第二話
空が訪れた日から丁度一週間後の七月二十二日。僕は朝早くに目が覚めた。
それから、二階のトイレに寄り道をしてゆっくりと階段を下ると肉の焼ける音と匂いが寄って集ってくるように僕の耳と鼻に入ってくる。階段を最後まで降りると、キッチンでフライパンを振るっている父の姿が見えた。
「お、珍しいな陸。おはよう」
父は特別驚いた様子も無く僕を姿を確認すると笑ってそう言った。
僕は、そんな父の対応が良く分からない。実の息子が不登校で、普段ゲームばかりやっていても一度も説教も何もしてこないで屈託のない笑顔を浮かべる。
自分で言うのは何だが、もう少し危機感を持った方がいいと思う。そんなことは疾うの昔に考え飽きている事だが、今日改めて笑う父を見てその神経を疑った。
そして、僕が不登校になってからというものそれなりに仲が良かったつもりの父とは今では話すのに抵抗を感じて自分から話す事は一切無くなってしまった。
取りあえず、挨拶に対しては返事をして、僕は早起きな理由は説明せずに父の横を通り過ぎて冷蔵庫から麦茶を取り出すと、コップに移しいれてそれを持ってリビングに移動する。別に説明しなくとも父は深く追求してこない。
「飯はどうする?」
「いい」
「そうか」
短い応答を繰り返し、ジュゥとフランパンから音が上がる。いい、と言ったばかりだが少しだけ腹が減ったきた。先ほどキッチンを通った時に垣間見た出来立ての卵焼きとフライパンの上を転がるウィンナーを思い出し口の中が湿る。
そして、体というものは実に正直者でチビチビと麦茶を飲んで空腹を紛らわそうとした僕のお腹はぐぅと音を上げた。
空になったコップを持って再びキッチンに戻り、また麦茶を注ぎながらぶっきらぼうに「やっぱ、ちょっと食う」と言うと、父は笑う。
「そう言うと思ってた。ほら、持ってけ」
卵焼きとウィンナー、それからキャベツのみじん切りが盛られたお皿とインスタント味噌汁の入ったお椀を父に渡される。よく見れば、同じ内容の皿達がもう一つずつ置かれて、予め僕が来ることを予期して準備していたのが分かる。
「・・・・・・ありがと」
狡いな。
お皿とお椀を手にし、感謝と裏腹に僕は内心そう思った。
父の教育方針である『放任主義』は身をもって知っている。そして、一見子供の事なんて気にも留めて無いし、分かりきっていない様なのにコレだ。
僕の事を見ていないようで確り見透かしている。
僕はリビングに行ってテーブルにお皿を並べると、また戻ってお茶碗にご飯をよそい、お箸を持ってテーブルに戻る。序だから、汚れた包丁やフライパンをシンクに置いている父の分も用意した。
「お、すまないね。ありがとう」
「いや、いいよ」
それから一分くらい。お互いに朝食の準備を整えると、僕らはリビングのテーブルにつく。片側が壁にくっ付いたテーブルは三人ずつ座れる六人席だが、半分以上が雑誌や本、良く分からない置物や調味料に占領されているので壁から遠い方の二席しか空いて無く、自ずと父と向き合う形になる。
何となく、それは気恥かしいので気分を紛らわすためにテーブルの上に転がったリモコンを取りテレビをつける。朝早くからある番組なんて何処も興味の無いニュースしかないけど、それでも少しは気楽になれる。
「最近調子はどうだ?」
「まぁまぁ」
「そういえば、昨日帰りがけに空ちゃんを見かけてな。また綺麗になったよなぁ」
「なんだよそれ。女子高生相手にそんなこと言うと犯罪になるよ」
「ハッハッハッ!今の世の中は怖いな!」
父から他愛も無い話が振られて、僕が深くも考えず取りあえず返事をする。それを何度か繰り返し、何度も繰り返し、その問答を繰り返すうちに僕の緊張感は高まる。
『学校に行くのか?』
その質問がいつ投げかけられるのか。そして、その言葉になんと返せばいいのか分からない。
今日目が覚めたのは学校に心から行きたいと思ったわけでも、空の期待を裏切りたくない何てもの以前に自然と目が覚めただけだ。それに理由を求められて、自分でも良く分からない。
しかし、十五分くらいしたところで父は時計に目をやり思い出したかのように残り少ない朝食を口の中にかきこむ。
「そろそろ出る時間だ。食器は流しに置いといてくれれば帰ってから洗うから」
「え、あぁ、うん。分かった」
父は慌ただしくもシャツを伸ばし椅子に掛けていたネクタイを巻いてスーツに腕を通す。温和な印象を受ける父も、外見をキチッとすれば締まって見えるものだ。
それから父は自分の食器をキッチンに持っていくと、洗面所に向かっていった。歯でも磨いているのだろう。シャコシャコという音が聞こえてくる。
五分もすれば父は準備を整えて、そして急いでいるのにわざわざリビングに顔を出して「それじゃ行ってきます」と一言僕に告げて家を出ていった。
後に残されたものは、アナウンサーの淡泊な声と朝食を咀嚼する音だけ。
結局、僕の心配は無縁に終わった訳だがそれはそれで納得がいかない。聞いてほしい訳じゃないけど、聞いても良かったんじゃないのかなと思う。
不登校の人間がこんなに朝早くに起きたら学校に行くのかと少しは思うはずだし、でも、父はそうは思いつつも僕がそれを聞いてほしく無い事だと理解して触れなかったのかもしれない。
単純に能天気なだけ。そうも考えれるけど、どうもあの父には隠し事が出来ない気しかしないのだ。
「さてと」
静けさの増したリビングの中で椅子に凭れかかり、言葉と共に息を吐く。
コップを傾け、温くなった麦茶を飲み干して父に言われた通り食器を重ねてキッチンに向かう。既にそこには父が使っていた食器が連なり、僕はそれを崩さない様に並べると水道のレバーを上げて水につける。
それから、洗面所に向かい歯を磨いて、顔を洗って、身嗜みを一通り整えてリビングに戻ると時間は七時に差し掛かるかといった頃になっていた。
カチリカチリと針を進める時計を数秒見つめて、七時か、と心の中で呟く。
学校に行く時間としては丁度いい時間帯だ。家を出て、電車に乗って駅の傍に
『学校、来てよね』
学校を意識した性なのか、この間の空が去り際に放った言葉を脳裏を過る。
―――分かってるさ。行かないと行けないこと位。
妄想の中の彼女に向かって声をかける様に心の内で返事をする。その声には、昨日とは違って少しだけ棘が生えた様に鋭いものだった。
僕は二階に上がり自室に行くと、クローゼットの戸にかけた制服を手にする。入学式から数日の間しか着ていない制服は少し埃っぽいが新品らしい硬さがまだ残っている。
「ああ、いや、夏服に変わってるよな」
ブレザーを持って思いだしたように零す。学校に暫く行っていなかった性で忘れていたが、もう夏服に変わっている時期だ。
僕はクローゼットを開いて、今度は本物の新品の制服用の半袖のシャツと通気性の高い暗い紺色のズボン、それとシャツの下に着る薄手のインナーと靴下を取り出してベッドの方に歩きながらその上に放り投げる。
寝間着を制服の横に脱ぎ捨て、イナンー、シャツ、ズボン、靴下の順番で身に着ける。それを着終えた後に、ブレザーと一緒にハンガーにかけたネクタイを手にして洗面台へ向かう。
「こうだっけな」
ネクタイを結んだ経験はまだ浅くて、それも数カ月ぶりなので指を彷徨わせながらネクタイを折り曲げる。
何とかそれっぽくネクタイを巻くことが出来たが、ちょっと不格好な感じがしたので結び目を摘まむように握り位置を調整する。
「・・・ん、まぁ、これでいいかな」
まだ少し変な感じがするけど、どうせちゃんと巻けないのであれば不出来すぎることになるよりも現状維持だ。
ネクタイを巻き終えたら自室に戻り、少し埃の被った紺色のボストンバッグをはたき軽く綺麗にして肩にかける。
昨夜から充電器に繋げたままのスマホをポケットにしまい、それから玄関に向かう。
最近では滅多に履くことの無くなった緩々のスニーカーに足を通し、靴ひもをきつく結び直す。
これで準備は整った。そう思い、ふと時計を見れば意外と準備に時間がかかっていたようで靴箱の上に置いてある時計は七時三十分になりかかっていた。
やばい、これだと電車に間に合わない。急がないと。
両方のつま先でトントンと地面を叩き、僕は玄関を開ける。
「あ、りっくん!おはよ!」
すると、向かい側の家からも丁度僕と同じ中学校の制服を着た彼女が出てきて、僕に気が付くなり笑顔で手を振ってくれた。
僕は何時も通りに明るい彼女の眩しさに目が細くなり、手を振り返す。
「おはよ、―――」
「・・・・・・」
靴ひもを結ぶ手が止まり、カチカチと動く針の音につられふと時計に視線を投げかけると七時十三分を示していた。
最寄りの駅から電車が発つのにはまだ時間があり、歩いて行っても余裕で間に合う。
今ならまだ出れる。今ならまだ彼女は出てこない。
玄関で腰を下ろしたまま項垂れる僕はそう言い聞かせて、立ち上がろうと試みるが心とは裏腹に体はびくとも動かなかった。
いや、心さえも震えていたんだと思う。
僕はそのまま、時計の長い針が下を向くまでその場を動けず、この扉を開けることが出来なかった。
今日も僕は学校に行けなかった。