ボロボロの家
あるところに、ボロボロの家があった。
屋根ははがれかけ、壁は中も外も落書きだらけ、床は腐ってあちこちに穴があいていた。
本当にひどいありさまの家だった。
その家には一人の赤ん坊と一匹のネコがいた。
なぜ赤ん坊がそんなところにいたのか、それは分からない。だが、生まれて一か月くらいのその赤ん坊は、なぜか自分で立つことができた。歩くこともできた。その赤ん坊は、自分の頭で、いろいろなことを考えることができた。
ネコはヒトの言葉を話すことができた。
「ネコってのはね。あたしくらい長生きすると、たいていのことはできるようになるもんなんだよ」
赤ん坊に向かって、ネコは言った。
ボロボロの家は、ボロボロだったが、ちゃんと水が出る水道があった。ガス台があって、お湯をわかすことだってできた。
どこからか粉ミルクとほ乳びんをネコがくわえてきて、赤ん坊は自分でミルクを作って飲んだ。ほ乳びんを水に当てて、熱すぎるミルクを冷ますことも忘れずに。
ネコは、『初めての赤ちゃんの育て方』という本も、どこからか見つけてきた。
一人と一匹は、頭を並べて、熱心にその本を読んだ。
「はやく歯が生えないかな」
赤ん坊は小さくつぶやいた。それが赤ん坊の初めての言葉だった。
ボロボロの家には、いろいろな本があった。絵本もあったし、厚い難しそうな本もあった。赤ん坊は家にある本は全部、何度もくりかえし読んだ。
「ぼくは自分の名前を決めないと」
ある日、ふと、赤ん坊はネコに言った。
「ユータがいいと思うんだ。これからはぼくのこと、ユータと呼んで」
こうして赤ん坊はユータになった。
ユータが自分の名前の次に考えたことは、この家を何とかしたい、ということだった。
「床を直したいな。屋根も、壁も」
要するに、全部だった。ネコは少し考えた。
「材料がいるわね。板とか、壁紙とか」
一人と一匹は、とりあえず家の中を探してみることにした。押入れを開けると、中に段ボール箱がいくつか入っていた。
段ボールを開けると、いろいろと出てきた。ラジオとか、インスタントコーヒーとか。その中には、封筒に入ったお札の束もあった。
ユータはいっしょけんめいにその紙のお金を数えた。暗くなるころ、ようやく数え終わった。ちょうど千枚あった。
「ぼく、はじめて千まで数えたよ」
ユータは疲れた声で、でも満足そうにつぶやいた。
次の日、そのお金を持って、ネコは町へ出かけた。ユータは留守番だった。
家を出て少しすると、ネコは周りに誰もいないことを確かめて、すっと立ち上がった。
すると、まず頭にぞわっと黒い長い髪が生えた。背が伸びて三角の耳が消え、しっぽが消え、あっという間にネコの姿は女の人に変わっていた。
ふしぎな感じの女の人だった。うす茶色のそっけない服を着て、少し猫背で、少し下を向いたその顔は若いのか年をとっているのかまるで分からなかった。
その人は、町で板や壁紙やそのほかいろいろなものを買った。家に帰る前にまたネコの姿にもどり、何食わぬ顔で「ただいま。ああ重かった」と言うと、大きな荷物をくわえて玄関に引きずり込んだ。
その日から毎日、ユータは家の修理をした。床の穴をふさぎ、壁紙の破れているところや落書きされているところをきれいに張り替えた。がたついた扉のちょうつがいのネジを締め直し、切れた電球を交換した。
はがれかけている屋根を直すのは、ネコの仕事だった。ユータは高い所が怖かったのだ。
家は少しずつ住みやすくなってきた。でも、ユータは赤ん坊だから、なかなか思うように仕事は進まない。
修理中の家の中には、ラジオが流れていた。ニュースとか天気予報とか。今はやっている歌とか、昔はやっていた歌とか。
家の修理には、本当に時間がかかった。その間にユータの背は伸び、髪も伸びた。ネコは器用にハサミを使い、伸びた髪をきれいに切りそろえた。
食べ物も、いろいろ食べられるようになった。ご飯やパン、野菜や果物、肉や魚も少しだけ。それでも、ユータはミルクを飲むのをやめなかった。いつもご飯を食べる大きな切り株の上には、必ずほ乳びんが置いてあった。
三年の月日が流れた。ユータももう赤ん坊ではない。三才のかわいい男の子になっていた。ついにユータはこうつぶやいた。
「この家はもう、直すところはないみたい」
家はとても快適になっていた。もう雨もりもしない。すきま風も入ってこない。
ずっと食卓がわりになっていた切り株は部屋のすみに移動されて、代わりに小さな丸いテーブルが電球の真下に置かれた。
となりの部屋には白いシーツで整えられた小さな木のベッド。ネコのための籐のかご。
「ぼくの家は、もうボロボロじゃない。とってもすてきな家だ」
ユータはうなずくと、家の修理が終わった記念にごちそうを作ろうと台所に入った。そしてあることに気付いた。
「もう粉ミルクがない。買ってこないと」
「もういらないでしょ、そんなもの」
ネコはあきれたように言った。
「いるよ。粉ミルクはとても栄養があるんだ。ほらこれに書いてある」
ユータは『初めての赤ちゃんの育て方』をネコに見せようとした。ネコは少しいらいらしたように背中の毛を逆立てた。
「それは赤ちゃんのための本でしょ。あなたはもう赤ちゃんじゃないでしょ」
「そうなの?」
部屋の壁には大きな鏡が掛けられていた。ユータはその前に立ち、自分の姿をしげしげと眺めた。
「……ぼく、何だかとても年をとったような気がするよ」
ユータはぼんやりとつぶやいた。
ユータはその日、自分とネコのためにとうもろこしがたくさん入ったシチューを作った。食事のあとには、初めてコーヒーを入れて飲んでみた。大人の味だ、と思ったけれど、やっぱり苦くて少ししか飲めなかった。
おやすみ、と言ってベッドに入ろうとしたとき、ふいにネコが聞いた。
「ねぇ、これからどうするつもり?」
「どうって?」
ユータは聞き返した。
「だから、家の修理が終わったでしょ。これから先はいったい何をするつもりなの?」
ネコにたずねられても、ユータはぼんやりして目をぱちぱちするばかりだった。
「別に何もしないよ」
「え?何も?」
「うん。家ができたら、ぼく何もすることないもの。もうずうーっと、何もしない」
口に出してそう言うと、何だかそれがとても当たり前のような気がした。ユータはなんとなくホッとして、自分自身に向かって大きくうなずくと、ふとんにもぐりこんでそのまますぅすぅと眠ってしまった。
ネコは、ずっとその寝顔を見ていた。夜が深まる中、ずっとずっと、ユータの安らかに眠る横顔を見つめ続けていた。
次の日の朝。
家は、またボロボロになっていた。
前と同じに、屋根ははがれかけ、壁は中も外も落書きだらけ、床は腐ってあちこちに穴があいていた。
ユータがいれば、きっと「どうしてこんなことになってしまったのか」と思うことだろう。
しかし、ユータはここにはいなかった。いや、もはやユータはいなかった。
ボロボロの家の穴だらけの床には、小さなおくるみが置かれていて、そこには小さな赤ん坊がくるまれていた。赤ん坊は泣いていた。小さな頭で何かを考えて泣いているのではなく、ただおなかがすいたことを訴えて泣いているのだ。それは本能の涙だった。
いっしょけんめい泣いているのだが、疲れているのか、その声はあまり大きくない。ときどき途切れそうになり、そのたびにまた、がんばって声を張り上げる。
おぎゃあ、おぎゃあ……おぎゃあ、おぎゃあ。
そこへ、若い夫婦が通りかかった。若いけれど、どことなく生気のない二人だった。家の玄関の前に来た時、ふと、女の方が足を止めた。
「赤ちゃんの声がするわ」
女は迷わずにすたすたとボロボロの家の中へ入ってきた。男は、あわてたようにもたもたと女の後について家へ入った。
「空き家みたいだなぁ。ずいぶんボロボロの家だなぁ」
「わぁ見て。本当に赤ちゃんがいる」
「本当だ。本当に本物の赤ちゃんだ」
女は赤ん坊を抱きあげてうれしそうにほほえんだ。男はふしぎな生き物を見る目で赤ん坊をのぞきこんだ。赤ん坊は女の腕のなかで、やっとホッとしたように泣き止んだ。
「泣き止んだわ。かわいいわねぇ」
「そうだなぁ、なかなかかわいい顔をしてるなぁ」
「ねぇ、この赤ちゃん、連れていきましょうよ」
「そうだなぁ、とりあえず、このままにしておくわけにはいかないなぁ」
夫婦はうなずき合うと、赤ん坊を抱いたまま家を出た。どことなく、さっきよりも二人とも表情がいきいきとしていた。赤ん坊は女の腕のなかでおとなしくしていた。よほど安心したのか、早くも眠りそうな顔をしていた。
「気のせいかな。なんだかこの赤ちゃん、コーヒーのにおいがする」
女は家を出るとき、赤ん坊のにおいをかいで、ふしぎそうにつぶやいた。
あとには、ボロボロの家とネコが残された。
ネコは赤ん坊がいなくなった部屋をぐるりと見回した。部屋のすみにはおおきな切り株が置いてあり、その上にコーヒーカップが乗っていた。カップには、冷たくなったコーヒーが半分くらい残っていた。
ネコは切り株に歩み寄ると、そのカップに頭を突っ込んで、残っていたコーヒーをぐびぐび音を立てて飲んだ。
そしてしわがれた声で「にゃあ」と一声鳴くと、ガラスのはまっていない窓からするりと外へ飛び出した。
あとには、ボロボロの家だけが残された。
end




