砂浜に流れ着いた彼は、私が殺した初恋の人だった——あの夏の嘘が、今、波に洗われていく
「また、来てる」
誰に言うでもなく、私は呟いた。
早朝五時。薄墨を溶かしたような空の下、寂れた浜辺に白い塊が横たわっている。波が寄せては返し、その輪郭を曖昧にしていく。カモメが二羽、気怠そうに旋回していた。
——溺死体だ。
この入り江には、よく「それ」が流れ着く。
漁師たちは気味悪がって近づかない。「神隠しの入り江」。誰が名付けたのか、この浜はそう呼ばれている。潮の流れが複雑で、沖で溺れた者がなぜかここに辿り着くのだという。
なのに私——桐生澪は、七年間、毎朝この浜に通い続けていた。
理由なんて、とっくに分かっている。
分かっているから、やめられないのだ。
砂を踏みしめる。ぎゅっ、ぎゅっと音が鳴る。潮の匂いが鼻腔を満たし、胃の奥がきゅっと縮む。吐き気にも似た感覚。それでも足は止まらない。
今日の「それ」は、うつ伏せだった。
白いシャツが肌に張り付き、素足が波に洗われている。潮に晒されて色褪せた——藍色の髪。
……藍色?
心臓が、一拍だけ止まった。
「まさか」
声が震える。膝から力が抜けそうになるのを必死で堪え、私はその体に近づいた。屈み込む。白い指先で、冷たい肩に触れる。
氷のようだった。
ゆっくりと、仰向けにした。
——嘘。
嘘だ。
こんなこと、あるわけがない。
七年前に死んだはずの顔が、そこにあった。
陶器のように白い肌。薄い青灰色の瞳。あの頃より痩せて、あの頃より冷たくて、首筋にはうっすらと痣が残っている。溺れた夜の、痕跡。
「……っ」
息ができない。胸を押さえる。爪が掌に食い込む。血が滲む。いつもの癖。いつもの罰。でも今日は、それだけじゃ足りない。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間——死んでいるはずのその唇が、動いた。
「……久しぶり、澪」
瞳が開く。
海を閉じ込めたような、あの目。
微笑んでいた。泣いているような、笑顔で。
「——っ、あ」
声にならない悲鳴が喉を裂く。
私は尻もちをついたまま、後ずさった。濡れた砂がスカートを汚していく。そんなこと、どうでもよかった。
だって。
だって、この人は。
「そう……ま」
汐見蒼真。
私の初恋の人。
——私が、殺した人。
「怖い顔してる」
蒼真は緩慢な動きで上体を起こした。濡れたシャツが肌に張り付き、鎖骨の線がくっきりと浮かび上がる。あの頃より痩せた。あの頃より白い。あの頃より——冷たい。
「俺のこと、覚えてるんだな」
「……っ、なん、で」
「分からない」
彼は自分の手のひらを見つめた。まるで初めて見るもののように。長い指。節くれだった関節。あの頃、私の頭を撫でてくれた手。
「気がついたら、ここにいた。何度も。何度も、ここに流れ着く。……どうしてだろうな」
視線が私を捉える。
「お前だけが、毎朝来てくれてた」
心臓を直接掴まれたような感覚。
見られていた。
ずっと。
私が贖罪のつもりで通い続けたこの七年間を、彼は——。
「ごめんなさい」
気づけば、その言葉が口をついていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん——」
「澪」
蒼真の手が伸びてくる。あの頃みたいに、私の頭を撫でようとして——。
途中で、止まった。
「……俺は」
彼の目が、一瞬だけ凍りついた。穏やかな光が消えて、深い深い海の底のような暗さが覗く。
「なんで、お前は俺を助けなかった?」
潮騒だけが、答えを埋めるように響いていた。
◇
「澪、遅かったね」
玄関を開けた瞬間、婚約者の声が飛んできた。
桐生隆也。完璧に整えられた短髪。高価なスーツ。隙のない笑顔。私が物心ついた時から「将来の旦那様」として用意されていた男。
「……ごめんなさい。少し、散歩を」
「また浜辺?」
笑顔のまま、目だけが笑っていない。
「あんな場所に毎朝通うの、やめたほうがいいよ。お義父さんも心配してる」
「……はい」
「君のためを思って言ってるんだ」
その言葉を、私は何度聞いただろう。
君のため。お前のため。桐生家のため。
全部、嘘だ。
本当は分かっている。この男が私を「愛している」のではなく「所有している」のだと。あの夜のことを知っていて、それを盾に私を繋ぎ止めているのだと。
「……っ」
服の下で、小瓶のネックレスが肌に触れる。貝殻のかけら。蒼真がくれた、たったひとつの宝物。誰にも見せたことがない。隆也にも、父にも。
あの人が、生きている。
——いや。「生きている」と言っていいのか、分からない。
あの冷たさ。あの目。断片的な記憶。まるで、この世とあの世の境界に留まっているような——。
「澪? 聞いてる?」
「……はい」
「今夜、お義父さんと食事だから。ちゃんと準備しておいて」
「はい」
従順に頷く。それだけが、私に許された生き方だった。
でも。
脳裏に焼きついて離れない。
あの目。あの声。あの問い。
『なんで、お前は俺を助けなかった?』
私には、答える資格がない。
だって私は——助けを呼べたのに、呼ばなかった。父に止められて、黙って見ていた。沈んでいく彼を。私の名前を呼ぶ、あの声を。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい——。
「じゃあ、行ってくるよ」
隆也が出ていく。玄関が閉まる。静寂が戻る。
私は崩れるようにその場に座り込んだ。
明日も、浜辺に行くだろう。
彼がまたそこにいるのか、確かめずにはいられない。
——流れ着いたのは、死体じゃなかった。
私の罪そのものだった。
◇
翌朝。
私はまた、あの浜辺にいた。
そして彼も——やはりそこにいた。
同じ場所に。同じ姿で。まるで波が彼を何度でも運んでくるように。
「また来たのか」
蒼真の声には、驚きはなかった。
「……うん」
「律儀だな。俺が怖くないのか」
「怖い」
正直に答えた。
「でも……放っておけない」
「なんでだよ」
「分からない。分からないけど——」
見殺しにした相手を、今度こそ見捨てることなんてできなかった。
……いや、違う。
本当は、彼を手放したくなかったのだ。また目の前から消えてしまうことが、怖かった。
「このままじゃ、誰かに見つかる」
私は意を決して言った。
「うちの敷地に、使われてない物置小屋がある。……そこに」
「匿うつもりか」
「他にどこがあるの」
蒼真は黙って私を見た。海の底のような、深い深い瞳で。
「……お前、変わったな」
「え?」
「昔はもっと、大人しかった。俺の言うことに何でも頷いて、自分からは何も言わなくて」
「……」
「今は——」
言葉が途切れる。彼は小さく笑った。泣いているような、あの笑顔で。
「まあ、いいか。世話になる」
◇
物置小屋は埃っぽく、古い木箱や農具が積み重なっていた。私は急いで毛布と水を運び込み、蒼真のために場所を作った。
「本当に、ここにいていいのか」
「いい、とかじゃなくて……他にどこがあるの」
蒼真が毛布を受け取る。その指が私の手に触れた。
——氷のように冷たい。
でも確かに、そこにある。
「まだ、聞きたいことがあるんだろ」
「……」
「俺も聞きたい。あの夜、何があった。俺はなんで死んだ。……なんで、お前はあそこにいた」
質問が胸を抉る。
答えなければならない。でも、答えたら——。
「蒼真は」
私は話題を逸らした。卑怯だと分かっていても。
「どこまで、覚えてるの」
「……断片的だ」
彼は額を押さえた。まるで頭痛を堪えるように。
「海にいた。夜だった。誰かに追われて……いや、追い詰められて、かな。船があった。波が高かった。そして——」
目を閉じる。
「お前が泣いてた」
心臓が跳ねた。
「俺の名前を呼んでた。なのに、なんで——」
「ごめんなさい」
また、この言葉。
「ごめんなさい、私——」
「その言葉はいらない」
蒼真の声が、初めて鋭さを帯びた。
「謝られても、何も分からない。俺が知りたいのは、真実だ。お前が何を見て、何を選んで、なんで俺を——」
声が途切れる。
「……なんで俺を、見捨てた」
穏やかな仮面が、剥がれた瞬間だった。
彼の目に浮かんでいたのは、恨みなのか、悲しみなのか、それとも——。
「私は」
唇が震える。爪が掌に食い込む。血の味がする。それでも、言わなければ。
「私は、助けを呼ぼうとした」
「……」
「でも、父に止められた。『余計なことをするな』って。『お前はここにいなかった』って。私は……私は、怖くて」
「桐生の旦那か」
蒼真の声が、低く沈む。
「やっぱり、そうか」
「蒼真は、知ってたの?」
「薄々な。あの人は俺のことが気に入らなかった。貧乏漁師の息子が、大事な一人娘に手を出してるって」
自嘲するような笑み。
「でも、まさか殺されるとは思わなかったな」
——殺された。
その言葉が、空気を凍らせる。
「あれは事故じゃない」
蒼真は静かに言った。
「俺は、殺されたんだ」
◇
七年前の夏。
私と蒼真は、秘密の恋人だった。
出会いは、この浜辺。私が一人で泣いていた時、彼が声をかけてきた。
『なんで泣いてんの』
『……うるさい。ほっといて』
『まあ、泣きたい時は泣けばいいけどさ。でも、ここで泣くなよ』
『なんで』
『涙が海に落ちるだろ。しょっぱくなる』
馬鹿みたいな理由だった。でも私は、初めて声を上げて笑った。
それが始まりだった。
誰にも言えなかった。桐生家の娘が、漁師の息子と付き合っているなんて。父が知れば激怒する。母は泣く。婚約者候補として用意されていた隆也の顔も潰す。
分かっていた。分かっていて、私は彼を選んだ。
——選んだはずだった。
あの夜まで。
『蒼真、逃げて!』
真っ暗な海。父が雇った男たちに追い詰められる蒼真。船から突き落とされ、波に呑まれていく姿。
『澪ッ——!』
私の名前を呼ぶ、あの声。
『助けを呼んできます! お父さん、離して——ッ!』
『黙れ』
父の手が、私の腕を掴んでいた。爪が食い込むほど強く。
『お前はここにいなかった。何も見なかった。いいな』
『でも、蒼真が——!』
『あんな男のことは忘れろ。お前のためだ』
お前のため。
その言葉を聞いた瞬間、私の体から力が抜けていった。
抵抗することを、諦めた。
彼が沈んでいくのを、私はただ見ていた。
◇
「……全部、話した」
物置小屋の薄暗い空間で、私は俯いていた。
「父が首謀者で、隆也も共犯だった。私は……共犯者であり、傍観者。一番卑怯な立場」
「そうか」
蒼真の声には、思ったより感情がなかった。
「ずっと、そうやって自分を責めてきたのか」
「責めるなんて生ぬるい。私には罰を受ける義務がある」
「だから、あの浜に?」
「……」
「毎朝、俺が流れ着くのを待ってた?」
「待ってたわけじゃ——」
嘘だ。
待っていた。願っていた。もう一度会いたいと、狂うほどに。
「澪」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
蒼真がすぐ目の前にいた。冷たい指が、私の頬に触れる。
「俺は、お前を恨んでる」
心臓が、凍りつく。
「恨んでる。許せない。なんで助けてくれなかった、なんで声を上げてくれなかった。——ずっと、そう思ってた」
「……うん」
「でも」
指が、涙を拭う。いつの間にか、私は泣いていた。
「お前だけが、俺を忘れなかった」
「……え?」
「七年間、毎朝あの浜に来てた。誰もいない場所で、一人で。……俺のために」
「違う、あれは贖罪で——」
「同じだよ」
蒼真が、笑った。あの日と同じ、泣いているような笑顔。
「忘れないでいてくれた。それだけで、俺は——」
言葉が途切れる。
「……もう少しだけ、ここにいてもいいか」
「蒼真」
「答えが出るまで。俺がお前を赦せるのか、それとも——」
それとも、なんだ。
問い返す前に、外で物音がした。
「澪? いるの?」
——隆也の声だ。
「ッ——!」
私は反射的に蒼真を押し込み、毛布を被せた。埃っぽい木箱の陰に身を隠させる。
「今、行きます」
努めて平静を装い、扉を開ける。
隆也が立っていた。笑顔だったが、目が鋭い。
「こんなところで何してるの」
「……昔のものを、探していて」
「ふうん」
彼の視線が、私の肩越しに物置の中を探る。
「最近、様子がおかしいね。浜辺に行く頻度も増えたし」
「気のせいです」
「そう?」
一歩、近づいてくる。
「あの夜のこと、忘れてないよね?」
背筋が凍った。
「何か変なことを考えてるなら、やめたほうがいい。君のためを思って言ってるんだ」
いつもの言葉。いつもの脅し。
「……はい」
俯いて、頷く。それしかできない。
「よろしい。じゃあ、夕食の準備よろしく」
隆也は踵を返した。去っていく背中を見送りながら、私は拳を握りしめる。
——いつまで、こうしているつもり?
物置の中から、視線を感じた。
蒼真が見ている。私が従順に俯く姿を。何も言い返せない姿を。
恥ずかしかった。情けなかった。
でも同時に、小さな炎が胸の奥で燃え上がるのを感じていた。
七年間、押し殺してきた感情。
——いつか、爆発する。
その予感だけが、確かにあった。
◇
「おい、あんた」
声をかけられたのは、三日後の朝だった。
いつものように浜辺へ向かう途中、日焼けした女が私の前に立ちはだかった。ボサボサの茶髪をバンダナで纏め、ツナギ姿で長靴を履いている。磯の匂いが鼻を突いた。
波多野凪。
この町で数少ない、現役の女漁師。
「……何か」
「毎朝毎朝、あの入り江に通ってるだろ」
「それが何か?」
「あそこは『神隠しの入り江』だ。地元の人間なら誰も近づかない」
凪の目が、鋭く光る。
「なのにあんたは、七年前からずっと通ってる。……何を待ってるんだ?」
心臓が跳ねた。
「別に、何も——」
「嘘つくな」
凪が一歩、詰め寄ってくる。
「あんた、何か知ってるだろ。七年前の……蒼真の事故について」
名前を聞いた瞬間、息が止まった。
「あの子は俺の漁師仲間だった。親父さんとも仲が良かった。あんな若い奴が、ベテラン漁師でも落ちないような穏やかな海で溺れるか? おかしいだろ」
「事故だって、警察が——」
「警察なんか当てになるか。桐生の旦那に金握らされて、ろくに調べもしなかった」
凪の声が震えている。怒りだ。七年間、ずっと抱えてきた怒り。
「あんたは知ってるはずだ。あの夜、何があったのか」
「……」
「黙ってたって分かる。その顔見れば」
逃げられない。
私の沈黙が、全てを物語っている。
「話せよ」
凪が私の腕を掴んだ。
「あの子のために。あんたの罪滅ぼしのために。——話せ」
◇
結局、私は話した。
凪を物置小屋に連れていき、全てを打ち明けた。父のこと。隆也のこと。私が見殺しにしたこと。
そして——蒼真が、今ここにいること。
「……マジかよ」
凪は蒼真の顔を見て、絶句した。
「蒼真……本当に、蒼真なのか?」
「……凪さん」
蒼真が小さく頷く。
「久しぶり、っていうのも変だけど」
「馬鹿野郎……!」
凪が蒼真の肩を掴んだ。
「七年だぞ、七年! ずっと探してた! 遺体も上がらなくて、供養もできなくて、親父さんは毎日海に向かって手を合わせて——!」
「親父は……」
「三年前に亡くなった。最期まであんたの名前呼んでたよ」
蒼真の顔から、表情が消えた。
「そうか……親父」
「蒼真」
「俺、何も……覚えてない。親父の顔も、声も……」
凪が蒼真の頭を抱え込んだ。まるで弟を抱きしめるように。
「いい。いいんだ。生きてるなら——いや、生きてる……のか? 冷てえな、お前の体」
「分からない。俺も、自分が何なのか」
「……」
凪が私を見た。責めるような目ではなかった。ただ、真実を見定めようとする目。
「桐生の嬢ちゃん」
「……はい」
「あんた、これからどうするつもりだ」
「どう、とは」
「蒼真をこのまま隠し続けるのか。それとも——」
凪の目が、鋭くなる。
「あの夜の真実を、明らかにするのか」
◇
選択肢なんて、最初からなかった。
私がどれだけ隠そうとしても、いつかバレる。隆也はもう疑っている。父も、何かを嗅ぎつけているかもしれない。
そして何より——。
「蒼真が真実を知りたがってる」
凪の家の縁側で、私は膝を抱えていた。
「あの夜のこと、全部思い出したいって。……でも、思い出したら」
「恨むか、赦すか。どっちかだろうな」
凪が湯呑みを差し出してくる。
「あんたは、どっちを望んでる」
「私に望む資格なんて——」
「あるよ」
凪の声が、不思議と優しかった。
「七年間、毎朝あの浜に通い続けた。それは罰だったかもしれないけど、同時に——あの子への想いだったんだろ」
「……」
「海は何でも知ってる。潮の流れも、人の心も。……あんたがあの子を想い続けてたこと、海はちゃんと見てたよ」
涙が溢れそうになった。
「私は……私は、ただ」
「分かってる」
凪が立ち上がった。
「俺はあんたの味方になる。蒼真のためでもあるし、あんたのためでもある」
「どうして……」
「どうしてって」
凪が笑った。皺だらけの、でも温かい笑顔。
「七年間、誰にも言えずに抱えてきたんだろ。もう一人で背負わなくていい」
◇
その夜。
物置小屋に戻ると、蒼真が月を見上げていた。
「凪さんと話したのか」
「うん」
「……優しい人だな、相変わらず」
「蒼真は、覚えてるの?」
「少しだけ。漁の仕方を教えてもらった記憶がある。あと、俺が親父と喧嘩した時、仲裁に入ってくれた」
懐かしそうに目を細める。でもすぐに、その表情が曇った。
「親父、死んだんだな」
「……うん」
「会いたかった。謝りたかった。俺、最後に喧嘩したまま——」
声が詰まる。
私は何も言えなかった。慰めの言葉なんて、私には言う資格がない。
「澪」
「……なに」
「俺、思い出してきた。断片的だけど、あの夜のこと」
心臓が跳ねた。
「お前の父親と、隆也がいた。あと、知らない男が何人か。俺は船に乗せられて、沖に連れ出されて——」
「やめて」
「突き落とされた。必死で泳いだけど、波が高くて。その時、お前の声が聞こえた」
「やめて、お願い——」
「『蒼真!』って。俺の名前を呼んでた。なのに——」
蒼真が私を見た。
あの目だ。海の底のような、深い深い暗さ。
「なのに、助けは来なかった」
「……」
「お前は泣いてた。俺を見てた。でも、動かなかった」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「ごめんなさい、ごめん——」
「謝るな!」
蒼真の声が、初めて荒げられた。
「謝られたって、俺の七年は戻ってこない! 親父に会えなかったことも、お前との未来も、全部——!」
私は何も言い返せなかった。
正しい。全て正しい。私には、反論する権利がない。
「……でも」
蒼真の声が、急にしぼんだ。
「でも、俺は」
「……」
「お前を、恨みきれない」
顔を上げる。蒼真が、泣いていた。
「なんでだよ。こんなに恨んでるのに。こんなに許せないのに。——お前の顔を見ると、胸が痛くなる」
「蒼真……」
「俺はまだ、お前のことが——」
言葉が途切れる。
その先を、私は聞きたかった。聞いてはいけないと分かっていて、それでも。
「……もう寝ろ」
蒼真が背を向けた。
「明日、また考える」
「蒼真」
「おやすみ、澪」
冷たい声。でもどこかに、微かな温もりが残っている気がした。
——私たちは、まだ終わっていないのかもしれない。
そんな希望を、抱いてしまった自分が、どうしようもなく愚かだった。
◇
「澪、今夜は大事な食事会だ。粗相のないようにな」
父の声が、食卓に響く。
桐生誠一郎。白髪混じりの髪を撫でつけ、高級な和装に身を包んだ初老の男。穏やかな笑みを絶やさないが、その目の奥には冷たい光が宿っている。
「はい、お父様」
私は俯いて答えた。いつものように。
「隆也くんのご両親もいらっしゃるから、婚約者らしく振る舞うんだぞ」
「はい」
「『はい』ばかりじゃなく、もう少し愛想よくできないのか」
「……申し訳ありません」
「誠一郎さん、そのくらいで」
母が取り成す。でもその目は、父を恐れている色しかない。この人もまた、父の支配下にいる哀れな人間だ。
「まあいい。とにかく今夜は大人しくしていろ」
食事が運ばれてくる。豪華な懐石料理。私には味が分からなかった。何を食べても、砂を噛んでいるような感覚しかない。
ふと、隆也と目が合った。
笑顔。でも、目が笑っていない。
「澪、最近どこか行ってるの?」
「……いいえ」
「そう? 朝早く出て、夜遅く帰ってくることが増えたみたいだけど」
「散歩をしているだけです」
「ふうん」
隆也の視線が、探るように私を見る。
「物置小屋にも、よく行ってるみたいだね」
心臓が、跳ねた。
「昔のものを整理しようかと——」
「一人で?」
「……はい」
「本当に?」
沈黙が落ちる。父と母が、私たちを見ている。
「隆也くん、何か気になることでも?」
父が口を挟んだ。
「いえ、大したことでは」
隆也が笑う。完璧な仮面。
「ただ、澪が最近少し様子がおかしいので。心配しているだけです」
「そうか。澪、何かあるのか?」
「いいえ、何も——」
「桐生の家に泥を塗るようなことはするなよ」
父の声が、低く響いた。
いつもの脅し。いつもの支配。
「……はい、お父様」
私は俯いた。それしかできない。
——でも。
胸の奥で、小さな炎が燃えている。
蒼真を想うたびに、その炎は大きくなっていく。
いつか、爆発する。
その日が、近づいている気がした。
◇
食事会が終わり、客人を見送った後。
父に呼び止められた。
「澪、少し話がある」
書斎に通される。重厚な机の向こうで、父が葉巻に火をつけた。
「最近、妙な噂を聞いたんだが」
「噂、ですか」
「『神隠しの入り江』に、誰かが出入りしているらしい」
心臓が、凍りつく。
「お前は毎朝あそこに行っているな。……誰かに会っているのか?」
「いいえ。一人で——」
「嘘をつくな」
父の声が、鋭くなった。
「お前の目を見れば分かる。何かを隠している」
「私は——」
「七年前の話は終わったはずだ」
葉巻の煙が、ゆらゆらと立ち上る。
「あの小僧のことは忘れろと言ったはずだが」
「……」
「まさか、まだ引きずっているのか?」
「引きずってなど——」
「ならいい」
父が立ち上がった。私の前に来る。顔を覗き込む。
「いいか、澪。お前は桐生家の娘だ。あんな漁師の小倅のことなど、忘れて当然なんだ」
「……」
「お前のために全てを整えてやった。婚約者も、仕事も、将来も。——それを無駄にするような真似はするなよ」
「お前のため」。
また、その言葉。
「お父様」
私は顔を上げた。
「私のため、とおっしゃいますが——」
「何だ」
「本当に、私のためだったのですか」
父の目が、細くなった。
「何が言いたい」
「いいえ……何も」
俯く。逃げる。いつもの癖。
「ならいい。もう行け」
書斎を出る。廊下を歩く。自室に戻る。
扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。
——もう、限界だ。
このままでは、壊れてしまう。
私も、蒼真も。
◇
深夜、物置小屋に向かった。
蒼真が起きていた。月明かりの中で、彼の青灰色の瞳が光る。
「どうした。顔色が悪い」
「……父に、探られてる」
「そうか」
蒼真は驚かなかった。分かっていたのだろう。
「時間の問題だな」
「蒼真、私——」
「逃げろとは言わない」
彼の声は静かだった。
「でも、覚悟はしておけ。……あの人たちは、俺を消すためなら何でもする」
「守る」
私は言った。自分でも驚くほど、強い声で。
「今度こそ、あなたを守る。絶対に——」
「おい、落ち着け」
「落ち着いてる!」
叫んでいた。涙が溢れていた。
「落ち着いてるよ……七年間、ずっと考えてきた。私が本当にしなければならなかったことを」
「……」
「あの夜、私は助けを呼ぶべきだった。父に逆らうべきだった。あなたを守るべきだった。——でも、できなかった」
蒼真の前に跪く。
「だから今度こそ。今度こそ、私は——」
「澪」
冷たい手が、私の頬に触れた。
「泣くな」
「……っ」
「お前が泣くと、俺は——」
言葉が途切れる。蒼真の目にも、何かが光っていた。
「……困るんだよ」
「蒼真」
「恨んでるのに。許せないのに。お前が泣くと、全部どうでもよくなる」
「……」
「馬鹿みたいだろ。七年かけて積み上げた恨みが、こんな簡単に——」
蒼真が私を抱きしめた。
冷たい体。でも、温かい心が伝わってくる。
「俺は、お前を赦すかもしれない」
「……え?」
「いや、もう赦してるのかもしれない。分からない。——でも」
耳元で、彼の声が震えた。
「お前を失いたくない。それだけは、確かだ」
——七年越しの告白。
私は泣きながら、彼の背中にしがみついた。
この瞬間だけは、過去も未来も忘れて。
ただ、彼のぬくもりを——冷たいはずの、彼のぬくもりを——感じていたかった。
◇
「見つけた」
隆也の声が、耳に刺さった。
翌朝。私が物置小屋から出たところを、彼は待ち構えていた。
「やっぱり誰かを匿ってるんだね」
「違う、これは——」
「嘘はいいよ。もう全部分かってる」
隆也が扉を押し開けた。中に踏み込む。
蒼真はいなかった。毛布だけが残されている。
「……逃げたか」
隆也の目が、冷たく光った。
「誰だ? まさかとは思うけど——」
「何の話ですか」
「とぼけるな」
彼が私の腕を掴んだ。強く。爪が食い込む。
「あの男だろ。七年前に消したはずの」
「……っ」
「お義父さんに報告しないといけないな」
「待って——」
「待たないよ」
隆也が笑った。笑顔のまま、目だけが狂気に染まっている。
「君は最初から俺のものだった。あの男が現れたところで、何も変わらない」
「私はあなたのものなんかじゃ——」
「何だって?」
声のトーンが、がくんと下がった。
「もう一度言ってみろ」
「私は——」
「言えないだろ」
腕を捻られる。痛みに顔を歪めた。
「君には選択肢がないんだ。最初からなかった。あの夜のことを警察に話されたくなければ、大人しく俺の言うことを聞け」
「あの夜のことを話したら、あなたも——」
「俺には証拠がない。でも君はどうだ? 『見殺しにした』という自覚があるだろ?」
息が詰まった。
そうだ。私には「見殺しにした」という自覚がある。それが、この七年間ずっと私を縛り付けてきた鎖だ。
「分かったら、大人しくしてろ。今夜、お義父さんと話をつける」
隆也が去っていく。
私はその場に崩れ落ちた。
——どうすればいい。
蒼真をどこに逃がした。凪さんのところか。でも、そこもすぐにバレる。この町で、父の目が届かない場所なんてない。
「澪」
声がした。振り返ると、茂みの陰から蒼真が現れた。
「全部聞いてた」
「蒼真、逃げて。早く——」
「逃げない」
彼の目が、決意に満ちていた。
「もう逃げるのはやめだ。俺も、お前も」
「でも、父が——」
「分かってる」
蒼真が私の手を取った。冷たい指。でも、しっかりと握りしめてくれている。
「今夜、決着をつける」
「決着……?」
「あの夜の真実を、全部明らかにする。俺が死んだ経緯も、お前が黙っていた理由も、全部」
「そんなこと、できるわけ——」
「できる」
蒼真が、微笑んだ。あの日と同じ、泣いているような笑顔。
「凪さんが、証拠を集めてくれてた。七年間、ずっと」
◇
凪の家に向かった。
彼女は私たちを待っていた。
「来たか。……覚悟はできてるな?」
「はい」
私は頷いた。震える声で、それでもはっきりと。
「もう、逃げません」
「よく言った」
凪がテーブルの上に、古い書類の束を広げた。
「これは、七年前の事故調書の写しだ。警察の知り合いから、こっそり手に入れた」
「事故調書……」
「見ろ。おかしいだろ」
指差されたページを見る。
「目撃者なし。遺体未発見。死亡推定時刻に矛盾あり……」
「ろくに調べもしないで、事故として処理された。桐生の旦那の圧力だ」
「でも、これだけじゃ——」
「それだけじゃない」
凪が別の紙を取り出した。
「あの夜、桐生の旦那が雇った男たちの名前だ。一人はもう亡くなってるが、もう一人はまだ生きてる」
「生きてる……?」
「そいつが、証言してくれる。金で雇われて蒼真を船から突き落としたって」
「なんで今更——」
「病気だ。余命半年もない。死ぬ前に罪を告白したいって連絡があった」
私は言葉を失った。
七年間。凪はずっと、真実を追い続けていたのだ。蒼真のために。彼の父親のために。
「あんたは」
凪が私を見た。
「証人になれるか? あの夜、何を見たか。全部話せるか?」
「……」
「黙ってたら、何も変わらない。蒼真を守りたいなら、お前が声を上げるしかない」
声を上げる。
父に逆らう。隆也と決別する。七年間の沈黙を破る。
「できます」
私は言った。
「いいえ——やります。必ず」
凪が、初めて笑った。
「やっと、そういう顔になったな」
◇
「お前、何を考えている」
父の声が、書斎に響いた。
夜。私は自ら父の前に立っていた。
「話があります」
「何だ。隆也から聞いた話の釈明か?」
「いいえ」
私は顔を上げた。
「七年前の夜のことです」
父の目が、一瞬だけ揺れた。
「何のことだ」
「とぼけないでください」
声が震える。でも、止まらない。
「汐見蒼真。あなたが殺した人のことです」
「——何を馬鹿な」
父が笑った。でも、その笑みには焦りが滲んでいる。
「あれは事故だ。お前も知っているだろう」
「事故じゃありません」
「澪、いい加減にしろ」
「私は見ていました。あの夜、あなたが雇った男たちに蒼真が追い詰められるのを。船から突き落とされるのを」
「証拠でもあるのか」
「あります」
父の顔から、表情が消えた。
「あの夜、実行した男の一人が証言してくれます。それから、不自然な事故調書も。——全部、明らかになります」
「……お前」
父が立ち上がった。顔が、怒りで歪んでいる。
「桐生家に泥を塗る気か」
「泥を塗ったのはあなたです」
「黙れ!」
机を叩く音が響いた。
「お前のために全てをしてやった! あんな漁師の小倅を排除したのも、お前の将来のためだ!」
「私のため?」
私も声を荒げた。初めてだった。
「私のためなんかじゃない! あなたの体面のため、桐生家の名誉のため。——私は、ただの道具だった!」
「道具だと? 恩知らずな——」
「恩?」
笑った。自分でも驚くほど、冷たい笑みだった。
「人殺しを隠蔽することが、恩ですか」
父が、私の頬を打った。
痛みが走る。でも、涙は出なかった。
「もう遅いですよ、お父様」
私は頬を押さえながら言った。
「証拠は全て、信頼できる人に預けてあります。私に何かあれば、すぐに公表される」
「……何だと」
「波多野凪という人です。ご存知でしょう? 七年間、ずっとあなたを調べていた」
父の顔が、蒼白になった。
「明日の朝には、警察と地元紙に全てが届きます。……もう、終わりです」
◇
書斎を出ると、隆也が待っていた。
「全部聞いてたよ」
笑顔。でも、目が死んでいる。
「まさか君が、こんなことをするとはね」
「婚約は破棄します」
「そう簡単にいくと思ってるの?」
「いかなくても構いません。私はもう、あなたの言いなりにはならない」
「……」
隆也の顔が、歪んだ。
「後悔するよ」
「しません」
「あの男を守りたいんだろ? でも無駄だ。俺たちは——」
「もう終わりだって言ったでしょ」
私は彼を遮った。
「あなたも共犯者です。全部明らかになる」
隆也の目に、初めて恐怖が浮かんだ。
「君……」
「さようなら、隆也さん」
私は背を向けた。
後ろで何か叫んでいる声がしたけれど、もう聞こえなかった。
◇
外に出ると、凪が待っていた。
「終わったか」
「終わりました」
「あんた、頬——」
「大丈夫です。これくらい」
凪が、私の肩を叩いた。
「よく言った。……蒼真も見てたぞ」
振り返ると、木陰に蒼真の姿があった。
私は走った。彼の元へ。
「蒼真——」
「馬鹿」
彼の声が震えていた。
「頬、赤いじゃないか」
「平気」
「平気じゃない」
冷たい手が、私の頬に触れた。
「でも——」
蒼真が、笑った。涙を流しながら。
「ありがとう」
「え……」
「やっと、お前の声を聞けた。七年前に聞きたかった、お前の——」
「蒼真」
「俺のために、戦ってくれた。それだけで——」
彼が私を抱きしめた。
冷たい体。でも、温かい心が伝わってくる。
「もう、いいんだ」
「え?」
「赦す。——お前を、赦す」
七年越しの赦し。
私は彼の胸で泣いた。声を上げて、子供のように。
「ごめんなさい、ごめんなさい——」
「もう謝るな」
「でも——」
「代わりに、言ってほしい言葉がある」
蒼真が私の顔を上げさせた。月明かりの中で、彼の青灰色の瞳が優しく光っている。
「何……?」
「七年前、言えなかっただろ」
「……」
「今、言ってくれ」
分かった。彼が何を求めているのか。
私は深呼吸をした。そして——。
「好きです」
声が震えた。でも、はっきりと伝えた。
「七年間、ずっと。あなたのことが、好きだった」
蒼真の目から、涙がこぼれ落ちた。
「俺も」
彼が私の額に唇を寄せた。冷たくて、優しいキス。
「俺も、ずっと——」
◇
「蒼真、様子がおかしい」
凪の言葉が、胸に刺さった。
告発から三日後。父と隆也は警察の取り調べを受け、町中が騒ぎになっていた。桐生家の没落。それは、私にとって解放であり、同時に——。
「どういうこと」
「見れば分かる」
凪に連れられて、浜辺に向かった。
あの入り江。神隠しの入り江。全てが始まった場所。
蒼真が、波打ち際に立っていた。
その姿が——薄い。
「蒼真!」
駆け寄る。彼の腕を掴もうとして——すり抜けた。
「え……」
「触れなくなってきた」
蒼真が、静かに言った。
「多分、俺の役目が終わったんだ」
「役目って——」
「分からない。でも、体がどんどん軽くなってる。海に還ろうとしてる」
「嫌だ」
私は首を振った。
「やっと会えたのに。やっと——」
「澪」
蒼真の声が、優しく響く。
「俺は七年間、この海に縛られてた。お前に会いたくて、真実を知りたくて、赦したくて——」
「だったら、もう全部終わったじゃない! 一緒にいて!」
「——そうだな」
彼が微笑んだ。あの、泣いているような笑顔。
「でも、俺はもう死んでるんだ。分かってるだろ?」
分かっている。分かっているけど——。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ——!」
叫んだ。子供みたいに。
「また、置いていくの? また、私一人を——」
「一人じゃない」
蒼真の手が、私の頬に触れようとした。触れられないのに。
「お前は、もう強くなった。俺がいなくても、大丈夫だ」
「そんなこと——」
「凪さんがいる。お前を助けてくれる人が、ちゃんといる」
「でも、私は——」
「それに」
蒼真が、海を見た。
「俺は、どこにも行かない」
「え……」
「この海に、ずっといる。お前が来れば、会える。——約束する」
涙が溢れた。
「嘘。そんなの、嘘——」
「嘘じゃない」
蒼真の体が、さらに薄くなっていく。朝日が昇り始めている。
「次に困ったら、また流れ着くよ」
「え……」
「お前のところに」
微笑んだ。泣いているような、でも幸せそうな笑顔。
「だから、泣くな。——また会える」
「蒼真——」
「好きだ、澪。七年前も、今も、これからも」
彼の姿が、光に溶けていく。
「ずっと、お前のそばにいる」
——消えた。
後には、朝日に照らされた穏やかな海だけが残された。
私は砂浜に崩れ落ちた。泣いた。声を上げて、枯れるまで。
凪が後ろから抱きしめてくれた。何も言わずに。
◇
どれくらい泣いただろう。
気づくと、太陽が高く昇っていた。
「……凪さん」
「何だ」
「私、これからどうすればいいの」
「さあな」
凪が肩をすくめた。
「でも、蒼真は言ってただろ。お前は強くなったって」
「……」
「あいつの言葉を信じろ。そして——」
凪が、海を見た。
「また、ここに来い。あいつは待ってる」
◇
波打ち際に、何かが光っていた。
拾い上げると——貝殻のかけらだった。
七年前、蒼真がくれたものと、同じ形。同じ輝き。
「……蒼真」
胸のネックレスに入っているものと、並べてみた。
ぴったりと、合わさった。
「約束……守ってね」
呟いた。
返事はない。でも、波の音が優しく響いた。まるで、「分かってる」と言っているように。
私は立ち上がった。
朝日が眩しい。でも、もう目を背けない。
この海で、彼と出会った。この海で、彼を失った。この海で——彼と再会した。
そしてこれからも、この海に通い続ける。
彼を想いながら。彼と共に。
「行ってきます」
波に向かって言った。
「また、来るから」
背を向けて、歩き出す。
足元の砂が、きゅっと鳴った。
◇
——三ヶ月後。
私は凪の船で、漁の手伝いをしていた。
「おい、網が絡んでるぞ!」
「分かってます!」
潮風が頬を叩く。日焼けした肌。ボサボサの髪。あの頃の「桐生家の令嬢」とは、まるで別人。
「あんた、随分逞しくなったな」
凪が笑う。
「そうですか?」
「ああ。蒼真が見たら、驚くぞ」
「……かもしれません」
海を見る。穏やかな青。どこまでも続く水平線。
「蒼真」
心の中で呼びかける。
「見てる? 私、頑張ってるよ」
返事はない。でも、波がきらきらと光った。
まるで、「見てるよ」と言っているように。
私は笑った。
泣きながら、笑った。
これが、私の選んだ道。
彼と共に生きる、私だけの道。
◇
その夜。
私は一人で、あの浜辺にいた。
月が海を照らしている。波の音だけが、静かに響く。
「蒼真」
名前を呼ぶ。
返事はない。
でも——。
「……久しぶり、澪」
振り返ると、彼が立っていた。
薄く透けて見える体。でも、確かにそこにいる。
「約束、守ったんだ」
「当たり前だろ」
蒼真が笑った。泣いているような、でも幸せそうな笑顔。
「俺は、どこにも行かない」
「うん」
「お前のそばに、ずっといる」
「うん」
涙が溢れた。でも今度は、悲しみの涙じゃない。
「ありがとう、蒼真」
「……ああ」
彼の手が伸びてくる。触れられないはずなのに——指先に、微かな冷たさを感じた。
「また会えて、良かった」
「……うん」
「これからも、来いよ」
「毎日来る」
「馬鹿、毎日じゃなくていい。——でも」
蒼真が、微笑んだ。
「待ってる。いつでも」
◇
朝日が昇る。
彼の姿は消えていた。でも、波打ち際に——また、貝殻のかけらが落ちていた。
私はそれを拾い上げ、胸のネックレスに重ねた。
三つ目のかけら。
少しずつ、形が完成していく。
「……また、来るね」
呟いて、背を向ける。
足元の砂が、きゅっと鳴った。
——七年前、私は彼を見殺しにした。
でも今は違う。
私は彼と共に生きている。この海と、この空と、この潮の匂いの中で。
罪は消えない。
でも、愛も消えない。
だから私は——この浜辺に通い続ける。
彼が流れ着く、この場所に。
——fin.




