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忌まわしい響きだ――。


 少女はため息をついた。それは決して開けてはならない禁忌の箱を連想させる。パンドラ、とその名を二日酔いの勢いで印したろくでなし――もとい我が師匠。その憐れな犠牲を被ったのが、寂れた教会の前に捨てられた幼い子供だったというわけだ。

「パン」

おおよそ神に仕えるものとは思えない小汚いおっさん――師匠はパンドラを短くそう呼ぶ。幾分ましだが、それはそれで流通している主食と紛らわしいので嫌いだ。最も師匠の主成分は酒であり、炭水化物はほとんど口にしなかった。

 本当なら聖職者である彼のことは司教と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。しかしパンドラは彼から神の教えを説かれたことはない。代わりに生きる術を教わった。だから僅かな敬愛を示して、師匠、とパンドラは彼をそう呼んでいた。ちなみに埃を被っていた聖書は勝手に読破したので神についての知識はある。もしかしたら師匠よりも、と思ってしまえるところが怖い。

「パン」

寝るか、呑むか。いまでは一日の大半をそうして過ごす彼がパンドラに声をかけるのは大抵なにか面倒事を押し付けられるときだ。パンドラが彼の腰ほどの背丈であった時代には、もう少しまともな男であった、はずなのだが。

ちなみに現在は肩ぐらいまで成長した。パンドラとしてはもう少し欲しいとも思う。師匠はそれより肉をつけろとうるさいが、ある意味セクハラだ。

「おーい、パン。無視するな。今すぐ泣くぞ」

再び名前を呼ばれて、仕方なく振り向いた。いい歳した師匠が泣くところは正直みたくない。

「なんですか?」

「使いを頼む。山の向こうまで」

パンドラは素早く思考を巡らせた。なだらかな山脈を超えたところにはこの辺りとは比べられないほど大きな街がある。行商用に道が通っているとはいえ往復にはそれなりの日数がいるだろう。

「その手の人間に頼んだらどうですか? まあ、そんなに払えませんけど」

生活費の管理もパンドラの仕事だ。

「いや、他人様には任せられん。嫌なのか」

「いいですけど……」

パンドラの敢えて馬鹿にしたような視線に気づいているのか、いないのか。その点では彼は器の広さを発揮する。

「師匠、わたしがいなくて生活できるんですか?」

ふっと彼は笑った。そのくらいの質問想定してるわ、と師匠はなぜか自慢げな顔。嫌な予感がする。

「俺も一緒にいくから問題ない」

「……」

人は決してそれをお使いとは言わない。せめてもの抵抗と、わざとらしくため息をつく。

「本人がいるなら、わたしはいらないでしょう」

「お前な、俺が辿り着けると思ってるのか」

思わない。思わないが、いい大人が、それも大の男が一人で出掛けられないなんて考えたくない。だがそれを師匠に当て嵌めるのは甘い。

 以前すぐ隣町まで行ってくると言った師匠は、こちらはこの村から歩いても一時間も掛からないのだが、それから三日間帰ってこなかった。後で話を聞いてみたら森の中で迷っていた、と。

一本道の途中に森はない、と反射的に突っ込みを入れた。師匠はそういうこともあるよなと、ごまかすように頭をかいていたが、その謎は決して方向音痴とは無縁のパンドラには理解できない。

「わかりました」

かといってパンドラがこの世話が焼ける師匠を無下にすることなどできないのだ。

「じゃあ、仕事済ませちゃいますから。支度しといてくださいね」


 手にした洗濯物をちゃっちゃとまとめて、パンドラは礼拝室に向かった。

 礼拝や懺悔など、教会の役割を求めてこの場所にくるものはほとんどいない。大概が世間話をしにくるだけだ。それでもこうして掃除を欠かさないのは、パンドラなりに多少の恩を感じているからだった。見ず知らずの子どもを引き取るなんて、そうそうできることじゃない。

 神がいるのか、いないのか。そんなことは知らないけれど、もしもいるなら師匠に引き合わせてくれたことを感謝しよう。


 しかし師匠の仕事をしないことったらない。

 案の定、司祭の仕事をすることもなければ、旅支度もせずにぼんやりと空を見上げていた。パンドラは座りこんで丸まった背中を容赦なく蹴り飛ばした。

「何してるんですか」

「いてて、蹴るこたないだろ。あれだ、あれ。なぜ空は青いのか、という高尚な問題についてだな――」

「何言ってんですか。それよか、これからのことを真面目に考えてください。とりあえず、基本の荷物はわたしが用意するんで。用事に関しては必要なものがあればいうか、自分でちゃんとしてくださいね」

簡単な荷造りを始めたパンドラの横で、白い猫がミルクを美味しそうに舐めている。旅の間はこの子もどこかに預けていかなくてはならない。

 とはいえ、寂れた小さな村には幾人かの老人と、何組かの夫婦、その子どもがいるぐらいだ。どこも余計なものを養うほど手が余っているわけではないだろう。

 小さな碧い瞳と目が合った。

「……お前も、一緒に行くか?」

分かっているのかいないのか、白猫はみゃあ、と返事をするように鳴いた。



――こうしてパンドラのはじめてのお使い、ならぬ師匠と(プラス一匹)の子守旅が始まったのだった。


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