないでくれ。
もちろん声は出ない。血走った目で必死に訴えかけるも、届かない。
ゴミ臭い手が伸びてくる。
「君のために何かできることはあるかい?」
助ける気などないくせに、助けようと嘘を吐く。
「……やめろっ!」
自分自身の叫び声で目が覚めた。わんわんと殺風景な部屋に声が反響する。
「夢、か……」
体を起こし、夢で見た小人の名残を振り払うように、パタパタと胸の辺りを手で払う。白いシーツの下は何も身につけていない──左腕の時計型の端末を除いては。衣類を着て眠るのがひどく窮屈で、裸で寝るのが長年の習慣だった。
『おはようございます、マスター。今日の天気は……』
凜とした女性の声──この小さな端末の中のAIの声だ。
人工知能・アイ。世間ではこう呼ばれている。
七年前に制定された監視モニター法。国内で日本国籍を持つ全ての人間にこの端末が配布されており、東京の霞ヶ関にあるアイのメインコンピュータで国民一人一人が管理されている。
金銭、健康、心理、その他の生活情報。あらゆる生命状態がモニタリングされ、アイが異常だと判断した場合、すぐに該当人物の元へ、政府の管理員が派遣されるのだ。
当初は独居老人の増加等、隣人関係の希薄になった現代社会で、より安心の暮らしを、という主旨で定められたものだった。
しかし、もう一つ理由があった。日本の治安は年々悪化しつつあった。それに歯止めをかけるために、政府はある新制度を掲げたのだ。
『現在のイキルポイントは一万三千二百三ポイント。昨日のイキルポイントは十四ポイントでした』
「あー……いいよ、ポイントの話は聞きたくない。それより、冷蔵庫に何入ってたっけ。残り物でできる朝飯のレシピ、出してくれよ」
アイのもう一つの機能、それはイキルポイントのメーターとしての役割だ。
殺伐とした社会に「助け合い」の心を取り戻そう──そう政府が提案したのはいつのことだったか。けれども、啓蒙するだけではもちろん助け合いなど実践されるはずもなく、一向に治安も暮らしぶりも良くならなかった。そこで、政府が導入したのが、このイキルポイントだ。
イキルポイントの定義。それは、「どれだけ人を助けたか」ということ。他人への貢献度が大きければ大きいほど、配布されるポイントは高くなる。そして、その貢献度を決めるのもアイだった。
俺はベッドから這い出し、三枚千円のポクサーパンツに足を通した。それから、床に放ったままのスウェットズボンを履く。汗臭く、生臭いそれは、もう一週間程洗っていない。
『チーズオムレツ、オニオンベーコンスープ、バターロール、などは如何でしょうか』
「それでいいや。適当なレシピ読み上げてくれよ。とっとと作ってしまおうぜ」
アイの指示通り、キッチンに立ち包丁を握った。男の料理なんて雑なもので、適当に切った玉ねぎとベーコンを鍋にぶち込み、ザバザバと水を注ぐ。
『マスター、レシピと異なります』
「時短だよ、時短」
一人暮らしの殺風景なワンルームに、芳ばしい香りが漂い始める。しかし、料理の香りをもってしても、部屋にこびりついてしまったそこはかとない男臭さは消えず、あまり気分のいいものとは言えなかった。
予想以上に見目の悪い朝食を胃に押し込み、俺は皺だらけのスーツに袖を通した。雑にネクタイを締め、緩んだ腹を無理やりベルトで捻りあげる。
『今日も素敵な一日を生きられますように』
出がけのアイの一言、毎日繰り返される祈り。
アイの名前の由来はAIをローマ字読みしたものか、監視の目という意味のEYEから来たのだとばかり思っていた。けれども、本当の名前の由来は恐ろしく胡散臭いものだ。
アイは、愛、なのだそうだ。
人を支え、助け、無償の愛のために生まれたアイ。
そう思うと機械音声の一言一言が薄気味悪く聞こえた。歪んだ愛を押しつけられ、愛することが生きることなのだと日夜唱えるアイを、好きになれるという方がどうかしている。
「……行ってくるよ」
無機質な独房に木霊する、独り身の男の肉声。
今日も仕事だ。
*****
「左様でございますか。それではまた機会がございましたら、よろしくお願いいたします」
プツリと耳元で電話が切れる。ツーツー。胸の隙間に吹く風の音は、なんとも機械的だ。俺は受話器を戻し、顧客名簿に一本、横線を引いた。
手応えはあったのだ。契約は取れたと思っていた。相手は三十代の女性で、近々結婚の予定があると言った。将来のために、保険について色々と話を聞きたいということで、来店。駆け出しの保険窓口相談員の俺が担当につくことになり、懇切丁寧に説明したというのに、結果は惨敗──客の返事はノーだ。誰よりも素っ気なく、誰よりも無慈悲に。
手元のアイの数値は一ポイントも上昇していない。客に逃げられたばかりでなく、イキルポイントさえも入らなかったのだ。つまり、あの客は俺に感謝の欠片も感じていなかったということだ。
イキルポイントは他人への貢献度が指標。そしてそれは、対象者が俺に感謝の念を抱くことで、俺のアイにポイントとして還元される。誠意をもって働いていても、ポイントもつかないなんて、世知辛い世の中になったものだ。今月もまた、ぎりぎりの生活になりそうだ。よれたワイシャツの第一ボタンを外し、俺はため息をついた。
このポイント制度が導入され、給料は激減した。一応、最低賃金のラインは守られているものの、決していい労働環境とも言えない。毎月のノルマがこなせなければ、そのマイナス分はボーナスに反映された。それをも下回る場合は、僅かな給料から天引きされた。
ノルマを達成するために、月末前は友人たちに電話をし、契約してもらえるよう頭を下げた。最初は皆、気のいい顔で了承してくれたが、次第に俺を煙たく思ったのか、誰も俺からの電話に出てくれなくなった。メールを送っても返事がない。俺は友人達からも見放され、切り離されてしまっていた。
給料が減らされた理由は単純だ。要は、人から感謝されれば、それが純粋にポイントとして還元されるのだから、誠意ある対応で補え、ということなのだ。話は分からなくもないが、それはそんなに簡単なことではない。人は感謝されたいと思う一方で、感謝しようとはあまり思わないものなのだ。
昼時になり、俺と同じようにあまり風采の上がらない同僚達は昼飯を食いに出て行った。けれども、出て行ったからと言って、オフィス街の洒落たカフェでランチなんてとっているわけではない。奴らは大抵コンビニで一個百円のあんぱんと、紙パックのコーヒー牛乳を買い、近所の公園のベンチで、しけたツラで飯を食っている、ということを俺は知っていた。とは言え、俺も大して違いがあるわけでもない。鞄からスーパーのビニール袋を取り出し、トマトサラダのパックと丼型の器を取り出した。前日、スーパーの閉店前に購入しておき、それを昼飯に持参するのだ。よく行くスーパーは閉店十五分前になると、半額の弁当類がさらに半額になるのだ。それを狙う客も少なくない中、戦利品である値下げ弁当の蓋を開けた。消費期限なんてものは知らない。本当は昨日の内に食べてしまわねばならないのだろうが、今まで腹を下したことなんてない。あたったらその時はその時だ。何せ、手持ちの金ではワンコインランチでさえ贅沢品なのだ。
田舎は遠く、その日暮らしで精一杯の貧乏サラリーマンに恋人などいるわけもなく。俺は毎日、味気ない、殺伐とした生活を送っている。気ままなことは気ままだ。金はないが、時間はある。切り詰めれば、食い扶持くらいは何とか稼げた。自分の身を縛るものは何もないから、好きに生きることができた。休みの日に昼まで寝ていても、一日中スマホゲームにかじりついていようとも、うるさく言う人間はいない。
けれども、たまに──本当にたまに、虚しくなるときもある。うだつの上がらない暮らし、パッとしない俺自身。話し相手はアイだけで、それも毎日決まった定型句だ。街を歩けば、ブランドもののスーツ、高級車、豪華なディナー。髪型を決め、誰もが羨むほどの女をはべらせた男。同じ人間でもこうも違うのかと。目も合わせられない。奴らから見れば、俺は珍獣に見えるかもしれない。そういう時は、そそくさと背を丸め、路地裏へと逃げ込むのだ。
奴らは医者か弁護士と相場が決まっている。給料がいい上に、何より「人に感謝される」職業に就いているのだから。ただ仕事をこなすだけで、イキルメーターはぐんぐんと回る。高いポイントが加算され、ただでさえ豊かな懐がさらに豊かになっていく。あとは公務員か。国民のため、市民のためという名目で安定した暮らしが約束されているのだ。
一方の俺はというと、しがない、さして感謝もされない保険相談員だ。感謝されるのは顧客が病気になった時か、あるいは死んだ時だ。高額の保険金が顧客の手元に舞い込んだ時だけ、俺のイキルメーターは回る。そう思うと、顧客の不幸を願わざるを得ないのだ。それが荒んだ接客に繋がり、感謝されないという悪循環に陥っているのかもしれない。それが分かっていても、俺は他人の不幸を願うのを止めることはできない。保険などという目に見えない商品を扱っている以上、顧客には実感というものが発生しない。人間、手に触れられるものでなければ存在を自覚するのは難しい生き物らしい。
ドレッシングのかかっていないサラダを箸でつついた。ドレッシングは別売りだ。三十円だって惜しい。野菜本来の味を楽しんでいるのだと僻みのような感想を抱きながら、くたびれたレタスを食んだ。
「なぁ、アイ。俺って感謝されてねぇの? お前が判断する感謝の指標って何?」
『人間が感謝、つまり相手に対する満足感・幸福感を感じる際に分泌される伝達物質の血中濃度を測定し……』
「違うよ、そういうこと聞いてんじゃない。奉仕の心って、結局何だよ」
機械相手にどうにもならない問答を続ける。なんて不毛なことを、と自分でも呆れかえったが、まるで愚痴を吐くように。
「俺だって……」
尽くしているつもりだった。少なくとも商談中は顧客のことで頭がいっぱいだし、中途半端なことはしていない、と思う。だが、評価は無いに等しい。いや、皆無だ。これでは不毛だというものだ。その上、給料だって大したことないのだから、割に合わない。
『奉仕するという心は人間という種族だけではなく、地球上の生命体すべてに備わっている本能と考えられています』
何処かの傍迷惑な科学者が言い始めた奉仕の定義。アイはそれを単調に復唱した。
『群れの中で助け合い、守り合う。それは群れで活動する生命体すべてに当てはまる本質だと考えられます』
そんなこと聞いてねぇよ。そう口をついて出そうになった時、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、佐倉。悪いが飛び込みの客だ」
「ええ? 俺っすか?」
「他のが出払ってるんだよ。二十代後半から三十前半くらいの女だ。いいな、頼むぞ」
予約制の保険相談窓口だが、飛び込みで相談に来る客というのも少なくない。だが、正直、そういう客を俺は相手にしたくなかった。相談に来たその時は乗り気なのだが、一旦持ち帰ると熱が冷めてしまう客が多いのだ。つまり、契約までこぎつけられる可能性が低い客なのだ。
俺は苦々しく舌打ちし、食べかけの丼の蓋を閉めた。適当にあしらって、引き取ってもらおう。手近にあった人気商品のパンフレットを乱雑に掴み取る。若い女なら医療保険目的だろう。女性向けのオプションが豊富な商品をちらつかせれば、食いついて来るに違いない。
窓口に座っていたのは一人の女だった。栗色の頭頂部が間仕切りの上から覗いている。
「大変お待たせ致し……」
俺の声を聞き、面をあげた女の顔を見て、言葉を失った。
『心拍数上昇中。体調に異常がある場合は休まれることをお勧めします』
「うるせぇっ、アイ!」
ボケているのか本気なのか。俺はバッと女から顔を背け、アイの言葉をこっそりと、しかしきつく制する。そんな俺を見て、女は少し腰を浮かし、申し訳なさそうに口を開いた。
「あ、あの……ご迷惑、でしたか? こういう相談窓口は予約制だって、知らなかったものですから……」
「ご、ごほんっ! いえ、とんでもございません。どうぞおかけください。あ、失礼しました。わたくし、相談員の佐倉と申します」
俺は恭しく名刺を差し出した。名刺を受け取った彼女の手は白い。そして、小さく形の整った爪は可愛らしいピンク色のマニキュアが施されてあった。
「よかった。よろしくお願いします」
ホッと胸をなで下ろす彼女の袖口からは細い革ベルトのアイ。ハンドメイドだろうか、ニットモチーフのピアスとお揃いのバレッタ。ベージュのセーターは毛玉一つなく、彼女の柔らかそうな体を包んでいた。
端的に言えば、一目惚れだった。
モノクロの俺の日常に舞い込んだ、薄黄色の野菊のような女性。顔立ちが好みであることは言うまでもなかったが、何より瞳に住まう可憐さと芯の強さに惹かれた。
しかし、どことなく彼女は顔色が悪かった。相談員として、少なくない人間と接してきた直感だが、思い詰めているような──そんな気がした。
「お手数ですが、まずこちらのアンケート用紙にご記入いただけますか。お客様の年齢、職業に応じた最適なプランをご提案させていただきます」
こくりと彼女は頷き、手渡された用紙にさらさらと丸っこい文字を記入始めた。用紙に向かい、俯きがちになった彼女に胸が高鳴った。長い睫毛、温かそうな唇。
「吉野様、ご職業は……看護師さんですか。ええと、記入途中に申し訳ありません。今回ご希望されるのは医療保険でしょうか?」
彼女──吉野さんは弱々しく笑い、上目遣いに俺を見た。
一瞬の沈黙。店内に流れるオルゴール曲は、誰もがよく知るJポップ曲のアレンジだ。確か、今流れているのは俺が学生時代に流行った曲だ。今でも空で歌詞を思い出せる。君を見ているとか、そういう歌詞だったはずだ。あの頃は安っぽい歌詞だ、こんな曲が売れるだなんてわけが分からないなんてほざいていたっけ。
「あの、生命保険のお話を聞きたいんです」
ペンを持つ彼女の手は震えていた。
*****
俺のデスクには生命保険のパンフレットの山が出来上がっていた。
先週の相談で、彼女は持病もなく、健康体だと言っていた。そして、保険金の受取人は両親にしたい、と。不自然な彼女の発言に、俺の頭にはある一つの可能性が浮かんでいた。
兎にも角にも、二度目の相談日が近づいてきている。今度はきちんと予約を入れ、さらには俺を指名してくれていた。そして──。
『先週のイキルポイント履歴。十一月二十二日、吉野明美様より百八ポイント』
俺はにやにやと抜けた顔で腕のアイを撫でた。一ポイント一円と思えば、大したポイントが加算されたわけではない。自動販売機でコーヒーさえも買えない。けれども、俺は確かに感謝されていたのだ。あの、儚い女性に。ほんの少し、言葉を交わしただけだというのに。
彼女は看護師だ。おそらく、日常的に感謝されているのだろう。貯金もなく、冴えない俺に比べれば、きっと稼ぎもあり、余裕のある生活をしているに違いない。その証拠に彼女の身なりは上等のもので揃えられていたのを覚えている。
俺は、全く彼女に釣り合っていない。収入も、容姿も、社会的地位も。平社員の俺とは対照的に、彼女はもうすぐ病棟の副師長に抜擢される予定だそうだ。そうなればもっと俺と差が開いてしまう。
一度しか会ったことがないのに、こんなことを考えるなんて奇妙に思われるだろう。だが俺は、どうすれば彼女と肩を並べて歩けるか、どうすれば彼女に相応しい男になれるか、そんなことで頭がいっぱいだった。まだ、何も始まってすらいないというのに馬鹿馬鹿しい話だ。
あの日から、仕事に打ち込む姿勢が変わった。不満を封じ、理不尽に耐え、必死で働いた。それはすべていつか彼女に気づいてもらいたいがためだ。芽生えた小さな恋心を守りたかった。一目惚れだなんて、なんて古臭いのだろうとも思う。理性でがんじがらめの中、なんて野生的なのだとも。けれども、彼女が去り際に置いていった残り香を忘れることができないのだ。秋風に吹かれ、物寂しげに背中を丸めて帰途に着いた、あの彼女の後姿も。
彼女と会うと言っても、この仕事場で、事務的な話をするだけだ。俺は彼女が書いたアンケート用紙を大事に机から取り出した。大手保険会社のキャラクターがプリントされたクリアファイルに、彼女の手から生み出された文字たちが透けてみえる。住所は、この近く。両親と同居していて、まだ独身らしい。ほんの僅かでも俺にチャンスがあるのではと期待に胸を膨らませた。こんな小さな出会いに胸躍るほど、俺の生活には張り合いも潤いもなかったのだ。
予約の刻限ちょうどに、自動ドアが開いた。クリーム色のフロアマットに彼女の細い足が乗った。
「あの、予約していた吉野です」
「よ、吉野様ですね! お待ちしておりました!」
俺は転がり出さんばかりの勢いで彼女を迎えた。そんな俺の様子を見て、彼女はフッと頬を緩めた。
「ええと、先日のお話では生命保険をお考えとのことで……」
彼女と向かい合い、机上にパンフレットを広げる。声が緊張で震えた。悟られないよう、ビジネスライクの応対で懸命に隠す。
「つかぬことをお聞きしますが、なぜ生命保険を?」
「……いけませんか?」
彼女の表情が強張った。
「あ、いえ、そういうわけでは……」
まずい。盛大にまずい。
こういう相談業務は相手がいかに心を開いてくれるかが鍵なのだ。これでは心を開くどころか、ぴっちりと閉ざし、彼女の本音を聞き出すことなどできない。そして、それに気づけたのは、彼女に会って、真剣に仕事について考えるようになってからのことだった。気づかせてくれたのは──彼女だった。
「私……いえ、俺は保険屋勤めなのに、自分のいなくなった後のことについて、何も考えたことなかったんですよ。だからですかね、吉野様を尊敬していて。将来のことをちゃんと考えているなんて、俺とほとんど歳も変わらないのに。すごいなぁって」
彼女は目を丸くした。今のは半分、俺の本心だ。もう半分は疑っていた。先日の彼女の思い詰めた様子から──自殺でもするつもりなのではと。
カサカサと外で落ち葉が舞う音がする。ドキドキと俺の心臓が脈打つ音と重なる。彼女はなかなか口を開かなかった。相談の席に用意された緑茶がみるみる冷めていく。
彼女は言葉を探しているようだった。俺の問いかけへの答えか、それもと別の何かか。それは前者だったようで、下唇を噛んで俯いていた彼女は面をあげ、潤んだ瞳で俺を見た。ゆらゆらと瞳孔が波打ち、俺の心に波及する。
「頼れる人には相談したんです」
「頼れる人?」
予想だにしていなかったフレーズに頭がこんがらがる。
「もちろん、警察にも。でも、取り合ってくれなくて……そうしているうちにもどんどんエスカレートしてきて……っ!」
「ちょ、ちょっと待って。俺にはさっぱり話が……」
「私、殺されるかもしれないんです」
もう何が何だか分からなかった。
潤んだ彼女の瞳から、大粒の涙が溢れる。俺は慌ててハンカチを差し出した。すんすんと鼻をすすり、彼女は落ち着きを取り戻した。そして、呟くように語り始めた。
「実は、ある男性に付きまとわれているんです、今年に入ってから……ずっと。出会ったきっかけは職場の病院にその人が入院してきたことでした」
話を聞いていると、男は胃潰瘍の疑いで入院してきたらしい。夜間に吐血し、緊急で運ばれてきたとのことだった。
「入院期間はそんなに長くありませんでした。元々健康な人で、仕事の無理がたたった、ストレス性のものだったので。適切な治療がなされて、退院後は投薬で通院する、と。彼が運び込まれてきたあの日、私は夜間の救急当番の日でした」
彼女は顔を赤らめ、ゆがんだ顔で続けた。
「本当はいけないことなんですが、私は彼を手厚く看護しました。患者さんに差をつけるなんて酷い看護師ですよね。明らかに彼に対する態度は、他の患者さんに対するものと違ったと思います」
「それは……どうして? あの、彼に好意が……?」
「いえ、違うんです。確かに好感は持っていましたが、恋愛感情ではなくて。あの……イキルポイントが……」
「ポイント?」
「ええ、彼が入院した後、私のアイへ、イキルポイントが加算されていたんです。それも、百万ポイントも」
俺は目を丸くした。百万ポイントといえば、百万円相当の価値がある。俺の月給、約四ヶ月分だ。彼女が態度を変えてしまったのも、何となく納得できた。
「わかってます。見返りで人を区別しちゃいけないって。でも、ポイントで感謝が視覚化されれば、悪い気はしませんでした。私の看護に対して、そんなにも感謝の想いを抱いてくれていたのだと思うと、彼への対応に自然と熱がこもってしまったんです。そして、それが……誤解を招いてしまいました。彼は、私が異性としての好意を抱いているものだと勘違いし、私に付きまとうようになりました」
彼女は生命保険のパンフレットを引き寄せ、表紙に視線を落とした。パンフレットに描かれたマスコットキャラクターだけが、その場の空気を読まずにニタニタ笑っていた。
「最初は丁寧に断っていました。でも、あきらめきれなかった彼はしつこく職場に現れるようになり、何処からか私の連絡先を入手して……。『殺してやる』だとか『俺と一緒に死のう』だとか、物騒な内容の手紙が、溢れんばかりにポストに詰め込まれてたり。いつも視線を感じるんです」
俺だって頭は良くないが、馬鹿なわけじゃない。彼女がこの店にやってきて、思いつめた顔で生命保険の相談にやってきたのか、その理由に気づいてしまった。
「いつか私は殺されるんじゃないかって、そんな気がしてならないんです。そんなに高額な保険でなくていいんです。せめて、自分の葬式代金くらいは、って……」
「吉野様……」
「それに、何かあるって決まったわけじゃないですもんね。保険なら、後々有効に活用できますし」
「吉野様!」
たまらず俺は叫んでいた。こんなの間違っている。
死後のことを考えることは大切だ。けれども、こんな風に生きることに諦めたようなやり方は好きじゃない。
「ご相談には乗ります。保険のお話も真剣に聞きます。でも、諦めないで下さい。俺にはあなたが生きることを諦めているようにしか見えません」
俺の言い方も、相当の押しつけがましいものかもしれない。ストーカーとのやり取りに疲れ切った彼女に、まるで「頑張れ」とでも言っているかのようで。俺だって、生きることを放棄したくなることは何度もあった。生きることに疲れ、希望も変化もない明日に絶望し、俺がいたって世の中何も変わらないと自暴自棄になって。
それでも、今こうやって何とか立っていられるのは、彼女のささやかな感謝のおかげだった。彼女に抱いた好意を支えに、今日も生きている。
「保険の話と並行して、もう一度警察へ行きましょう。あなたがどうしても、と仰るなら保険のプランを練ります。でも、考え直してみて下さい。死ぬためではなく、生きるために保険を使って欲しいんです」
我ながらキザな言葉だと思う。以前は顧客の不幸を願っていたのに、今は正反対だ。彼女の幸福を願い、祈っている。
生きるために――口にしてみればなんとも薄っぺらい。チープで、つまらなくて、単調で。でも、その薄っぺらさの中に、あらゆる本質がぎゅっと詰まっていると信じている。
「俺がついています。きっと、何とかしてみせます!」
「佐倉さん……」
「お茶が冷めてしまいましたね。新しいお茶を用意しましょうか。待っていてくださいね」
俺はにっこりと微笑み、煎れ直した緑茶を彼女に勧めた。
『十一月二十九日 吉野明美様より三百イキルポイント』
*****
俺は彼女に最適なプランを考えると同時に、ストーカー対策についても調べ始めた。
ホームページを漁り、有効策を考える。書籍は高くて買うことができないから、無料のブログやサイトが主な情報源だ。どうすれば警察は対応してくれるのか、一方、対応してくれないのはどういった事例か、といったことを事細かに調べた。そして、同時に俺の彼女のささやかな同盟関係がスタートした。
前回の相談の時に、彼女のメールアドレスを手に入れていた。何かあったらすぐに連絡を下さい、と電話番号も交換した。スマートフォンに映し出された彼女の連絡先に顔が緩みっぱなしだ。けれども、俺からはまだ一度も連絡をしたことはなかった。ただでさえストーカーに怯えている彼女に、不用意に連絡をするべきではないと思ったのだ。メールが来るのはいつも彼女の方からだった。大抵、何か嫌なことがあった時、報告がてら俺に連絡をくれるのだ。その内容に腹わたが煮えくりかえりそうになる時もあった。ストーカーからの攻撃はますますエスカレートしているにも関わらず、警察は動きらしい動き一つみせないというのだ。
俺が彼女を守らねばという使命感が芽生える。俺に感謝してくれているということは、少しくらいは心の拠り所となれているのだろうか。その期待を裏切らないよう、失望されないよう、俺は彼女に全てを捧げたいとすら思っていた。
メールが来た時は、俺は丁寧に返信した。彼女の言葉に耳を傾ける姿勢を崩さず、自分で調べた対策法を提案した。受信音が鳴るたび、胸はときめき、踊り出したい気分になった。彼女の気持ちを考えれば、こんなことで小躍りしている自分を不謹慎にも思ったが、それでも彼女と言葉をやり取りできることに、この上ない喜びを感じていた。そして、メール一通毎に、アイが表示するメーターはくるくると、面白いほどよく回った。
『十二月三日 吉野明美様より五百二十一イキルポイント』
『十二月七日 吉野明美様より千百八十八イキルポイント』
『十二月九日 吉野明美様より三千七百五イキルポイント』
俺は彼女に必要とされている。このイキルポイントが何よりの証明だ。俺の存在は彼女にとって欠かせないものになっているはずだ。
自惚れかもしれないが、心地よいのだ。必要とされることが、生きていてもいいと言われているように聴こえて。
「誘ってみようか」
大胆な自分が目覚める。かつての自分なら、絶対にできなかったことだ。俺はスマートフォンを強く握り、文字を打ち込んだ。
「保険のプランが整いました。今度の週末、お会いしてご提案させていただきたいのですが、ご都合いかがでしょうか。……こんな感じかな」
デートに誘うにはやや無理矢理な感じの否めない誘い文句だが、今はこれが限界だ。俺は勇気を振り絞って、メールを送信し、返事を待った。
次の日の朝、「よろしくお願いします。場所の指定はお任せしますね」と、彼女から返事があった。
『十二月十一日 吉野明美様より五千二百十二イキルポイント』
*****
洒落たカフェのテラス席、俺の目の前で彼女は優雅に紅茶を飲んでいる。アールグレイが好きだと言っていたが、茶葉の種類に関して無知な俺は、そうですか、と曖昧な相槌を返すだけだった。俺、というより誰かと居られることに安心しているのか、口元の緊張の色は薄い。多分、一人でいることを何よりも恐れているのだろう。何せ、ストーカーがどういう手段で接近してくるか、分からない上に、助けを求める相手がいないのだから。
随分呑気だと思われるかもしれない。テラス席など危機感がないと。けれども、逆に思うのだ。なぜ彼女がコソコソと怯え暮らさねばならないのか。目立たぬよう顔を伏せ、人目を避けて過ごさねばならないのか。こうやって堂々としていればいいのだ。
見せつけてやればいい。必要とされているのはお前じゃない、俺の方だ。卑劣な手段ばかりで、彼女の意思を無視し続けてきた報いを受けるがいい。
「私が悪かったんですよね。最初から、他の患者さんと同じようにしていればこんなことにはならなかったのに」
彼女の目の下にはクマができていた。
「そんな考えはよくないですよ。こんなところで何ですが、オススメのプランをまとめてきたんです。看護師さんなら忙しいでしょう? なかなか窓口に足を運んでもらえる時間なんて作れないと思って。お家に帰ってからゆっくり参考にしてください」
青いA4版の封筒を手渡す。
『十二月二十日 吉野明美様より一万三千イキルポイント』
真冬だからか、テラス席をわざわざ選んで座っている人などほとんどいない。俺たちの独占状態だった。心なしか、自分の手元のコーヒーが冷めるのも早い気がする。青い封筒をそっと鞄にしまう彼女の動作はしなやかだった。
冬の匂いがあるとするならば、俺にとっては落ち葉とコーヒーの混じった匂いがそれだ。あとココナッツクッキーの甘く、ざらついた歯ごたえ。渇いた喉に絡みつく粉っぽさ。
冬は終わりの季節なんかじゃない。春以上に可能性を秘めているのではないだろうか。芽吹く予感を漂わせ、内にエネルギーを溜め込んで。彼女の指先の動き一つ一つが、視線を送る先々が俺にとっての生きる意味で、甘やかな鼓動だ。血が通い、脳に熱量が行き渡り、クリアになった思考が耳元で囁く。
「警察にはあれから行ったんですか?」
「えぇ、でも直接危害を加えられたわけではないので、まだ動けないと……。あくまで相談の域を出ないそうで」
「酷い話ですね。今度、俺も一緒について行きましょうか? 効果があるかは分かりませんけど」
「本当に!? いいんですか!?」
『十二月二十日 吉野明美様より二万八百七イキルポイント』
アイのイキルメーターが回る。面白いほどよく回る。感謝が心地いい。彼女のためなら、何だってできる。
そうだ、このポイントで服を買おう。コンビニで立ち読みした雑誌に載っていた、グレイのジャケット。今のくたびれたシャツと、長年新調していないズボンを一式買い換えれば、多少は垢抜けるに違いない。美容室に行って、人気の髪型にカットしてもらおう。そう言えば、ずっと欲しかったスニーカーもあったんだ。黒と赤、どっちにしようか。大人な雰囲気を醸し出すには黒か。でもこなれた感じがあるのは赤だよな。
「佐倉さんがついて来て下さったら、本当に心強いです。もう助けてくれる人なんて誰もいないと思っていたから……」
「仕事の予定が合えば、送迎もできるんですが。車は持ってないですけど、駅まで送る、とか。それくらいなら……」
「職場に通うのも怖くなっていたんです。もしよろしければ……お願いしてもよろしいですか?」
『十二月二十日 吉野明美様より四万五千九百六イキルポイント』
イキルポイントさえあれば、毎回タクシーで迎えに行くことくらいできそうだ。奮発して、夕食に誘ったりしてみてもいいかもしれない。これだけポイントが貯まれば、ノルマを達成できなかった月でも、他人に頼らず自分でなんとか補填できそうだ。ノルマ地獄から解放されるなら、心の余裕だって生まれる。もっとポイントに余裕がでれば、彼女にアクセサリーの一つくらい買ってあげられるかもしれない。彼女に似合うのはプラチナのネックレス。花のバレッタに合わせた、蝶のペンダントトップで、小さなダイヤモンドがついているものがいい。指輪は少し気が早いな。細い足首に似合うゴールドのアンクレットなんてどうだろう。
人に必要とされることが、こんなに嬉しいことだなんて。生きる喜びを教えてくれたのは彼女だ。
「俺があなたを守ります。ストーカーにあなたを渡しはしない」
「嬉しい……。佐倉さん、私、とても嬉しいです」
『十二月二十日 吉野明美様より五万十二イキルポイント』
その時だった。
大通りの方から、耳をつんざくような悲鳴と、それから憤った男のダミ声。黒いスカジャンを着た柄の悪い男が、信号を無視して通りを突っ切って向かってくる。手にはサバイバルナイフが鈍く太陽の光を反射していて、男の唾液まみれの歯と同じように照っていた。黄ばんだヤニだらけの歯は隙だらけで、唇はめくり上がり、血色の悪い歯茎が覗いている。
逆上したストーカーは白昼堂々、彼女を手にかけんと現れたのだ。痺れを切らしたストーカーは彼女にナイフの切っ先を向けた。ブルブルと震える手で黒いグリップを握るが、狙いが定まらないのか、何度も握り返していた。
「俺という男がありながら……どうしてそんな男と……!」
「吉野さん!」
俺は咄嗟に立ち上がり、彼女の体に覆いかぶさった。
『十二月二十日 吉野明美様より十万八千一イキルポイント』
俺の生きる意味を奪わせはしない。彼女は俺が守るのだ。
だって、まだ何も始まっていない。俺の気持ちも伝えていない。
「ふざけやがってえええ!」
ストーカーが地を蹴る。ナイフが迫る。他の客は茫然と立ち尽くし、怯えたままだ。店員が警察を! と叫ぶ声が聞こえたような気がするが、それも本当かどうかは分からない。
ドッと衝撃が体を貫き、遅れて気絶しそうなほどの痛みが襲った。
「佐倉さんっ!」
俺は力を振り絞り、彼女の腕を掴み上げようとするストーカーの足元にしがみついた。ズボンの裾を捲り上げ、あらん限りの力で噛み付いた。
「ってぇ! この野郎!」
ガッとナイフの柄が俺の脳天に直撃した。何度も何度も振り下ろされたが、それでも俺はしがみついて離れなかった。
遠くからサイレンの音が聞こえる。どうやら誰かが警察を呼んでくれていたようだ。ストーカーが逮捕される瞬間を見届けるまで、俺は決して屈したりしない。
『十二月二十日 吉野明美様より三十八万千二百五十イキルポイント』
『十二月二十日 吉野明美様より四十万五千六百十九イキルポイント』
『十二月二十日 吉野明美様より五十六万五千百八十イキルポイント』
イキルメーターがくるくる回る。アイの声が脳に響く。
「佐倉さんっ! 佐倉さんっ!」
目が見えなくなり、耳だけが機能していた。ストーカーの足だけは掴んだままだ。触覚はちゃんとある。痛覚も。
「佐倉さんっ!」
深く呼吸をしなければ酸素が行き渡らない。救急車はまだだろうか。人はそう簡単に死なないものらしい、と危機的状況と反して、呑気な考えが頭の中を支配する。
ビービーとアイがアラートを鳴らす。
『生体反応低下。生体反応低下。救急信号を発信する』
意識を失う前に聞くのがアイの声だなんて、なんとも味気ない。あぁ、痛いなぁ。でも、それすらも麻痺し始める。
「佐倉さんーーーっ!」
少し眠らせてもらおうか。
『十二月二十日 吉野明美様より二百八十八万四千九百五イキルポイント。イキルポイント受取人不在により、本ポイントは市に還元されます。ご理解賜りますよう、よろしくお願いいたします』
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吉野の手元のアイ――イキルメーターがくるくる回る。
『十二月二十日 佐倉良平様より三百二十四万六千百七十三イキルポイント』