蒲公英堂と私の物語
微風爽やかな五月晴れな某日…梅雨真っ只中に、ポカリとこの日だけ穴が開いたようなそんな気さえしてくるぐらいカラッと晴れたキレイな青空を見上げながら、私は再度地図を見直した。
「…ここで、合ってるんだよね?」
私の目の前には、良く言えば昭和(大正?)モダンな…悪く言ったら古ぼけた二階建ての古民家が立っている。
普通の古民家と違うところと言ったら、門に表札を取り付けるであろう所に『蒲公英堂』と、表札より少し大きめの板が取り付けてあった事だろうか。板の文字は達筆で書かれている…えっと、何とかと…こうえい堂って読むのかな?変な名前。
「不動産屋さんから教えてもらった名前と一緒だし…じゃあ、やっぱりここが…私の下宿先。」
改めて見上げてみて…うん。交通とか諸々の条件が割りと良いのに誰も住みたがらない、住んだとしても直ぐ出ていってしまうって噂を不動産屋さんで聞いた時、ここは幽霊屋敷とか廃墟とか想像してたんだけど…何か、寧ろ…。
「時代から…時間から、ここだけポツンと置いてきぼりされたみたい。」
この古民家とその敷地内だけ、ある時を境に一秒も時が進んでいないような、昔撮った写真の中の世界みたいな…そんな気がた。この家から間隔を空けてビルが立っているビルとかが、全てこの古民家にそっぽを向いているから、余計に。
「…って、ぼんやりしてる場合じゃないんだった。早く家主さんにご挨拶をしなくっちゃ。」
汗が滲んで手から落ちそうになっていたボストンバックを握り直してから、私はささっと『蒲公英堂』の入り口に向かって歩き出した。
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取り敢えず玄関先に入ったら日陰になったのでホッと息を吐き、手早くハンカチで顔や首筋とかに出ているであろう汗を軽く拭いていく。拭き終わったら申し訳程度に髪や服装を整えて、最後に深呼吸を一回。
「ご、ごめんくださぁい。」
玄関に向かって声を出す。反応は…なし。
「ご、ごめんくださいっ。」
少し声を張ってみるけど、反応は…やっぱりなし。…家主さんは留守にしているのだろうか?でも、今日この時間に訪問する旨は手紙や電話でちゃんと伝えている筈なんだけどなぁ。…不動産屋さんが。
「ごめんくださ「おやおや、珍しい。お客さんですか。」ひやぁっ!?」
後ろから急に声を掛けられたものだから、まるで不意討ちに背中から小さな氷の塊を入れられたみたいな変な声が出てしまった…は、恥ずかしい。
顔を俯けながら後ろを振り向いたら、ヨレヨレの半袖シャツに若干色褪せた長ズボンを着た髪の毛ボサボサで丸眼鏡を掛けた…何か、この古民家みたく時間に置いてきぼりされたみたいな人が立っていた。身長高いなぁ。
「いやいや、驚かしてすまない。ウチの『蒲公英堂』に何かご用かい?」
…へ?、た、たんぽぽ?
「ここの名前って、何とかこうえい堂ではなかったんですか?」
「うん、違うよ。蒲焼きの蒲に公園の公に英語の英と書いて蒲公英って読むんだ。七夕みたいに、特殊な読み方をする日本語だから…分かり辛かった?」
「いえ、その…私、漢字が苦手なもので…。」
あの読めなかった漢字は、蒲って書いて『かば』って読むんだ…お、覚えとこう。
「ま、今時の若い人は蒲公英なんて字は書かないか。こりゃ失敬。」
「今度から看板に読み仮名振っとくかぁ。」と呟く家主さん。ま、ますます申し訳なくて頭が上がらなくなってきた…読み仮名を振るって言ってるってことは、間違えて言われたくないって事だよね?私、思いっきり間違えちゃったよ…どうしよう。
「あ、気にしなくて良いよ。確かに思い入れのある名前ではあるけど、分かり難い読み方ってのも分かってたから。…まあ、玄関先で立ち話ってのもアレですから上がって下さいな。お茶ぐらいは出すから。」
「は、はい…。」
う〜…この家主さん、悪い人ではないんだろうけど何か苦手だなぁ。顔の表情が変わらないし分からない。
カラカラカラッと軽い音で開く引き戸をぼんやり見つめて、ふとした疑問が湧いてきた。…この人、さっき鍵開けてた?いや、私も玄関から呼び掛けるだけで鍵が掛かっているかどうかは気にかけてなかったけど…『カチャ』とも『ガチャ』とも音が聞こえなかった…少なくとも、私はそう感じた。
「さ、どうぞ中に「あ、あの!」…何ですか?」
うぐっ、やっぱり表情が分からないから怖いなぁ…じゃなくて。
「鍵…開けてないように感じたのですが、セキュリティとか大丈夫なんですか?」
「…ああ、防犯とかですか。その辺りは、貴女が心配されなくても大丈夫ですよ。ただ単に私が鍵を開けっ放しで散歩していただけですから。」
だ、大丈夫なのかそれ…いや、家主さんが言ってるんだし…間違ってはいないのだろう、うん。
「そうですか。…で、出過ぎた事を言ってしまい、すみませんでした。」
「まぁ、落ち着いて。さ、中に入りましょう。日陰とは言え、ここも十分暑いですから。」
「は、はいっ。…お、お邪魔します。」
玄関先から一歩踏み入れた途端、そこから少し湿気を帯びたヒンヤリとした空気を感じた。
「涼しいでしょう?冬場は日向ぼっこに最適になるんです…まあ、二階がなんですが。」
玄関の段になっているところに腰を掛けて靴を脱いでいる家主さん…いけない、この人が日向ぼっこしている情景を全く想像できない…。
「へぇ…って、はっ!じ、自己紹介が遅れてすみませんっ!!わ、私、本日付でこちらに下宿させていただきます雨宮 水月と言います!19歳です!」
ペコリなんて可愛らしい感じではなく、何かこう…もっと勢い良く頭を下げた。…何で年齢まで暴露しちゃってるんだろう、私。
「おや、貴女が雨宮さんでしたか。同じ年齢の方に比べて小柄な方なんですねぇ。」
うっ、地味に身長が低い事を気にしているのに、そこを思いっきり突かれた…。
「へ、平均はあると思いますよ?」
「まぁ、そう言う事にしときましょう。取り敢えず、床の間にでも移動しましょうか。」
可笑しいな、家主さんの視線が生暖かく感じたよ…いや、気のせいっ。気のせいに決まってる!
履いてきた靴を玄関の隅の方に置いてから、私は家主さんの後ろに付いていった。…この家、前から見ただけじゃ気付かなかったけど…思ったより奥行きや横幅があるんだなぁ。あと、所々に段ボールと本が積まれてる。
「あの、随分たくさん段ボールや本が積まれていますが…何かお店でもしているのですか?」
「ああ、それも床の間に着いてから話しますよ。…その段ボールや本には触らないで下さいね?」
念を押されてしまった…よっぽど大切な物なんだなぁ。
「っと、通り過ぎる所でした。雨宮さん、こちらの部屋に入っていて適当に寛いといてください。私はお茶を入れてきますので。」
「はい。…失礼します。」
通された床の間は、仄かに畳の良い香りがして何か落ち着いた。畳自体は最近入れ替えたみたいで、この家に似合わずまだ全体的にキレイな薄緑色をしていた。
机の近くに座ってボーッとしていたら、ふと窓越しに外を見た。先ほどまで立っていた門が見えて、視線を横にずらしたら…何もない空き地みたいな庭が見えた。
「せっかくタンポポって素朴で可愛い名前の所なのに、寂しい庭だなぁ。」
無秩序に伸び放題の庭に生えている雑草達は、何か少しだけ家主さんのボサボサの髪に似てた。
…家主さんに、お庭を手入れして良いか聞いてみよう。もし許可が降りたら、雑草を取って…雑草を取ったら花の苗や種を植えよう。…今の時期はどんな花が良いだろうか。梅雨時期ではアジサイだが、ちょっと私には育てる自信がないしな…。
「あっ。」
思わず窓に顔を近付けながら、じっくりと注意深く雑草の森を見つめる。
「やっぱりアレは…露草だ。」
地元だと家の周りににも生えていた青に近い青紫色の二枚の花弁を見つけて、何だか嬉しくなった。
「新しい物を入れるのも良いけど、タンポポって名前からも感じるような…元々生えてた素朴で可愛い草花も残すのも良いなぁ。」
「何が良いんですか?」
「それはですね…え…ひょわぁっ!?」
ま、また後ろに家主さんが…い、いつから居たんだろう…。
「雨宮さんが窓に近付いて行っている辺りですかね?」
「!!ど、どうして私が考えている事が分かったんですか!?や、家主さんって読心術が出来る人なんですか?」
「読心術なんて使えませんよ?ただ、貴女が分かり易いだけです。」
う、うぅ…私、そんなに分かり易いのかなぁ。は、恥ずかしいよぅ…。
「で、何が良いんですか?」
「その…まずお聞きしたいんですが…。」
「はい、何でしょう?」
「お庭を…私の意思で手入れとかしても大丈夫でしょうか…?」
「……」
ううっ。家主さん、沈黙が…沈黙が重いよ〜。
「やっぱり…ダメですよね「…ろいた。」え?」
「驚いた。あの庭を手入れしてくれるんですか?」
家主さんは、窓ガラスの方――庭を指差して質問してきた。心なしか、丸眼鏡越しに目を見開いている様に見えなくもない。
「え…?はい、そのつもりで言ったんですけど…。」
家主さんは、見開いたまま数回パチパチと瞬きをしてから、急に笑顔になった。笑顔って言うか、どちらかと言ったら微笑みに近い感じだけど。
「あの庭は、お好きな様にしていただいて結構ですよ。…これから宜しくお願いしますね、雨宮さん。」
「は、はいっ。」
相変わらず前髪や丸眼鏡のせいで表情は分かりづらかったけど、今の家主さんは心から微笑んでいる様に感じた。
「あの…家主さん。今更かもしれませんがお名前を教えてもらっても構わないでしょうか?」
ずっと『家主さん』って呼ぶのも微妙に失礼かもしれないし、何より…私は自己紹介しているのに、家主さん自身は自分の事を話さないのはズルい気がする。
「ああ、紹介が遅れてすみません。僕の名前は日向 葵と言います。…女の子みたいな上に似合わない名前ですよね。」
日向 葵さん…か。確かに、『あおい』は女性に多そうな名前だな。でも、どうして似合わないって思うんだろう?
「(女の子っぽいって以外にもコンプレックスを持ってそうな感じだな…。)どうして似合わないと?」
「それは…またいつか話します。…さ、暑さで氷が溶ける前に飲みましょうか。」
ハッと気づいて日向さんの手元をみたら、茶色い液体――恐らく麦茶――と氷が入り、無数の水滴が付いたコップを二つ持っていて、一つをこちらに向けてきた。私はどこか釈然としないものを抱えつつも無理矢理に聞くのも気が引けたので、大人しく日向さんからコップを受け取った。