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砂浜に流れ着いた彼は、私が殺した初恋の人だった——あの夏の嘘が、今、波に洗われていく

作者: uta
掲載日:2026/05/28

「また、来てる」


誰に言うでもなく、私は呟いた。


早朝五時。薄墨を溶かしたような空の下、寂れた浜辺に白い塊が横たわっている。波が寄せては返し、その輪郭を曖昧にしていく。カモメが二羽、気怠そうに旋回していた。


——溺死体だ。


この入り江には、よく「それ」が流れ着く。


漁師たちは気味悪がって近づかない。「神隠しの入り江」。誰が名付けたのか、この浜はそう呼ばれている。潮の流れが複雑で、沖で溺れた者がなぜかここに辿り着くのだという。


なのに私——桐生澪は、七年間、毎朝この浜に通い続けていた。


理由なんて、とっくに分かっている。


分かっているから、やめられないのだ。


砂を踏みしめる。ぎゅっ、ぎゅっと音が鳴る。潮の匂いが鼻腔を満たし、胃の奥がきゅっと縮む。吐き気にも似た感覚。それでも足は止まらない。


今日の「それ」は、うつ伏せだった。


白いシャツが肌に張り付き、素足が波に洗われている。潮に晒されて色褪せた——藍色の髪。


……藍色?


心臓が、一拍だけ止まった。


「まさか」


声が震える。膝から力が抜けそうになるのを必死で堪え、私はその体に近づいた。屈み込む。白い指先で、冷たい肩に触れる。


氷のようだった。


ゆっくりと、仰向けにした。


——嘘。


嘘だ。


こんなこと、あるわけがない。


七年前に死んだはずの顔が、そこにあった。


陶器のように白い肌。薄い青灰色の瞳。あの頃より痩せて、あの頃より冷たくて、首筋にはうっすらと痣が残っている。溺れた夜の、痕跡。


「……っ」


息ができない。胸を押さえる。爪が掌に食い込む。血が滲む。いつもの癖。いつもの罰。でも今日は、それだけじゃ足りない。


逃げなきゃ。


そう思った瞬間——死んでいるはずのその唇が、動いた。


「……久しぶり、澪」


瞳が開く。


海を閉じ込めたような、あの目。


微笑んでいた。泣いているような、笑顔で。


「——っ、あ」


声にならない悲鳴が喉を裂く。


私は尻もちをついたまま、後ずさった。濡れた砂がスカートを汚していく。そんなこと、どうでもよかった。


だって。


だって、この人は。


「そう……ま」


汐見蒼真。


私の初恋の人。


——私が、殺した人。


「怖い顔してる」


蒼真は緩慢な動きで上体を起こした。濡れたシャツが肌に張り付き、鎖骨の線がくっきりと浮かび上がる。あの頃より痩せた。あの頃より白い。あの頃より——冷たい。


「俺のこと、覚えてるんだな」


「……っ、なん、で」


「分からない」


彼は自分の手のひらを見つめた。まるで初めて見るもののように。長い指。節くれだった関節。あの頃、私の頭を撫でてくれた手。


「気がついたら、ここにいた。何度も。何度も、ここに流れ着く。……どうしてだろうな」


視線が私を捉える。


「お前だけが、毎朝来てくれてた」


心臓を直接掴まれたような感覚。


見られていた。


ずっと。


私が贖罪のつもりで通い続けたこの七年間を、彼は——。


「ごめんなさい」


気づけば、その言葉が口をついていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん——」


「澪」


蒼真の手が伸びてくる。あの頃みたいに、私の頭を撫でようとして——。


途中で、止まった。


「……俺は」


彼の目が、一瞬だけ凍りついた。穏やかな光が消えて、深い深い海の底のような暗さが覗く。


「なんで、お前は俺を助けなかった?」


潮騒だけが、答えを埋めるように響いていた。



     ◇



「澪、遅かったね」


玄関を開けた瞬間、婚約者の声が飛んできた。


桐生隆也。完璧に整えられた短髪。高価なスーツ。隙のない笑顔。私が物心ついた時から「将来の旦那様」として用意されていた男。


「……ごめんなさい。少し、散歩を」


「また浜辺?」


笑顔のまま、目だけが笑っていない。


「あんな場所に毎朝通うの、やめたほうがいいよ。お義父さんも心配してる」


「……はい」


「君のためを思って言ってるんだ」


その言葉を、私は何度聞いただろう。


君のため。お前のため。桐生家のため。


全部、嘘だ。


本当は分かっている。この男が私を「愛している」のではなく「所有している」のだと。あの夜のことを知っていて、それを盾に私を繋ぎ止めているのだと。


「……っ」


服の下で、小瓶のネックレスが肌に触れる。貝殻のかけら。蒼真がくれた、たったひとつの宝物。誰にも見せたことがない。隆也にも、父にも。


あの人が、生きている。


——いや。「生きている」と言っていいのか、分からない。


あの冷たさ。あの目。断片的な記憶。まるで、この世とあの世の境界に留まっているような——。


「澪? 聞いてる?」


「……はい」


「今夜、お義父さんと食事だから。ちゃんと準備しておいて」


「はい」


従順に頷く。それだけが、私に許された生き方だった。


でも。


脳裏に焼きついて離れない。


あの目。あの声。あの問い。


『なんで、お前は俺を助けなかった?』


私には、答える資格がない。


だって私は——助けを呼べたのに、呼ばなかった。父に止められて、黙って見ていた。沈んでいく彼を。私の名前を呼ぶ、あの声を。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい——。


「じゃあ、行ってくるよ」


隆也が出ていく。玄関が閉まる。静寂が戻る。


私は崩れるようにその場に座り込んだ。


明日も、浜辺に行くだろう。


彼がまたそこにいるのか、確かめずにはいられない。


——流れ着いたのは、死体じゃなかった。


私の罪そのものだった。



     ◇



翌朝。


私はまた、あの浜辺にいた。


そして彼も——やはりそこにいた。


同じ場所に。同じ姿で。まるで波が彼を何度でも運んでくるように。


「また来たのか」


蒼真の声には、驚きはなかった。


「……うん」


「律儀だな。俺が怖くないのか」


「怖い」


正直に答えた。


「でも……放っておけない」


「なんでだよ」


「分からない。分からないけど——」


見殺しにした相手を、今度こそ見捨てることなんてできなかった。


……いや、違う。


本当は、彼を手放したくなかったのだ。また目の前から消えてしまうことが、怖かった。


「このままじゃ、誰かに見つかる」


私は意を決して言った。


「うちの敷地に、使われてない物置小屋がある。……そこに」


「匿うつもりか」


「他にどこがあるの」


蒼真は黙って私を見た。海の底のような、深い深い瞳で。


「……お前、変わったな」


「え?」


「昔はもっと、大人しかった。俺の言うことに何でも頷いて、自分からは何も言わなくて」


「……」


「今は——」


言葉が途切れる。彼は小さく笑った。泣いているような、あの笑顔で。


「まあ、いいか。世話になる」



     ◇



物置小屋は埃っぽく、古い木箱や農具が積み重なっていた。私は急いで毛布と水を運び込み、蒼真のために場所を作った。


「本当に、ここにいていいのか」


「いい、とかじゃなくて……他にどこがあるの」


蒼真が毛布を受け取る。その指が私の手に触れた。


——氷のように冷たい。


でも確かに、そこにある。


「まだ、聞きたいことがあるんだろ」


「……」


「俺も聞きたい。あの夜、何があった。俺はなんで死んだ。……なんで、お前はあそこにいた」


質問が胸を抉る。


答えなければならない。でも、答えたら——。


「蒼真は」


私は話題を逸らした。卑怯だと分かっていても。


「どこまで、覚えてるの」


「……断片的だ」


彼は額を押さえた。まるで頭痛を堪えるように。


「海にいた。夜だった。誰かに追われて……いや、追い詰められて、かな。船があった。波が高かった。そして——」


目を閉じる。


「お前が泣いてた」


心臓が跳ねた。


「俺の名前を呼んでた。なのに、なんで——」


「ごめんなさい」


また、この言葉。


「ごめんなさい、私——」


「その言葉はいらない」


蒼真の声が、初めて鋭さを帯びた。


「謝られても、何も分からない。俺が知りたいのは、真実だ。お前が何を見て、何を選んで、なんで俺を——」


声が途切れる。


「……なんで俺を、見捨てた」


穏やかな仮面が、剥がれた瞬間だった。


彼の目に浮かんでいたのは、恨みなのか、悲しみなのか、それとも——。


「私は」


唇が震える。爪が掌に食い込む。血の味がする。それでも、言わなければ。


「私は、助けを呼ぼうとした」


「……」


「でも、父に止められた。『余計なことをするな』って。『お前はここにいなかった』って。私は……私は、怖くて」


「桐生の旦那か」


蒼真の声が、低く沈む。


「やっぱり、そうか」


「蒼真は、知ってたの?」


「薄々な。あの人は俺のことが気に入らなかった。貧乏漁師の息子が、大事な一人娘に手を出してるって」


自嘲するような笑み。


「でも、まさか殺されるとは思わなかったな」


——殺された。


その言葉が、空気を凍らせる。


「あれは事故じゃない」


蒼真は静かに言った。


「俺は、殺されたんだ」



     ◇



七年前の夏。


私と蒼真は、秘密の恋人だった。


出会いは、この浜辺。私が一人で泣いていた時、彼が声をかけてきた。


『なんで泣いてんの』


『……うるさい。ほっといて』


『まあ、泣きたい時は泣けばいいけどさ。でも、ここで泣くなよ』


『なんで』


『涙が海に落ちるだろ。しょっぱくなる』


馬鹿みたいな理由だった。でも私は、初めて声を上げて笑った。


それが始まりだった。


誰にも言えなかった。桐生家の娘が、漁師の息子と付き合っているなんて。父が知れば激怒する。母は泣く。婚約者候補として用意されていた隆也の顔も潰す。


分かっていた。分かっていて、私は彼を選んだ。


——選んだはずだった。


あの夜まで。


『蒼真、逃げて!』


真っ暗な海。父が雇った男たちに追い詰められる蒼真。船から突き落とされ、波に呑まれていく姿。


『澪ッ——!』


私の名前を呼ぶ、あの声。


『助けを呼んできます! お父さん、離して——ッ!』


『黙れ』


父の手が、私の腕を掴んでいた。爪が食い込むほど強く。


『お前はここにいなかった。何も見なかった。いいな』


『でも、蒼真が——!』


『あんな男のことは忘れろ。お前のためだ』


お前のため。


その言葉を聞いた瞬間、私の体から力が抜けていった。


抵抗することを、諦めた。


彼が沈んでいくのを、私はただ見ていた。



     ◇



「……全部、話した」


物置小屋の薄暗い空間で、私は俯いていた。


「父が首謀者で、隆也も共犯だった。私は……共犯者であり、傍観者。一番卑怯な立場」


「そうか」


蒼真の声には、思ったより感情がなかった。


「ずっと、そうやって自分を責めてきたのか」


「責めるなんて生ぬるい。私には罰を受ける義務がある」


「だから、あの浜に?」


「……」


「毎朝、俺が流れ着くのを待ってた?」


「待ってたわけじゃ——」


嘘だ。


待っていた。願っていた。もう一度会いたいと、狂うほどに。


「澪」


名前を呼ばれて、顔を上げる。


蒼真がすぐ目の前にいた。冷たい指が、私の頬に触れる。


「俺は、お前を恨んでる」


心臓が、凍りつく。


「恨んでる。許せない。なんで助けてくれなかった、なんで声を上げてくれなかった。——ずっと、そう思ってた」


「……うん」


「でも」


指が、涙を拭う。いつの間にか、私は泣いていた。


「お前だけが、俺を忘れなかった」


「……え?」


「七年間、毎朝あの浜に来てた。誰もいない場所で、一人で。……俺のために」


「違う、あれは贖罪で——」


「同じだよ」


蒼真が、笑った。あの日と同じ、泣いているような笑顔。


「忘れないでいてくれた。それだけで、俺は——」


言葉が途切れる。


「……もう少しだけ、ここにいてもいいか」


「蒼真」


「答えが出るまで。俺がお前を赦せるのか、それとも——」


それとも、なんだ。


問い返す前に、外で物音がした。


「澪? いるの?」


——隆也の声だ。


「ッ——!」


私は反射的に蒼真を押し込み、毛布を被せた。埃っぽい木箱の陰に身を隠させる。


「今、行きます」


努めて平静を装い、扉を開ける。


隆也が立っていた。笑顔だったが、目が鋭い。


「こんなところで何してるの」


「……昔のものを、探していて」


「ふうん」


彼の視線が、私の肩越しに物置の中を探る。


「最近、様子がおかしいね。浜辺に行く頻度も増えたし」


「気のせいです」


「そう?」


一歩、近づいてくる。


「あの夜のこと、忘れてないよね?」


背筋が凍った。


「何か変なことを考えてるなら、やめたほうがいい。君のためを思って言ってるんだ」


いつもの言葉。いつもの脅し。


「……はい」


俯いて、頷く。それしかできない。


「よろしい。じゃあ、夕食の準備よろしく」


隆也は踵を返した。去っていく背中を見送りながら、私は拳を握りしめる。


——いつまで、こうしているつもり?


物置の中から、視線を感じた。


蒼真が見ている。私が従順に俯く姿を。何も言い返せない姿を。


恥ずかしかった。情けなかった。


でも同時に、小さな炎が胸の奥で燃え上がるのを感じていた。


七年間、押し殺してきた感情。


——いつか、爆発する。


その予感だけが、確かにあった。



     ◇



「おい、あんた」


声をかけられたのは、三日後の朝だった。


いつものように浜辺へ向かう途中、日焼けした女が私の前に立ちはだかった。ボサボサの茶髪をバンダナで纏め、ツナギ姿で長靴を履いている。磯の匂いが鼻を突いた。


波多野凪。


この町で数少ない、現役の女漁師。


「……何か」


「毎朝毎朝、あの入り江に通ってるだろ」


「それが何か?」


「あそこは『神隠しの入り江』だ。地元の人間なら誰も近づかない」


凪の目が、鋭く光る。


「なのにあんたは、七年前からずっと通ってる。……何を待ってるんだ?」


心臓が跳ねた。


「別に、何も——」


「嘘つくな」


凪が一歩、詰め寄ってくる。


「あんた、何か知ってるだろ。七年前の……蒼真の事故について」


名前を聞いた瞬間、息が止まった。


「あの子は俺の漁師仲間だった。親父さんとも仲が良かった。あんな若い奴が、ベテラン漁師でも落ちないような穏やかな海で溺れるか? おかしいだろ」


「事故だって、警察が——」


「警察なんか当てになるか。桐生の旦那に金握らされて、ろくに調べもしなかった」


凪の声が震えている。怒りだ。七年間、ずっと抱えてきた怒り。


「あんたは知ってるはずだ。あの夜、何があったのか」


「……」


「黙ってたって分かる。その顔見れば」


逃げられない。


私の沈黙が、全てを物語っている。


「話せよ」


凪が私の腕を掴んだ。


「あの子のために。あんたの罪滅ぼしのために。——話せ」



     ◇



結局、私は話した。


凪を物置小屋に連れていき、全てを打ち明けた。父のこと。隆也のこと。私が見殺しにしたこと。


そして——蒼真が、今ここにいること。


「……マジかよ」


凪は蒼真の顔を見て、絶句した。


「蒼真……本当に、蒼真なのか?」


「……凪さん」


蒼真が小さく頷く。


「久しぶり、っていうのも変だけど」


「馬鹿野郎……!」


凪が蒼真の肩を掴んだ。


「七年だぞ、七年! ずっと探してた! 遺体も上がらなくて、供養もできなくて、親父さんは毎日海に向かって手を合わせて——!」


「親父は……」


「三年前に亡くなった。最期まであんたの名前呼んでたよ」


蒼真の顔から、表情が消えた。


「そうか……親父」


「蒼真」


「俺、何も……覚えてない。親父の顔も、声も……」


凪が蒼真の頭を抱え込んだ。まるで弟を抱きしめるように。


「いい。いいんだ。生きてるなら——いや、生きてる……のか? 冷てえな、お前の体」


「分からない。俺も、自分が何なのか」


「……」


凪が私を見た。責めるような目ではなかった。ただ、真実を見定めようとする目。


「桐生の嬢ちゃん」


「……はい」


「あんた、これからどうするつもりだ」


「どう、とは」


「蒼真をこのまま隠し続けるのか。それとも——」


凪の目が、鋭くなる。


「あの夜の真実を、明らかにするのか」



     ◇



選択肢なんて、最初からなかった。


私がどれだけ隠そうとしても、いつかバレる。隆也はもう疑っている。父も、何かを嗅ぎつけているかもしれない。


そして何より——。


「蒼真が真実を知りたがってる」


凪の家の縁側で、私は膝を抱えていた。


「あの夜のこと、全部思い出したいって。……でも、思い出したら」


「恨むか、赦すか。どっちかだろうな」


凪が湯呑みを差し出してくる。


「あんたは、どっちを望んでる」


「私に望む資格なんて——」


「あるよ」


凪の声が、不思議と優しかった。


「七年間、毎朝あの浜に通い続けた。それは罰だったかもしれないけど、同時に——あの子への想いだったんだろ」


「……」


「海は何でも知ってる。潮の流れも、人の心も。……あんたがあの子を想い続けてたこと、海はちゃんと見てたよ」


涙が溢れそうになった。


「私は……私は、ただ」


「分かってる」


凪が立ち上がった。


「俺はあんたの味方になる。蒼真のためでもあるし、あんたのためでもある」


「どうして……」


「どうしてって」


凪が笑った。皺だらけの、でも温かい笑顔。


「七年間、誰にも言えずに抱えてきたんだろ。もう一人で背負わなくていい」



     ◇



その夜。


物置小屋に戻ると、蒼真が月を見上げていた。


「凪さんと話したのか」


「うん」


「……優しい人だな、相変わらず」


「蒼真は、覚えてるの?」


「少しだけ。漁の仕方を教えてもらった記憶がある。あと、俺が親父と喧嘩した時、仲裁に入ってくれた」


懐かしそうに目を細める。でもすぐに、その表情が曇った。


「親父、死んだんだな」


「……うん」


「会いたかった。謝りたかった。俺、最後に喧嘩したまま——」


声が詰まる。


私は何も言えなかった。慰めの言葉なんて、私には言う資格がない。


「澪」


「……なに」


「俺、思い出してきた。断片的だけど、あの夜のこと」


心臓が跳ねた。


「お前の父親と、隆也がいた。あと、知らない男が何人か。俺は船に乗せられて、沖に連れ出されて——」


「やめて」


「突き落とされた。必死で泳いだけど、波が高くて。その時、お前の声が聞こえた」


「やめて、お願い——」


「『蒼真!』って。俺の名前を呼んでた。なのに——」


蒼真が私を見た。


あの目だ。海の底のような、深い深い暗さ。


「なのに、助けは来なかった」


「……」


「お前は泣いてた。俺を見てた。でも、動かなかった」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「ごめんなさい、ごめん——」


「謝るな!」


蒼真の声が、初めて荒げられた。


「謝られたって、俺の七年は戻ってこない! 親父に会えなかったことも、お前との未来も、全部——!」


私は何も言い返せなかった。


正しい。全て正しい。私には、反論する権利がない。


「……でも」


蒼真の声が、急にしぼんだ。


「でも、俺は」


「……」


「お前を、恨みきれない」


顔を上げる。蒼真が、泣いていた。


「なんでだよ。こんなに恨んでるのに。こんなに許せないのに。——お前の顔を見ると、胸が痛くなる」


「蒼真……」


「俺はまだ、お前のことが——」


言葉が途切れる。


その先を、私は聞きたかった。聞いてはいけないと分かっていて、それでも。


「……もう寝ろ」


蒼真が背を向けた。


「明日、また考える」


「蒼真」


「おやすみ、澪」


冷たい声。でもどこかに、微かな温もりが残っている気がした。


——私たちは、まだ終わっていないのかもしれない。


そんな希望を、抱いてしまった自分が、どうしようもなく愚かだった。



     ◇



「澪、今夜は大事な食事会だ。粗相のないようにな」


父の声が、食卓に響く。


桐生誠一郎。白髪混じりの髪を撫でつけ、高級な和装に身を包んだ初老の男。穏やかな笑みを絶やさないが、その目の奥には冷たい光が宿っている。


「はい、お父様」


私は俯いて答えた。いつものように。


「隆也くんのご両親もいらっしゃるから、婚約者らしく振る舞うんだぞ」


「はい」


「『はい』ばかりじゃなく、もう少し愛想よくできないのか」


「……申し訳ありません」


「誠一郎さん、そのくらいで」


母が取り成す。でもその目は、父を恐れている色しかない。この人もまた、父の支配下にいる哀れな人間だ。


「まあいい。とにかく今夜は大人しくしていろ」


食事が運ばれてくる。豪華な懐石料理。私には味が分からなかった。何を食べても、砂を噛んでいるような感覚しかない。


ふと、隆也と目が合った。


笑顔。でも、目が笑っていない。


「澪、最近どこか行ってるの?」


「……いいえ」


「そう? 朝早く出て、夜遅く帰ってくることが増えたみたいだけど」


「散歩をしているだけです」


「ふうん」


隆也の視線が、探るように私を見る。


「物置小屋にも、よく行ってるみたいだね」


心臓が、跳ねた。


「昔のものを整理しようかと——」


「一人で?」


「……はい」


「本当に?」


沈黙が落ちる。父と母が、私たちを見ている。


「隆也くん、何か気になることでも?」


父が口を挟んだ。


「いえ、大したことでは」


隆也が笑う。完璧な仮面。


「ただ、澪が最近少し様子がおかしいので。心配しているだけです」


「そうか。澪、何かあるのか?」


「いいえ、何も——」


「桐生の家に泥を塗るようなことはするなよ」


父の声が、低く響いた。


いつもの脅し。いつもの支配。


「……はい、お父様」


私は俯いた。それしかできない。


——でも。


胸の奥で、小さな炎が燃えている。


蒼真を想うたびに、その炎は大きくなっていく。


いつか、爆発する。


その日が、近づいている気がした。



     ◇



食事会が終わり、客人を見送った後。


父に呼び止められた。


「澪、少し話がある」


書斎に通される。重厚な机の向こうで、父が葉巻に火をつけた。


「最近、妙な噂を聞いたんだが」


「噂、ですか」


「『神隠しの入り江』に、誰かが出入りしているらしい」


心臓が、凍りつく。


「お前は毎朝あそこに行っているな。……誰かに会っているのか?」


「いいえ。一人で——」


「嘘をつくな」


父の声が、鋭くなった。


「お前の目を見れば分かる。何かを隠している」


「私は——」


「七年前の話は終わったはずだ」


葉巻の煙が、ゆらゆらと立ち上る。


「あの小僧のことは忘れろと言ったはずだが」


「……」


「まさか、まだ引きずっているのか?」


「引きずってなど——」


「ならいい」


父が立ち上がった。私の前に来る。顔を覗き込む。


「いいか、澪。お前は桐生家の娘だ。あんな漁師の小倅のことなど、忘れて当然なんだ」


「……」


「お前のために全てを整えてやった。婚約者も、仕事も、将来も。——それを無駄にするような真似はするなよ」


「お前のため」。


また、その言葉。


「お父様」


私は顔を上げた。


「私のため、とおっしゃいますが——」


「何だ」


「本当に、私のためだったのですか」


父の目が、細くなった。


「何が言いたい」


「いいえ……何も」


俯く。逃げる。いつもの癖。


「ならいい。もう行け」


書斎を出る。廊下を歩く。自室に戻る。


扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。


——もう、限界だ。


このままでは、壊れてしまう。


私も、蒼真も。



     ◇



深夜、物置小屋に向かった。


蒼真が起きていた。月明かりの中で、彼の青灰色の瞳が光る。


「どうした。顔色が悪い」


「……父に、探られてる」


「そうか」


蒼真は驚かなかった。分かっていたのだろう。


「時間の問題だな」


「蒼真、私——」


「逃げろとは言わない」


彼の声は静かだった。


「でも、覚悟はしておけ。……あの人たちは、俺を消すためなら何でもする」


「守る」


私は言った。自分でも驚くほど、強い声で。


「今度こそ、あなたを守る。絶対に——」


「おい、落ち着け」


「落ち着いてる!」


叫んでいた。涙が溢れていた。


「落ち着いてるよ……七年間、ずっと考えてきた。私が本当にしなければならなかったことを」


「……」


「あの夜、私は助けを呼ぶべきだった。父に逆らうべきだった。あなたを守るべきだった。——でも、できなかった」


蒼真の前に跪く。


「だから今度こそ。今度こそ、私は——」


「澪」


冷たい手が、私の頬に触れた。


「泣くな」


「……っ」


「お前が泣くと、俺は——」


言葉が途切れる。蒼真の目にも、何かが光っていた。


「……困るんだよ」


「蒼真」


「恨んでるのに。許せないのに。お前が泣くと、全部どうでもよくなる」


「……」


「馬鹿みたいだろ。七年かけて積み上げた恨みが、こんな簡単に——」


蒼真が私を抱きしめた。


冷たい体。でも、温かい心が伝わってくる。


「俺は、お前を赦すかもしれない」


「……え?」


「いや、もう赦してるのかもしれない。分からない。——でも」


耳元で、彼の声が震えた。


「お前を失いたくない。それだけは、確かだ」


——七年越しの告白。


私は泣きながら、彼の背中にしがみついた。


この瞬間だけは、過去も未来も忘れて。


ただ、彼のぬくもりを——冷たいはずの、彼のぬくもりを——感じていたかった。



     ◇



「見つけた」


隆也の声が、耳に刺さった。


翌朝。私が物置小屋から出たところを、彼は待ち構えていた。


「やっぱり誰かを匿ってるんだね」


「違う、これは——」


「嘘はいいよ。もう全部分かってる」


隆也が扉を押し開けた。中に踏み込む。


蒼真はいなかった。毛布だけが残されている。


「……逃げたか」


隆也の目が、冷たく光った。


「誰だ? まさかとは思うけど——」


「何の話ですか」


「とぼけるな」


彼が私の腕を掴んだ。強く。爪が食い込む。


「あの男だろ。七年前に消したはずの」


「……っ」


「お義父さんに報告しないといけないな」


「待って——」


「待たないよ」


隆也が笑った。笑顔のまま、目だけが狂気に染まっている。


「君は最初から俺のものだった。あの男が現れたところで、何も変わらない」


「私はあなたのものなんかじゃ——」


「何だって?」


声のトーンが、がくんと下がった。


「もう一度言ってみろ」


「私は——」


「言えないだろ」


腕を捻られる。痛みに顔を歪めた。


「君には選択肢がないんだ。最初からなかった。あの夜のことを警察に話されたくなければ、大人しく俺の言うことを聞け」


「あの夜のことを話したら、あなたも——」


「俺には証拠がない。でも君はどうだ? 『見殺しにした』という自覚があるだろ?」


息が詰まった。


そうだ。私には「見殺しにした」という自覚がある。それが、この七年間ずっと私を縛り付けてきた鎖だ。


「分かったら、大人しくしてろ。今夜、お義父さんと話をつける」


隆也が去っていく。


私はその場に崩れ落ちた。


——どうすればいい。


蒼真をどこに逃がした。凪さんのところか。でも、そこもすぐにバレる。この町で、父の目が届かない場所なんてない。


「澪」


声がした。振り返ると、茂みの陰から蒼真が現れた。


「全部聞いてた」


「蒼真、逃げて。早く——」


「逃げない」


彼の目が、決意に満ちていた。


「もう逃げるのはやめだ。俺も、お前も」


「でも、父が——」


「分かってる」


蒼真が私の手を取った。冷たい指。でも、しっかりと握りしめてくれている。


「今夜、決着をつける」


「決着……?」


「あの夜の真実を、全部明らかにする。俺が死んだ経緯も、お前が黙っていた理由も、全部」


「そんなこと、できるわけ——」


「できる」


蒼真が、微笑んだ。あの日と同じ、泣いているような笑顔。


「凪さんが、証拠を集めてくれてた。七年間、ずっと」



     ◇



凪の家に向かった。


彼女は私たちを待っていた。


「来たか。……覚悟はできてるな?」


「はい」


私は頷いた。震える声で、それでもはっきりと。


「もう、逃げません」


「よく言った」


凪がテーブルの上に、古い書類の束を広げた。


「これは、七年前の事故調書の写しだ。警察の知り合いから、こっそり手に入れた」


「事故調書……」


「見ろ。おかしいだろ」


指差されたページを見る。


「目撃者なし。遺体未発見。死亡推定時刻に矛盾あり……」


「ろくに調べもしないで、事故として処理された。桐生の旦那の圧力だ」


「でも、これだけじゃ——」


「それだけじゃない」


凪が別の紙を取り出した。


「あの夜、桐生の旦那が雇った男たちの名前だ。一人はもう亡くなってるが、もう一人はまだ生きてる」


「生きてる……?」


「そいつが、証言してくれる。金で雇われて蒼真を船から突き落としたって」


「なんで今更——」


「病気だ。余命半年もない。死ぬ前に罪を告白したいって連絡があった」


私は言葉を失った。


七年間。凪はずっと、真実を追い続けていたのだ。蒼真のために。彼の父親のために。


「あんたは」


凪が私を見た。


「証人になれるか? あの夜、何を見たか。全部話せるか?」


「……」


「黙ってたら、何も変わらない。蒼真を守りたいなら、お前が声を上げるしかない」


声を上げる。


父に逆らう。隆也と決別する。七年間の沈黙を破る。


「できます」


私は言った。


「いいえ——やります。必ず」


凪が、初めて笑った。


「やっと、そういう顔になったな」



     ◇



「お前、何を考えている」


父の声が、書斎に響いた。


夜。私は自ら父の前に立っていた。


「話があります」


「何だ。隆也から聞いた話の釈明か?」


「いいえ」


私は顔を上げた。


「七年前の夜のことです」


父の目が、一瞬だけ揺れた。


「何のことだ」


「とぼけないでください」


声が震える。でも、止まらない。


「汐見蒼真。あなたが殺した人のことです」


「——何を馬鹿な」


父が笑った。でも、その笑みには焦りが滲んでいる。


「あれは事故だ。お前も知っているだろう」


「事故じゃありません」


「澪、いい加減にしろ」


「私は見ていました。あの夜、あなたが雇った男たちに蒼真が追い詰められるのを。船から突き落とされるのを」


「証拠でもあるのか」


「あります」


父の顔から、表情が消えた。


「あの夜、実行した男の一人が証言してくれます。それから、不自然な事故調書も。——全部、明らかになります」


「……お前」


父が立ち上がった。顔が、怒りで歪んでいる。


「桐生家に泥を塗る気か」


「泥を塗ったのはあなたです」


「黙れ!」


机を叩く音が響いた。


「お前のために全てをしてやった! あんな漁師の小倅を排除したのも、お前の将来のためだ!」


「私のため?」


私も声を荒げた。初めてだった。


「私のためなんかじゃない! あなたの体面のため、桐生家の名誉のため。——私は、ただの道具だった!」


「道具だと? 恩知らずな——」


「恩?」


笑った。自分でも驚くほど、冷たい笑みだった。


「人殺しを隠蔽することが、恩ですか」


父が、私の頬を打った。


痛みが走る。でも、涙は出なかった。


「もう遅いですよ、お父様」


私は頬を押さえながら言った。


「証拠は全て、信頼できる人に預けてあります。私に何かあれば、すぐに公表される」


「……何だと」


「波多野凪という人です。ご存知でしょう? 七年間、ずっとあなたを調べていた」


父の顔が、蒼白になった。


「明日の朝には、警察と地元紙に全てが届きます。……もう、終わりです」



     ◇



書斎を出ると、隆也が待っていた。


「全部聞いてたよ」


笑顔。でも、目が死んでいる。


「まさか君が、こんなことをするとはね」


「婚約は破棄します」


「そう簡単にいくと思ってるの?」


「いかなくても構いません。私はもう、あなたの言いなりにはならない」


「……」


隆也の顔が、歪んだ。


「後悔するよ」


「しません」


「あの男を守りたいんだろ? でも無駄だ。俺たちは——」


「もう終わりだって言ったでしょ」


私は彼を遮った。


「あなたも共犯者です。全部明らかになる」


隆也の目に、初めて恐怖が浮かんだ。


「君……」


「さようなら、隆也さん」


私は背を向けた。


後ろで何か叫んでいる声がしたけれど、もう聞こえなかった。



     ◇



外に出ると、凪が待っていた。


「終わったか」


「終わりました」


「あんた、頬——」


「大丈夫です。これくらい」


凪が、私の肩を叩いた。


「よく言った。……蒼真も見てたぞ」


振り返ると、木陰に蒼真の姿があった。


私は走った。彼の元へ。


「蒼真——」


「馬鹿」


彼の声が震えていた。


「頬、赤いじゃないか」


「平気」


「平気じゃない」


冷たい手が、私の頬に触れた。


「でも——」


蒼真が、笑った。涙を流しながら。


「ありがとう」


「え……」


「やっと、お前の声を聞けた。七年前に聞きたかった、お前の——」


「蒼真」


「俺のために、戦ってくれた。それだけで——」


彼が私を抱きしめた。


冷たい体。でも、温かい心が伝わってくる。


「もう、いいんだ」


「え?」


「赦す。——お前を、赦す」


七年越しの赦し。


私は彼の胸で泣いた。声を上げて、子供のように。


「ごめんなさい、ごめんなさい——」


「もう謝るな」


「でも——」


「代わりに、言ってほしい言葉がある」


蒼真が私の顔を上げさせた。月明かりの中で、彼の青灰色の瞳が優しく光っている。


「何……?」


「七年前、言えなかっただろ」


「……」


「今、言ってくれ」


分かった。彼が何を求めているのか。


私は深呼吸をした。そして——。


「好きです」


声が震えた。でも、はっきりと伝えた。


「七年間、ずっと。あなたのことが、好きだった」


蒼真の目から、涙がこぼれ落ちた。


「俺も」


彼が私の額に唇を寄せた。冷たくて、優しいキス。


「俺も、ずっと——」



     ◇



「蒼真、様子がおかしい」


凪の言葉が、胸に刺さった。


告発から三日後。父と隆也は警察の取り調べを受け、町中が騒ぎになっていた。桐生家の没落。それは、私にとって解放であり、同時に——。


「どういうこと」


「見れば分かる」


凪に連れられて、浜辺に向かった。


あの入り江。神隠しの入り江。全てが始まった場所。


蒼真が、波打ち際に立っていた。


その姿が——薄い。


「蒼真!」


駆け寄る。彼の腕を掴もうとして——すり抜けた。


「え……」


「触れなくなってきた」


蒼真が、静かに言った。


「多分、俺の役目が終わったんだ」


「役目って——」


「分からない。でも、体がどんどん軽くなってる。海に還ろうとしてる」


「嫌だ」


私は首を振った。


「やっと会えたのに。やっと——」


「澪」


蒼真の声が、優しく響く。


「俺は七年間、この海に縛られてた。お前に会いたくて、真実を知りたくて、赦したくて——」


「だったら、もう全部終わったじゃない! 一緒にいて!」


「——そうだな」


彼が微笑んだ。あの、泣いているような笑顔。


「でも、俺はもう死んでるんだ。分かってるだろ?」


分かっている。分かっているけど——。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ——!」


叫んだ。子供みたいに。


「また、置いていくの? また、私一人を——」


「一人じゃない」


蒼真の手が、私の頬に触れようとした。触れられないのに。


「お前は、もう強くなった。俺がいなくても、大丈夫だ」


「そんなこと——」


「凪さんがいる。お前を助けてくれる人が、ちゃんといる」


「でも、私は——」


「それに」


蒼真が、海を見た。


「俺は、どこにも行かない」


「え……」


「この海に、ずっといる。お前が来れば、会える。——約束する」


涙が溢れた。


「嘘。そんなの、嘘——」


「嘘じゃない」


蒼真の体が、さらに薄くなっていく。朝日が昇り始めている。


「次に困ったら、また流れ着くよ」


「え……」


「お前のところに」


微笑んだ。泣いているような、でも幸せそうな笑顔。


「だから、泣くな。——また会える」


「蒼真——」


「好きだ、澪。七年前も、今も、これからも」


彼の姿が、光に溶けていく。


「ずっと、お前のそばにいる」


——消えた。


後には、朝日に照らされた穏やかな海だけが残された。


私は砂浜に崩れ落ちた。泣いた。声を上げて、枯れるまで。


凪が後ろから抱きしめてくれた。何も言わずに。



     ◇



どれくらい泣いただろう。


気づくと、太陽が高く昇っていた。


「……凪さん」


「何だ」


「私、これからどうすればいいの」


「さあな」


凪が肩をすくめた。


「でも、蒼真は言ってただろ。お前は強くなったって」


「……」


「あいつの言葉を信じろ。そして——」


凪が、海を見た。


「また、ここに来い。あいつは待ってる」



     ◇



波打ち際に、何かが光っていた。


拾い上げると——貝殻のかけらだった。


七年前、蒼真がくれたものと、同じ形。同じ輝き。


「……蒼真」


胸のネックレスに入っているものと、並べてみた。


ぴったりと、合わさった。


「約束……守ってね」


呟いた。


返事はない。でも、波の音が優しく響いた。まるで、「分かってる」と言っているように。


私は立ち上がった。


朝日が眩しい。でも、もう目を背けない。


この海で、彼と出会った。この海で、彼を失った。この海で——彼と再会した。


そしてこれからも、この海に通い続ける。


彼を想いながら。彼と共に。


「行ってきます」


波に向かって言った。


「また、来るから」


背を向けて、歩き出す。


足元の砂が、きゅっと鳴った。



     ◇



——三ヶ月後。


私は凪の船で、漁の手伝いをしていた。


「おい、網が絡んでるぞ!」


「分かってます!」


潮風が頬を叩く。日焼けした肌。ボサボサの髪。あの頃の「桐生家の令嬢」とは、まるで別人。


「あんた、随分逞しくなったな」


凪が笑う。


「そうですか?」


「ああ。蒼真が見たら、驚くぞ」


「……かもしれません」


海を見る。穏やかな青。どこまでも続く水平線。


「蒼真」


心の中で呼びかける。


「見てる? 私、頑張ってるよ」


返事はない。でも、波がきらきらと光った。


まるで、「見てるよ」と言っているように。


私は笑った。


泣きながら、笑った。


これが、私の選んだ道。


彼と共に生きる、私だけの道。



     ◇



その夜。


私は一人で、あの浜辺にいた。


月が海を照らしている。波の音だけが、静かに響く。


「蒼真」


名前を呼ぶ。


返事はない。


でも——。


「……久しぶり、澪」


振り返ると、彼が立っていた。


薄く透けて見える体。でも、確かにそこにいる。


「約束、守ったんだ」


「当たり前だろ」


蒼真が笑った。泣いているような、でも幸せそうな笑顔。


「俺は、どこにも行かない」


「うん」


「お前のそばに、ずっといる」


「うん」


涙が溢れた。でも今度は、悲しみの涙じゃない。


「ありがとう、蒼真」


「……ああ」


彼の手が伸びてくる。触れられないはずなのに——指先に、微かな冷たさを感じた。


「また会えて、良かった」


「……うん」


「これからも、来いよ」


「毎日来る」


「馬鹿、毎日じゃなくていい。——でも」


蒼真が、微笑んだ。


「待ってる。いつでも」



     ◇



朝日が昇る。


彼の姿は消えていた。でも、波打ち際に——また、貝殻のかけらが落ちていた。


私はそれを拾い上げ、胸のネックレスに重ねた。


三つ目のかけら。


少しずつ、形が完成していく。


「……また、来るね」


呟いて、背を向ける。


足元の砂が、きゅっと鳴った。


——七年前、私は彼を見殺しにした。


でも今は違う。


私は彼と共に生きている。この海と、この空と、この潮の匂いの中で。


罪は消えない。


でも、愛も消えない。


だから私は——この浜辺に通い続ける。


彼が流れ着く、この場所に。



——fin.

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