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91 香りの調合 ーChapter ミレーユ

 午後の眩しい光を薄いカーテンが遮り、調合室の開いた窓からは、ゆるい風が吹き込んでいた。


 ミレーユは作業台の前に座り、小さな瓶を手に取った。

 琥珀色の液体が、光を受けてゆらゆらと揺れる。ラベンダーの精油だ。隣には、ベイリーフ、アンバー、ローズマリー、イランイラン、ベルガモットなど、精油のラベルが貼られている色とりどりの瓶が、整然と並べられている。


 香水の調合は、ミレーユの趣味のひとつだった。


 宮廷・妃教育時代に学んだ薬学。その知識は、今ではこうして香りを作ることにも使われている。平和な使い方だと、自分でも思う。


 スポイトでラベンダーを数滴、調合用の瓶に落とす。続いてベルガモット。そしてほんの少しだけ、イランイラン。甘すぎず、爽やかすぎず。上品で、それでいて通り過ぎると仄かに残る香り。そういうものを作りたかった。


 お気に入りの子守歌を、小さな声で口遊(くちずさ)みながら手を動かしていると、それに呼応するように扉が叩かれた。


「奥様、お茶をお持ちいたしました」


 侍女がゆっくりと扉を開ける。ミレーユは手を止めずに答えた。


「ありがとう。そこに置いててもらえるかしら」


 侍女が盆を脇の小卓に置きつつ、言葉を落とす。


「奥様、良い香りでございますね」


「そう? そうなら、嬉しいわ」


 ミレーユは微笑んだ。作業台に向かったまま、振り返らずに。


「ちょうど新しい香水の調合をしていたのよ。完成したら、あなたたちにも分けてあげるわね」


「いつもありがとうございます! 奥様のお作りになる香水、本当に素敵ですもの」


「ふふ、お世辞が上手ね」


「お世辞なんかではございません。それでは奥様、失礼いたします」


 侍女は声を弾ませながらそう言うと、ミレーユの背中に一礼し部屋を後にする。

 扉が閉まる音を聞いてから、ミレーユは手を止めた。


 精油瓶の隣に、もうひとつ別の瓶がある。こちらはラベルが貼られていない。


 ミレーユはその瓶を手に取った。


 香水の甘い香りが、部屋に漂っている。その香りの下に、もうひとつ別の匂いがあることに、気づく者はいない。瓶に鼻を近づけて嗅ぐと、ピリリと刺激されるような微かな匂い。それは、花の香りに紛れて感知されない。


 そういう風に、調合してある。


 瓶を光にかざした。美しいほどに、澄んでいる。


 学んだ知識は本来、人を癒すためのものだった。薬を作り、病を治したり、苦しみを和らげたり、そういう目的のために。


 でも、薬学の知識は、別の使い方もできる。


 癒すことができるなら、傷つけることもできる。それは表裏一体だ。光があれば影がある。当然のことだ。


 ミレーユが口遊む子守歌は、彼女の最も好きなフレーズを繰り返していた。

 


 翌日、ミレーユは王都貴族婦人慈善会の会合に出席した。


 会場は大聖堂に隣接する小集会場。建国祭を前に、チャリティバザーのマルシェを開く準備が本格化している。

 毎年行われる大規模なチャリティバザーマルシェは、建国祭より一足早く、大聖堂で行われる。それは、貴族婦人たちにとって重要な、年間行事のひとつであった。

 

 その日も婦人たちが、華美になりすぎない服装で、次々と集まり席に着いていた。


 この会合では、神の御許では誰もが愛し子と言う教えから、座席の順列は決められていない。

 ミレーユは集会場の扉近く、末席に座った。公爵夫人という立場ではあるのだが、ここでは古参の婦人方を差し置いて、前に出るのは得策ではないと心得ていた。


「グレイストン公爵夫人、お久しぶりですわね」


 隣に座ったのは、ヴァレンシア侯爵夫人だった。五十がらみの、ふくよかな女性。社交界では顔が広く、この慈善会でも中心的な役割を担っている。


「ご無沙汰しております、侯爵夫人」


「お子様はいかが? そろそろ首が座った頃かしら?」


「ええ、おかげさまで。最近はよく笑ってくれるようになりましたの」


「まあ、それは可愛いわね。日に日に成長が楽しくなる時期ね」


 他愛のない会話。社交界ではこういうやり取りが延々と続く。ミレーユは笑顔を絶やさず、適切な相槌を打ちながら、相手に合わせた話題を振る。


 小さなベルの音がする。


 会合が始まる合図だ。議題はバザーの詳細について。どの家がどのような品を提供するか、当日の配置はどうするか、売上金の寄付先はどこにするかなど多岐にわたる。


 ミレーユは静かに耳を傾けていた。時折メモを取り、意見を求められれば控えめに答える。


 やがて、参加者の名簿が回ってきた。


「今回ご参加いただける方々のお名前です。ご確認いただけますか」


 ヴァレンシア侯爵夫人から手渡された冊子を、ミレーユは受け取った。


 そこに目を通していく。公爵家、侯爵家、伯爵家と見慣れた名前が並んでいる。社交界で何度も顔を合わせてきた婦人たち。


 そして。


 エルグレン伯爵夫人。


 その名前が、目に飛び込んできた。


 ミレーユの指先が、一瞬、止まった。


 セレイナ・エルグレン。

 彼女の母親も、バザー参加者の中に名を連ねていた。


「どうかなさいました?」


 侯爵夫人の声に、ミレーユは顔を上げた。


「いいえ、何でもありませんわ。名立たる方々ですこと」


「ええ、今年は例年以上に多くの方にご参加いただけそうで」


 名簿を次の人に回しながら、ミレーユは侯爵夫人との会話を、笑顔で続けていた。

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