第五話
三月末。卒業式を終えて、暫く家で過ごしていた僕はもうじき母校となる中学校に訪れた。
部活動でお世話になった美術部顧問の斎藤先生がこの中学を離任するそうで、その前に一言お礼を言いたかったからだ。
離任式後、職員室の前で暫く待っていると職員室の戸が開いて白髪と黒髪が七対三くらいの割合の老齢の先生が出てくる。斎藤先生だ。
僕は壁に付けた背中を浮かし、斎藤先生、と声をかけて駆け寄ると先生は此方に顔を向けてくしゃりと顔の皺を増やした。
「おお、橘君。久しぶりだね」
そう言いながら、斎藤先生は笑顔のままゆっくりと右手を手を差し出す。握手の交わす時の姿勢だ。僕も迷わず右手で先生の手を取り、少し腰を曲げて左手を添える。パサついているが、ずっすりと重みと温かみがある掌だ。
「お久しぶりです、先生」
先生と合うのは学校を卒業するよりも前、三年の部活動が終わった秋の頃から殆ど顔も合わせていないし、部活を辞めてからは面と向かって会話をする機会は無かった。
「今までご指導ご鞭撻頂きありがとうございました」
「そうかい?橘君に教えれることなんてわたしにはぁ少ししかなくてね、申し訳なかったよ」
「いえ、斎藤先生からは色んな事を学ばせていただきましたよ」
「そうかね。それなら良かったよ」
斎藤先生は機嫌よく手を振るい、それから手を解くと僕にこう尋ねた。
「ちょっと、今から美術室に私物を取りに行くんだが一緒に行かないかね?」
「僕も久々に美術室に行きたいので是非!」
美術室の雰囲気が好きだった僕は、その提案に即座に頷き斎藤先生は「言うと思ったよ」としゃがれた声で笑った。
それから、斎藤先生は美術室の方に向いて歩き始め、僕もその一歩後ろから後を追った。
「高校は豊中に行くのかい?」
ここら辺では有名な系術系の高校の名前を挙げる斎藤先生。僕は軽く頷き口を開く。
「はい、無事に試験に受かったので豊中に行くことにしました」
「それは良かった。何時か君の絵が教科書に載るのを楽しみにしているよ」
「いやいや、流石にそれは無いですよ」
斎藤先生の褒め言葉に、僕は頭を掻きながら否定する。しかし、嬉しさまでは抑えきれなくついつい笑顔が零れてしまった。
そんな遣り取りをしているうちに、僕らは美術室の前まで来て斎藤先生はポケットから鍵を取り出すと美術室の扉の鍵に差し込み捻る。ガチャン、と音が鳴ると斎藤先生は鍵を抜いて再びポケットにしまうと扉に手をかける。
ガラガラ、と斎藤先生が美術室の扉を開けて中へ入っていく。僕もその後を追いかけ足を浮かすと絵の具と木の香りが入り混じった独特の匂いが僕の鼻をくすぐった。懐かしいその匂いに、僕は浮いた足を床に戻し、一つ深呼吸をしてから美術室に足を踏み入れた。
拭った後はあるが、色彩に塗れた多くの机に、名前も分からない首像、黒板やその上に張り付けられた生徒の水彩画や教科書にも載っている有名な絵のコピー。机の位置が微妙にずれているかもしれないが、僕の記憶の中にある景色と幾分も差は無かった。
「懐かしい・・・」
部活動の時によく使っていた席に自然と足が向かう。その間に、指は綺麗に汚れた机をなぞりザラザラとした感触を懐かしむ。
僕がいつも座っていた美術室の後ろの、窓に一番近い机。入学した時は水彩画をよく描いていたが、二年生に上がった頃からは油絵を描いていたこの席だけは一際油っぽい匂いが漂っているような気がした。
椅子を引き出し外に向けて僕は腰かける。
白線の引かれたグラウンドに青々とした桜。その向こう側には水平線まで見えるさざ波立つ海と雲が泳ぐ空があった。
もうすぐ通い始める高校は街中に立っているのでこんな景色を見れる空間は何処にもない。この学校だけが持つ景色だ。
そんな僕の元に斎藤先生が美術用具を持って歩み寄る。
「そう言えば、橘君はよく海の絵を描いていたねぇ」
斎藤先生の方を振り向き、そして彼の目線が机に向けられているのを見て僕も同じように目を下げると青や白色でペイントされた机がそこにはあった。絵を描く時によく雑に机の上に放り投げていたので他の机よりも鮮やかだ。
「はい。この景色が好きだったんで」
「わたしも好きだよ。この景色。これが見れなくなるのは実に惜しいよ」
「そうですよねぇ・・・」
お互い、学校を離れれば元教諭や元生徒であってもほぼ部外者と言ってもいい。再びこの部屋から見る景色が瞳に写されることはそうないだろう。
それを理解して、最後に焼き付けるように僕と斎藤先生は暫く外を眺めた。
「りっくーん」
慣れ親しんだその声と呼び名に振り返る。美術室の扉を少し開けて、幼馴染―――成瀬海顔を覗かせこちらを伺っていた。
黒板の上にかけられた時計を見れば、離任式から既に三十分以上も過ぎていた。
「ああ、ごめん。待たせたな。あの、先生、それじゃあ僕はこれで失礼します。本当に今までありがとうございました」
幼馴染の彼女に謝罪を入れ、椅子から立ち上がると斎藤先生に頭を下げる。
「そうかいそうかい。それじゃあ、体に気を付けて元気でね」
顔に皺を寄せて微笑む斎藤先生はそう言って手をあげた。
僕は頭を上げてもう一度「ありがとうございます」と告げると、幼馴染の元へ駆け寄った。
「青春だねぇ」
僕の背中をやけに輝かしい目で見る斎藤先生は、僕らに聞こえないように静かに零した。
「空は?」
朝、学校を訪れた時にはいたもう一人の幼馴染の行方を尋ねると海は前を向いたまま口を開く。
「吹部の後輩と話してるから校門で待っててだって」
「あいつ後輩の人気高いよなぁ」
でも、吹奏楽部部長だったし結構面倒見がいいところがあったから不思議な話じゃないし、僕から見ても頼もしい人物だと思う。うだうだ言いながらもいつも宿題見せてくれたし。
僕の心に声に頷く様に海も「面倒見良いからねぇ」とぼやく。そんな彼女を見ながら僕は口を開いた。
「そう言うお前も結構慕われてたんだろ?」
「皆目潤ませてたから、あんな中入っちゃったら私まで涙が出ちゃいそうだったからさ」
「ああ」
海の言葉に納得する。涙脆いもんな。
それに、さっきから前ばっかり向いているのも、薄ら目の下が腫れているのもそういうことなんだろう。
僕はそれ以上海の顔を見ない様に前を向いて横を歩いた。
「そういえばさ、最近絵は描いてるの?うちらは最近まで吹部に顔出してやってたけどりっくん受験勉強でこもりっぱなしだったし」
「全然描いて無くてさ、結構うずうずしてんだよね。高校入ったら速攻美術部入部して絵描きまくるわ」
「へぇー、どんな絵描くの?」
「それは決めてないけど」
「じゃあさ」
タタンッ、と小刻みに僕の前を駆けて海は僕の前に立つと、後ろで手を結び、前にかがんで仄かに微笑む。潤んだ瞳が僕を見上げ、細い半円になる。
「私を描いてよ!」