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87 愛の安寧 ーChapter ミレーユ

 グレイストン公爵邸の膳の間で。

 その日の朝食の折に、ヴァルターが対面に座るミレーユへ切り出した。


「明日から公爵領へ戻ることになった。和平条約の刷新で、エリオス殿下と同行する」


 ミレーユはカップを置いた。ヴァルターの皿を見る。いつもなら綺麗に平らげるのに、今朝は半分以上残っている。


「まあ、急ね。準備など、お手伝いできることはある?」


「いや、大丈夫だ。従者に任せてある」


 ヴァルターはナプキンで口元を拭いながら続けた。


「それよりも、君も俺が留守の間、あまり無理しすぎないように。もし時間があるのであれば、アレクセイを連れて、侯爵家の方へ戻っていても構わない」


 優しい、気遣いのある、夫らしい言葉。


 でもミレーユは、その言葉の端々に引っかかりを覚えた。


 公爵領へ戻るならば「一緒に行こう」と、今までならそう言っていただろう。領地の視察を兼ねて、家族で過ごす時間を作ろうと。孫を両親に見せたいと言っていただろうと思う。

 馬車で一日か二日。そこまで遠い距離ではない。以前のヴァルターなら、間違いなくそう言った。


 なのに、私とアレクセイは連れて行かない。


 しかも、この公爵邸に残れとも言わない。実家へ戻れと言う。同じ王都の中なのに、わざわざ。


 やっぱり、おかしい。


(本当に和平条約の刷新なのかしら)


 そう思うが、エリオス殿下の名前を出すということは、嘘ではないと判断できる。流石に虚偽のために、王族の名を使うなどと言う愚行はしない。たとえ家庭内であってもだ。

 国境沿いの領地を治める公爵家と、外交に長けたエリオス殿下。和平条約の刷新に二人が同行するのは、何もおかしなことではない。


 では、何がおかしいのだろうか。


「期間はどのくらいになりそう? お戻りはいつ頃?」


「まだわからない。少し長引くかもしれん」


「そうなの? 込み入った条約かしら?」


「ああ、鉱山の分配権と、境界の再確認、その上での安全面での擦り合わせと、細かなことが山積みになってる。実際現地に行って、目で見てやるのが早いんだ。ほぼ数字との睨み合いだけどもな」


 ヴァルターは苦笑を浮かべながら、空になった茶のカップを横へずらす。

 

 ミレーユはそんな夫の顔をじっと見た。ヴァルターは視線を合わせようとしない。テーブルの端に置かれてある、まだインクの匂いが残った朝刊の、何の変哲もない市況記事の見出しに視線を落としつつ、給仕が継ぎ足した茶を口にしていた。


「ではその間、体調にはくれぐれも気をつけてね。最近、あまり眠れていないでしょう?」


 ヴァルターの目線が、ふとミレーユの方へ向く。その目には、少しばかりの動揺が入り混じっていた。


「……ああ。少し、考えることがあってな」


「私に話せること?」


 ヴァルターはカップを置き、薄く笑う。その口元が僅かばかりひきつって見えるのは、気のせいだろうか。


「先ほども話した、和平条約のことだよ。また紛争にならなければいいが……そう思うと、胃が痛む思いだ」


「あなたはのめり込むと、ひとつの物事を深く考えすぎるわ。息抜きもなさらないと。私にできることがあれば、いつでも言ってね? お役に立ちたいもの」


「もちろん、わかっているよミレーユ」


 はぐらかされた。眠れない理由は他にある、咄嗟にそう思った。だが、ミレーユはそれ以上追わなかった。追ったところで、夫は何も言わないだろう。


「帰還するころには、また知らせを送るよ」


「わかったわ」


 ミレーユは微笑んだ。気品を持つ、優雅で完璧な公爵夫人として。


「アレクセイのことは任せて。留守の間も、公爵邸のことはご心配なさらないでね」


「ああ。手間を掛けてしまうが。よろしく頼むよ……すまないね」


 何に対しての謝罪なのだろう。

 


 朝食を終え、ヴァルターが横に置いてあった新聞を手に取り、席を立つ。その背中を見送った後、ミレーユの表情から笑みが消えた。


 食堂に、ミレーユ一人が残される。給仕たちが音もなく皿を下げていく。ミレーユはそれを眺めながら、冷めた紅茶を口に運んだ。


 眠れないほどの、考えごと。そして、ミレーユには話せないこと。


 そう考えれば考えるほど、ミレーユの脳裏には、銀髪の娼婦のことが浮かんでくる。


 ヴァルターが通い詰めていた女。あの女の幻影を抱いていた夫。


 夫を責めたところで何も変わらない。それどころか、傷を広げるだけだ。

 人は背徳であればあるほど、惹かれるものなのだ。

 そして、ミレーユ自身も皮肉なことに、そういった感情をよく知っていた。


 セラフィムと婚約していた頃。ヴァルターの妻になることなど、夢想に思えた。

 

 そう言った、表にはできない、己の内に秘めた感情。それはある意味、触れてはいけないものなのだ。


 だからこそ、ヴァルターに惹かれたものもあったのではないだろうか。

 だからこそ、刺激してはならない。ミレーユは笑顔のまま、何も知らない妻を演じ続けている。


 だが。


 忘れたわけではない。許したわけでもない。

 どれだけ愛しても。どれだけ尽くしても。子を産んでも。

 ヴァルターの心には、まだあの女がいる。


 セレイナ。


 エリオス殿下と公爵領へ行く。ヴァルターはそう言った。


 クチュール店で、婦人たちが噂していた。エリオス殿下と銀髪の女が歩いていたと。

 女は間違いなく、セレイナだろう。


 ならば。エリオス殿下が公爵領に居る間、彼女は一体どこへいるのだろうか。


 普通に考えれば、実家だ。エルグレン伯爵邸。

 離縁した側妃が、宮殿にいるわけもない。王家所有のどこかへいるはずもない。


 エリオス殿下はいない。ヴァルターもいない。


 ミレーユはカップを置いた。


 娼婦はそのうち消える。あの毒を飲み続ければ、時間の問題だ。枯れて、萎んで、やがて誰の目にも留まらなくなる。


 でも、それだけでは足りない。


 本物がいる限り、ヴァルターはあの女を追い続けるだろう。そして、あの女の幻影が、いつまでも夫の心に棲みついている。


(セレイナを消さなければ、私の愛は完成しない)


 そう考えていたその時、座席の後ろからそっと、給仕が腰をかがめミレーユへ囁いた。


「奥様、アレクセイ坊ちゃまがお目覚めで、乳母が奥様にお声がけをと」


「ありがとう。今行くわ」


 ミレーユは立ち上がり、ナーサリーへ向かった。扉を開けると、乳母に抱かれたアレクセイが小さな手を伸ばした。


「おはよう、アレクセイ。よく眠れた?」


 乳母から息子を受け取る。小さな体が胸に収まる。ヴァルターによく似た鼻筋と、濃い琥珀色の瞳。この子は、二人の愛の結晶だ。


 アレクセイはすぐにまた目を閉じた。母の胸の中が安心するのか、すぐに寝息を立て始める。



 忌々しいあの女。


 どうやら


 消すしかない。


 でも、どうやって?



 ミレーユは胸元で眠っているアレクセイの寝顔を見ながら、口元に弧を描いた。

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