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潮待ちのレール ― 朝靄の橋 ―  作者: たむ


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第六章 渡しきれない朝

 朝というものは、渡ったあとにこそ曖昧になることがある。

 橋の手前にいるあいだ、人はまだ夜の側にいると分かる。

 橋の中央に立てば、いま移っている最中なのだと分かる。

 だが橋を渡りきったあと、朝の町の中へ数分も歩いてしまうと、かえって自分がいつ夜を手放したのか分からなくなる。

 それは第八作のここまでで、湊がいちばん強く感じ始めていたことだった。

 夜航の灯りを知り、朝靄の橋を見たあとでは、移行は一本の線ではなく、もっと長く身体の中へ残るものに思える。

 橋はきっかけにすぎない。

 本当に難しいのは、その先で“もう朝の人として動いている自分”と、“まだ夜の位置を覚えている自分”の両方をどう持つか、なのだろう。

 その日の朝、湊は一人で橋を渡った。

 今度は汐里も篠原もいない。

 宿を出たのは、始発の気配が町へ入り切る少し前。

 朝靄は昨日より薄いが、欄干や路面にはまだ湿りが残っている。

 橋のこちら側には、宿の静かな音と、港の低い気配。

 向こう側には、市場の支度と、駅の裏道へ急ぐ足音。

 境目は今日もたしかにある。

 けれど二日目に立つと、昨日とは違うことが分かる。

 橋は、毎日まったく同じ境目ではないのだ。

 人の持っている夜の量によって、渡り方も少しずつ変わる。

 昨夜の港を深く引きずっていれば橋は長く感じるし、もう生活のほうが先に身体へ入っていれば、ただの数歩で終わる。

 その可変の長さこそが、この橋の本当の意味なのかもしれなかった。

 橋の中央で、湊は立ち止まった。

 水路の水は浅く、空を細く映している。

 夜の海のような深い黒ではない。

 朝の光をまだ決めきれない、薄い銀色だった。

 その色を見ていると、不意に父のことが浮かんだ。

 父もまた、このくらいの曖昧な朝を何度か持ったのではないだろうか。

 夜の港をあとにし、宿か別の部屋で眠りきれないまま、橋を渡る。

 市場へ行くのか、駅へ上がるのか、それともただ朝の町へ紛れたいのか、自分でもはっきりしないまま。

 そういう足取りの人として父を思えることが、湊にはまだ少し不思議だった。

 第一作の頃には、父はもっと遠い影だった。

 今は、橋の中央で一秒だけ立ち止まる人として想像できる。

 橋を渡り終えた先で、昨日の井戸跡の前に年配の女がいた。

 乾物屋とは別の、野菜を扱っているらしい女で、手に濡れた布を持っている。

 湊に気づくと、軽く会釈した。

「橋、見てるんかい」

「ええ」

 湊が答えると、女はそれ以上不思議がらなかった。

「朝の橋はね」

 彼女が言う。

「渡ったあとが長いんよ」

「渡ったあと」

「そう。みんな橋の上ばかり見るけど」

「……」

「本当は、渡ってから何歩かのほうが、その人の朝が出る」

 その言葉に、湊は思わず頷いた。

 まさに今考えていたことだった。

 橋そのものではなく、そのあと何歩か。

 そこに“渡りきれたかどうか”が出る。

 春口の人たちは、そういう細かいところで他人の時間を見ているのだろう。

「どんなふうに」

 湊が訊く。

 女は少し笑った。

「まっすぐ品物を見る人は、もう朝やね」

「ええ」

「橋を渡ったあとも、一度だけ空を見たり、水路を見たりする人は」

「……」

「まだ何か持っとる」

「それは」

「悪いことじゃないよ」

 女は布を絞りながら言った。

「むしろ、そのくらいの人のほうが、あとでちゃんと働く」

「どうして」

「一回ちゃんと引きずって来た人のほうが、昼には落ち着くから」

 その言い方は、春口らしい実感だった。

 すぐ切り替わることがいいわけではない。

 一度ちゃんと引きずって来る。

 夜の位置を、朝の橋の向こうまで持って来る。

 そのうえで昼へ入る。

 そういう人のほうが、かえって生活の中で落ち着く。

 この町は、そういうふうに人を見てきたのかもしれない。

 宿へ戻ってその話を汐里にすると、彼女は深く納得したように頷いた。

「分かる気がします」

「どういう意味で」

「母も、たぶんそういう人だったから」

「……」

「夜のことをなかったことにして朝の宿をやっていたんじゃない」

「ええ」

「ちゃんと少し引きずって、でも台所へ立って、帳場を開けていた」

「そうですね」

「だから宿の朝が、あんなに落ち着いていたのかもしれません」

 その整理の仕方は、とても自然だった。

 澄江の朝の落ち着きは、感情のなさではない。

 夜を持ち込んだうえで、それでも朝の仕事を始めることに慣れた人の落ち着きなのだろう。

 第八作は、澄江のその“朝の技術”のようなものまで照らし始めているのかもしれなかった。

 昼前、湊は帳場の近くで汐里が客と話すのを見ていた。

 今日は島へ渡る前の夫婦が一組、昼前に出るらしい。

 汐里はいつも通りに送り出し、戸を閉めたあとで、ほんの一瞬だけ玄関の向こうを見た。

 それから何事もなかったように帳面へ戻る。

 その“一瞬だけ向こうを見る”仕草が、橋の中央で立ち止まる人たちとどこか似て見えた。

 汐里もまた、母のやり方を真似るだけではなく、自分の朝の渡り方を身体で覚え始めているのだろう。

「見てました?」

 彼女が顔を上げて言った。

「少し」

「何か変でしたか」

「いえ」

 湊は答えた。

「むしろ自然でした」

「どういう」

「お客さんを送り出したあと、一瞬だけ向こうを見たでしょう」

「……」

「橋の人みたいでした」

 汐里は少し照れたように笑った。

「そうかもしれません」

「自分では分かっていたんですか」

「全部じゃないですけど」

「ええ」

「宿って、見送って終わりじゃなくて、そのあと一瞬だけ“まだ向こうにある感じ”が残るんです」

「そうですね」

「でも、その一瞬がないと、ちゃんと帳場に戻れない」

「……」

「母も、たぶんそうだったんでしょうね」

 その会話をしながら、湊は第八作が“橋の外側にある橋”まで描いているのだと思った。

 玄関。

 帳場。

 市場の裏口。

 井戸跡。

 人は橋そのものだけで渡るのではない。

 その前後にある小さな所作や視線の置き方を使って、何度も少しずつ渡っている。

 朝靄の橋とは、具体の橋であると同時に、そうした町中の移行の総称なのかもしれなかった。

 午後、篠原がもう一枚の資料を持ってきた。

 町内会の聞き書きで、かなり古いものらしい。

 そこには、宿に勤めていた女中の回想が断片的に書かれていた。

 ――おかみさんは朝、市場へ行く前に橋を渡るときだけ黙る。

 ――帰りはもう黙らない。

 ――行きの橋はまだ少し夜で、帰りの橋はもう昼だからだと思う。

 ――その違いは、宿の者には何となく分かった。

 汐里が、その文を何度か読み返した。

「行きの橋はまだ少し夜で、帰りの橋はもう昼」

「見事ですね」

 湊が言う。

「ええ」

 篠原も頷いた。

「朝の橋の本質が、これ以上なく簡潔に出ている」

「母」

 汐里が小さく言った。

「行きの橋では黙っていたんですね」

「宿から市場へ行くとき」

「はい」

「まだ夜を少し持っていた」

「そうなんでしょうね」

「でも帰りには」

「もう昼の荷を持って戻ってくる」

「……」

「それって、すごく生活の中の変化ですね」

「そうです」

 湊は静かに答えた。

「第八作は、そこに来たんだと思います」

 父の朝もまた、そうだったのかもしれないと、湊は思った。

 行きの橋では、まだ夜を持っている。

 帰りの橋では、少しだけ昼の顔をしている。

 完全な回復ではない。

 ただ、手に持つものが変わる。

 目が向く場所が少し変わる。

 その小さな変化こそが、人が生活へ戻るということなのだろう。

 その日の夕方、湊はもう一度だけ橋へ行った。

 今度は人も少なく、朝靄もなく、水路の水だけが淡く光っている。

 橋の中央に立つと、朝に聞いた足音や、昼に読んだ文や、女中の回想が静かに重なってきた。

 行きの橋。

 帰りの橋。

 渡りきれない朝。

 背中に残る夜。

 全部がこの短いコンクリートの上に何年も積もってきたのだろう。

 春口の深さは、本当にこういう何でもない場所に宿るのだと、改めて思った。

 宿へ戻ると、汐里が帳場の前で灯りの支度をしていた。

 夕方から夜への橋でもある時間だ。

 湊はその横顔を見ながら、もう彼女は母の時間を受け継ぐだけでなく、自分自身の橋を毎日渡り始めているのだろうと思った。

 夜と朝。

 宿と町。

 客と自分。

 そのあいだを、小さな所作でつなぎながら。

 ノートには、その夜こう書かれた。

 ――朝は、橋を渡ったあとにこそ曖昧になる。

 ――行きの橋はまだ少し夜で、帰りの橋はもう昼。

 ――人はその短い橋の上で一度に切り替わるのではなく、前後の数歩や、視線や、黙る時間の中で少しずつ朝になっていく。

 ――父も母も、そういう朝を生きた人だったのだろう。

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