『全米「知らんがな」』
朝のリビング。
テレビでは朝の情報番組。妻はトーストをかじりながらぼんやり見ている。
そのとき――
夫が、ピタリと動きを止めた。
「……来た」
「なにがよ」
「……波だ」
「サーフィンでも始めたの?」
夫はゆっくりと振り返る。その顔は、どこか決意に満ちていた。
「これは……ただの波じゃない」
「どうせ腸の話でしょ」
「……ああ」
あっさり認める夫。
「だが今回は違う。規模が違う。これは――」
一拍置く。
「全米が泣くレベルの超大作だ」
「朝から何言ってんの」
夫は壁に手をつき、静かにうつむく。
「予告編の時点で、もう来てる……」
「おならでしょ…予告編とかいらんのよ」
「前作とは明らかに違う……ストーリー性がある」
「出るもん出すだけでしょ」
夫はゆっくりとトイレの方向を見つめる。
「ここから先は……俺一人の戦いになる」
「いつもそうでしょ。ついて来いと言われても困るわよ」
「いや……今回は、長編だ。二時間じゃ終わらない」
「トイレを占拠するな」
夫は歩き出す。だが数歩進んで立ち止まる。
「……なあ」
「なによ」
「もし俺が……戻ってこなかったら…」
「戻ってこ〜い。会社あるでしょ。今日」
「机の引き出しの奥に……へそくりがある」
「知ってるし、もう使ったよ。」
「えっ」
一瞬で現実に引き戻される夫。
「いや今それ言うタイミングじゃないだろ!!」
「遺言みたいに言うからよ」
夫は咳払いをして立て直す。
「……とにかく、行ってくる」
「はいはい」
夫はトイレのドアノブに手をかける。
その瞬間――
「待て!」
自分で自分を制止する。
「どうしたの」
「装備が足りない」
「装備?」
夫は真剣な顔で棚を指差す。
「予備のトイレットペーパーを……」
「すぐそこにあるわ」
「よし……これで勝てる」
「勝ち負けじゃないのよ」
ゆっくりとドアを開ける夫。
「……エンドロールは、長くなるぞ」
「だから紙の話でしょ」
バタン――
重々しくドアが閉まる。
――数分後。
トイレの中から、断続的な音とともに声が響く。
「くっ……序盤からクライマックスか……!」
「うるさい」
「いや……まだだ……ここから第二幕が……!」
「近所に聞こえるからやめて」
「まさかの展開だ……伏線が回収されていく……!」
「伏線とかないから」
一旦静かになる。
妻はコーヒーをすすりながら新聞をめくる。
――だが次の瞬間。
「……来るぞ」
「実況やめろ」
「第三波……!」
「津波みたいに言うな」
「これが……本当のクライマックス……!」
「毎回クライマックス言ってるじゃん」
――さらに数分後。
ガチャ。
ゆっくりとドアが開く。
夫が、どこかやりきった顔で出てくる。
髪は少し乱れ、目は遠くを見ている。
「……終わったの?」
妻が聞く。
夫は静かに首を振る。
「いや……これはまだ、“序章”に過ぎないかもしれない」
「続編作るな」
夫はゆっくりソファに座る。
「……全米は?」
妻が聞く。
夫は遠い目のまま答える。
「……泣いたよ」
「そりゃあんたも泣きそうな顔してるわ」
「レビューは賛否両論だろうな……」
「誰もレビューしないから」
「だが……確実に、記憶に残る作品だ」
「いいから手洗ってきなさい」
夫は立ち上がり、ふらつきながら洗面所へ向かう。
その背中に向かって妻が一言。
「あとトイレットペーパー補充しといて」
夫は振り返らずに答える。
「……それは、次回作の課題だ」
「今やれっ!」




