第三話
肌に纏わりつく暑さが増していく八月が始まり十日が経った。
数日前、空と一緒に海のお墓参りに行った時以来空は殆ど毎日僕の家に来ていた。いや、来てくれていた、と言った方が正しいか。
無造作に勉強机の上に放ったらかしにしたままの課題やその他プリントの数々は最低限提出するべきものとそうでないものに分けられ、序に埃っぽくじめったかった僕の部屋は今では人二人が気分よくくつろげるくらいには片付いていた。
「そこ違う。此処はこの公式を使うの」
僕の間違いを指摘し、テーブルの向かい側に座る空が身を乗り出して僕が今しがた解いた問題にスラスラと公式を書く。それを見て、僕はやっと覚えて日の浅いその記号群を思い出した。
「ああ、そっか」
「暗記系は覚えればいいけど、数学とか国語系は少し頭を捻らないといけないからしょうがないとは思うけど、この調子だと一人じゃ全然進まないでしょ」
「昨日も解いてたとこも殆ど間違ってたしなぁ。やっぱ独学が無理があるか」
「お世辞にも陸頭良くないしね」
「うっせ」
空の言葉に口を尖らせてわざとらしく言葉を吐き捨てる。そんな事十分に知ってるさ。美術以外殆ど普通くらいだったし、勉強ってもの自体を暫くしないと頭も考え方を忘れてしまう。
それから、また問題を解いていき所々で空からアドバイスと訂正を受け、紙の上にシャーペンを走らせる。
前まではシャーペンを持つのにも抵抗があったけど、今はそれほどの抵抗は感じられない。空が勉強を教えてくれると提案してくれた時にそこが不安だったが、いざ筆箱を開けてみれば普通に手に取れた。
これは、僕の中で何かが変わっている証なのだろうか。
手紙のお蔭、そう言ってもいいのだろうか。
「・・・陸、そこはね―――」
「―――ん」
僕が少し意識を逸らすと、空はそれが悩んだ風に見えたのか左手を伸ばして僕の手の隣りにシャーペンの先を押し当てる。綺麗な文字で式が描かれ、僕はその式を眺めた。
「空、左利きに戻ったのか?」
転校した時は左利きですごい、って思ったりしたことがあって、それがいつの間にか右で箸やペンを使う様になっていたのは何となく覚えている。だから、思わず空に尋ねた。
空は式を書きながら、目線を下のままに口を開く。
「そう言う訳じゃないけど、そっちから見たら左の方がいいでしょ」
「なるほど」
僕は納得した。
確かに、国語以外の課題は左から右に書いて自分の書いた字が見えやすくなっているが、対面にいる空が僕に見せる為に気遣ってくれていた様だ。
空は器用な奴だ。それに要領もいいし何でもテキパキと熟してしまう。先日僕の家に来た時だってあっという間に僕の部屋が片付いていくのを目の当たりにしたときは一家に一台の時代はまだかと、不躾な思考が過ったものだ。
「っていうか、口を動かすよりも手を動かしてよ、手を」
「うっす」
そうしてもう暫く僕は教科書と課題と向き合った。
「あ、もうすぐ七時だ」
空の言葉に顔を上げ、時計を見ると六時が終わろうとしていた。次に、カーテンが半分ほどかかった窓を見ると先ほどよりも随分と赤みを増していて、自然と体が伸びて長い時間が過ぎたことを実感した。
意識したことでか疲労もそれなりに溜まっているのにも気が付き、僕は腕を真っすぐ上に伸ばすと立ち上がり腰を数回打ち口を開く
「今日はこんくらいにしとこ。助かったよ」
「ううん、別に私も夏休み中暇だし」
空はそう言いながら持ってきた鞄を手にし肩にかける。それから、空が部屋の扉に手をかけて出ていこうとしたので僕も後を付いていく。
階段を下り、玄関まで来ると空が靴を履き終えてから僕もスリッパに足を突っ込んで外に出る。窓越しに見た景色より、ほんのりと暗さが増しているような気がする。
玄関を抜けた時に、ふと目の前の家に目が行ってしまうが直ぐに空に声をかけられて意識が逸れる。
「別に送らなくてもいいのに」
空はそう言うが、もうじき日が暮れてしまうので心配なのだ。
でも、そうは言わずに僕は「僕も暇だし」とポケットに手を突っ込んで暮れる空を見上げながら適当に答えた。
僕の家から空の家まで十分程でつく。それなりに近い距離を、僕らはのんびりと歩く。本当は僕も空もさっさと歩くタイプなのだが、僕らの共通の知人にやたらと足が遅い奴がいるのだ。それを思い出して、無意識に意識して、あやふやなまま歩幅は短くなり、歩みが緩やかなものになる。
「なんかさ、懐かしいよねこういうの」
「そうだな」
空の言葉で思い出すのは小学生の時の記憶だった。
登校するのも、下校するのも、遊ぶのも笑って泣いて怒っていろんなことをする時にも一緒にいたあの頃。よくこうして隣同士で歩いて、何気ない日常を当たり前だと思って過ごしていた。
それから中学に入り、それでも一緒に帰ることはあったけど僕らは違う部活だったり、男女間の友人の差であったり、そう言った違いで徐々に一緒にいる時間は減っていった。離任式の時は家が近く、部活も終わっていたので丁度行くのも帰るのも一緒だったが、それまでは月に一度一緒に帰るか帰らないかってくらいだ。
だから、こうして隣同士で歩くのが懐かしいという空の気持ちに僕は共感した。
そう言えば、小さい頃はよく海がどんくさくて何もないところでもこけて僕と空とで肩を貸したりしていたな。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
僕と空の間に、静寂が訪れる。
一瞬、海の事を話題にしようとしたがそうしない方が良いと考えた結果だ。空の方を見ると、あっちもあっちで難しい顔をしていた。もしかしたら同じように考えたのかもしれない。
それが良い事なのか、悪い事なのか。僕らはまだ分からない。
懐かしむためにそれを口にしても良いだろうし、そうしたところで僕らは自分たちの傷をえぐるだけ。でも、かといって話題にしなければ海の事を割けているみたいで、それも悪いのかもしれない。
海が死んだ。
僕は、それを受け止めるべく海の墓まで行って線香を上げたが数日経った今でも未だに実感が湧かないでいた。
手紙のお蔭で前よりは随分といい生活は送れているが、操り人形のように、或は子供の様に、海の手紙に縋り、空の行動力に甘えているだけに過ぎない。
もう一度彼女を見やる。端正な顔立ちはまだ難しい表情を作っている。折角美人になっているのに未だに彼氏の影も見えないのは愛想が無いからだろうな。
なんて、失礼な事を考えながら今はそれが助けになっている現状だ。もしも、海の手紙を受け取っただけだったら僕はまだ一歩もあの家から外に出ることも出来なかったかもしれない。
今思えば、空には頭が上がらないことばかりだ。でも、今更素直に礼を言うのが恥ずかしくてそうは思っても僕は一瞬だけ彼女を見るだけで、唇はピクリとも動かなかった。
そうだ。
僕はまだ、一人では歩くことさえ出来もしない。