第一話
「じゃあさ、私を描いてよ!」
無邪気に笑う君はとても絵になるようで、その実到底僕が表現出来ないくらい眩しい存在だった。
朝日とは言えないくらい明かりがカーテンの隙間から顏に向かって降り注ぎ、やっと僕の体内時計がカチリと動き始める。
瞼を通じて薄らと明るくなるが、何も見えない視界を凝らし眉を顰める。それから唸るように声を上げながらベッドからずり落ちた毛布を手繰り寄せ空いた手で頭を押さえつけて十数秒。徐々に意識は覚醒に近づき、ぼんやりとした思考が淘汰される。
それから、僕は漏れ出た涙でぼやけた視界を瞬きを繰り返す事で晴らすと枕元に無造作に放られていたスマホを手に取り時間を確かめる。
『16:29』
学校に遅刻どころか既に放課後になっている時間帯だ。
外の住宅街の道では疎らに学生が通りがかり、窓ガラス越しに今日一日の出来事や世間話で盛り上がっているのが薄らと聞こえる。
―――学校か。
未だ不明瞭な思考でそう考えながら、かといって焦る事もせずに僕はベッドから上半身を起こして少しべたつく頭を掻きむしり床に足を付ける。そして、次に取る行動は制服に着替える訳でも無い。どうせ今更行ったとしても授業なんて受けれない。
机の上に置いたリモコンをさっと取り26インチのテレビに電源を入れるとリモコンに変わってゲーム機のコントローラを手にする。中央のボタンを長押しするだけで少し離れた場所のテレビの傍に置いてあるゲーム機に熱が籠り始めたのを確認して、僕はベッドの縁に背を預けた。
テレビとゲームハードの電源を入れて数秒もすればテレビ画面には色彩が浮かび上がりホーム画面が現れ、ずっと前から入れっぱなしのソフトを読み込むとまた画面が切り替わり暫くするとやりこんだゲームのメインメニューが表示される。その間に、夏のじめったい暖かな空気を和らげる為にベッドの傍に置いてある扇風機も動かす。
さて、何をしようか。
扇風機のブゥー、という音と共に髪が靡く僕は、ぼんやりとテレビ画面を視界に捉えながらようやくそう考え始めた。実際にゲームを付けたのは何となく、習慣や思い付きに近い感覚であってやりたいと言う気持ちは微塵も無かった。
前まではそれほどゲームにのめり込むタイプでも無かったのに最近は気が付けばコントローラを握っている気がする。それこそ、学生の本分である勉学に費やすよりも多くの時間を。
結局、今から何をするのか明確に案が浮かび上がらなかった。これも何時もの事だ。そもそも、真剣に考えるつもりも無かったのに建前だけの思考がふわりと僕の頭に浮上しただけだ。
カチャカチャと音をたてながらコントローラを操作し本格的にゲームを始めると、それからというもの思考はゲームの事だけに割いて何時の間にか学校の事なんか忘れて没頭していた。
ネットで対人戦をメインに戦い、最初は相手を倒してもこれといった喜びは湧かなかったが顔も知らない相手に倒される度にコントローラを触る両手に力が入る。暇潰しにやっている割には、段々と勝つことに躍起になり何時の間にか対戦相手を倒す時に出る言葉は喜びの言葉でも何でもなく「ざまぁみろ」という意地の悪い台詞ばかりになっていた。
勝利という一時的で些細な優越感。敗北という足を引きずる多大な劣等感。ほぼ交互に得られる情緒は時間が経つにつれて一方が勝り、いつしか僕はコントローラを放り棄ててベッドの縁に首を当てて天井を見上げていた。視界の隅で捉えたテレビ画面には『LOSE』と無駄に大きな文字が書かれていた。
「・・・・・・」
何をしようか。
再起した思考でもう一度考える。
けれど、発想は乏しく一向に何も思い浮かばない。それどころか、何もしたくないとすら思えてくる。
そんな折、枕元からヴー、ヴヴッと独特のバイブ音が鳴り僕は体を捻りライトが点滅して通知が来ていることを主張するスマホに手を伸ばす。記憶を呼び起こす事も無く、慣れた手つきで相性番号をタップして直ぐに連絡用のアプリを開くと幼馴染から連絡が入っていた。
『もう直ぐ家につくから』
それだけの言葉で、幼馴染が何をしにきて僕が何をすべきなのかを理解して『了解』と短く返事をする。何せ『もうすぐ家に着くかい』という文章は数日おきに僕のスマホに届くのだから流石に習慣にもなってくる。
現時刻が19:34だという事を確かめつつ僕はまたスマホをポケットにしまい込むとテレビとゲームを起動させたまま僕は部屋から出る。
意外と廊下の方が涼しい、と感じつつ廊下を歩き階段を下りリビングに出る。外はもう太陽が半分隠れていてリビングは見えないほどではないがやけに暗かったので明かりを灯す。
それから、キッチンに寄り道をして冷蔵庫を開くと大型ペットボトルの麦茶とコンビニで買ったサンドイッチを取り出す。食器棚からコップを取り出し、麦茶を注いで残り半分くらいになった麦茶を再び冷蔵庫にしまい込む。
コップに口を付けながらリビングに戻り、ソファに腰かけて時計を見る。19時36分。後三分程でインターホンが鳴らされるはずだ。僕はそう推測しながらサンドイッチの包装を乱暴に破いて二つのうち一つを手にして噛みつく。
そして、僕が二つ目のサンドイッチを食べ終える頃にインターホンが鳴る。誰が来ているのか分かりきっている事なので、僕は口の中に残った食べカスを麦茶で胃の中に流し込み直接玄関に出向く。
ドアノブの上下についた鍵を解いてからドアノブを捻り扉を押し開ける。
「や」
短く声を上げて胸の高さまで手を上げ掌をこちらに向ける幼馴染―――新見空―――に僕も短く「よぅ」と僅かに腕を上げる。
そして、空は僕と視線が合うと逃げ出す様に瞳を落とし、それから無言で背中に背負ったリュックを下ろしてバックルを外すとリュックの中に手を入れる。几帳面な彼女は直ぐに目的のものが見つけられたようで、飾り気のない透明なクリアファイルを取り出すとその中から数枚のプリントを抜き出し僕に突きつける様に差し出す。
「これ、今週配られたプリントと課題」
「おう。ありがと」
綺麗に仕舞われていたプリントを無造作に掴む。その性で僅かに皺が入るが、僕は気が付かない。だから、空が僕の手元を一瞥し不満そうにほんの少しだけ眉を顰めたのにも気が付かなかった。
空は数拍開けて口の開いたままのリュックを閉じてカチッ、カチッとバックルを留めると両肩にかけて背負う。そして、何時もなら此処でじゃあね、何て言って去るのだが今日はまだ用事があるみたいで空は僕の顔を見上げて、また顔ごと目を逸らし、横目で僕を見ると口を開く。
「来週は夏休みの課題が出るから来てよね。鞄の中に陸の分も入らないんだから」
「・・・行けたら行くよ」
僕の曖昧な返事に納得がいかないのか、空はまた不満そうな顔をした。けど、それも横を向いている性で僕には見えなかった。
空はそのまま踵を返すとドアノブに手をかけて最後に振り返る事もせずに小さく、小さく呟く。
「学校、来てよね」
ガチャン、と玄関が開き夏の心地いい風が家の中に吹き抜ける。その風を縫うように空は歩き、僕はただじっと徐々に細くなる彼女の背中を見つめる。
バタン、と扉が閉まり音も空気も死んだように静けさが蔓延る中僕はぽつりと零した。
「・・・行けたら、行くよ」
行くのか、行かないのか。この言葉を言った時点で僕にも空にももう答えが分かっていた。