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『全米「知らんがな」』

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/03/21

朝のリビング。

テレビでは朝の情報番組。妻はトーストをかじりながらぼんやり見ている。

そのとき――

夫が、ピタリと動きを止めた。

「……来た」

「なにがよ」

「……波だ」

「サーフィンでも始めたの?」

夫はゆっくりと振り返る。その顔は、どこか決意に満ちていた。

「これは……ただの波じゃない」

「どうせ腸の話でしょ」

「……ああ」

あっさり認める夫。

「だが今回は違う。規模が違う。これは――」

一拍置く。

「全米が泣くレベルの超大作だ」

「朝から何言ってんの」

夫は壁に手をつき、静かにうつむく。

「予告編の時点で、もう来てる……」

「おならでしょ…予告編とかいらんのよ」

「前作とは明らかに違う……ストーリー性がある」

「出るもん出すだけでしょ」

夫はゆっくりとトイレの方向を見つめる。

「ここから先は……俺一人の戦いになる」

「いつもそうでしょ。ついて来いと言われても困るわよ」

「いや……今回は、長編だ。二時間じゃ終わらない」

「トイレを占拠するな」

夫は歩き出す。だが数歩進んで立ち止まる。

「……なあ」

「なによ」

「もし俺が……戻ってこなかったら…」

「戻ってこ〜い。会社あるでしょ。今日」

「机の引き出しの奥に……へそくりがある」

「知ってるし、もう使ったよ。」

「えっ」

一瞬で現実に引き戻される夫。

「いや今それ言うタイミングじゃないだろ!!」

「遺言みたいに言うからよ」

夫は咳払いをして立て直す。

「……とにかく、行ってくる」

「はいはい」

夫はトイレのドアノブに手をかける。

その瞬間――

「待て!」

自分で自分を制止する。

「どうしたの」

「装備が足りない」

「装備?」

夫は真剣な顔で棚を指差す。

「予備のトイレットペーパーを……」

「すぐそこにあるわ」

「よし……これで勝てる」

「勝ち負けじゃないのよ」

ゆっくりとドアを開ける夫。

「……エンドロールは、長くなるぞ」

「だから紙の話でしょ」

バタン――

重々しくドアが閉まる。

――数分後。

トイレの中から、断続的な音とともに声が響く。

「くっ……序盤からクライマックスか……!」

「うるさい」

「いや……まだだ……ここから第二幕が……!」

「近所に聞こえるからやめて」

「まさかの展開だ……伏線が回収されていく……!」

「伏線とかないから」

一旦静かになる。

妻はコーヒーをすすりながら新聞をめくる。

――だが次の瞬間。

「……来るぞ」

「実況やめろ」

「第三波……!」

「津波みたいに言うな」

「これが……本当のクライマックス……!」

「毎回クライマックス言ってるじゃん」

――さらに数分後。

ガチャ。

ゆっくりとドアが開く。

夫が、どこかやりきった顔で出てくる。

髪は少し乱れ、目は遠くを見ている。

「……終わったの?」

妻が聞く。

夫は静かに首を振る。

「いや……これはまだ、“序章”に過ぎないかもしれない」

「続編作るな」

夫はゆっくりソファに座る。

「……全米は?」

妻が聞く。

夫は遠い目のまま答える。

「……泣いたよ」

「そりゃあんたも泣きそうな顔してるわ」

「レビューは賛否両論だろうな……」

「誰もレビューしないから」

「だが……確実に、記憶に残る作品だ」

「いいから手洗ってきなさい」

夫は立ち上がり、ふらつきながら洗面所へ向かう。

その背中に向かって妻が一言。

「あとトイレットペーパー補充しといて」

夫は振り返らずに答える。

「……それは、次回作の課題だ」

「今やれっ!」

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