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86 不穏な追伸 -Chapter リージェリア

 朝の身支度を終え、リージェリアは椅子に腰を下ろした。侍女が銀の盆を差し出す。


「グレイストン公爵夫人より、書簡が届いております」


 受け取った書簡の封蝋を丁寧に剥がし、便箋を取り出す。

 ミレーユらしい、丁寧で品のある文字と礼節の整った文面だった。近況を伝える言葉が並び、それ自体には何の問題もない。ただ読み進めるうち、リージェリアの目は追伸と書かれた末尾で止まった。


『今年の夏は、ことのほか蒸すわ。くれぐれも体調だけには気をつけてね。必ずよ』


 追伸というものには、二つの種類がある。書き忘れたことを付け足すためのものと、本当に言いたいことを隠すためのもの。ミレーユは書き忘れなどしない女性(ひと)だ。つまり、この追伸は後者ということになる。


 リージェリアは便箋を膝の上に置き、侍女の方を見た。


「茶を淹れてもらえる? それと、少し一人にして」


「畏まりました」


 侍女が部屋を出ていく。扉が静かに閉まり足音が遠ざかっていくのを、リージェリアは黙って聞いていた。それから再び便箋を手に取り、追伸の一文を読み返した。


 いつもと違う、とミレーユは言っている。そして、気をつけてね、必ずよ、と念を押している。


 警戒せよ、ということだろう。


 だが、何に対して?


 私たちが警戒しなければならないものは、二つしかない。毒のことと、セレイナ。


 セレイナは離縁した。後見人はエリオス殿下だと、セラフィムは言っていた。エリオス殿下の任地は東の辺境要衝(ようしょう)。故にセレイナも、当然そこにいるものだと思っていた。遠い場所で、静かに消えていくのだと。もしくはどこかの貴族へ嫁ぎ、そこで生涯を終えるのだろうと思っていた。

 

 でも、このミレーユの文。


 彼女は何かを知っている。何かを感じ取っている。だからわざわざ、こんな回りくどい方法で警告を送ってきた。


 エリオス殿下が、王都に戻っているということだろうか。


 だとしたら、セレイナは?


 彼女も一緒にいるの?


 そこまで思考を巡らせていた時、扉が開かれた。

 と同時に、程よい甘味と爽やかさを彷彿させる濃厚な香りと共に、茶が運ばれてきた。


「御茶をお持ちしました。本日は、茉莉花茶(ジャスミンティ)でございます」


「そう、ありがとう。いい香りだわ」


 リージェリアはにこりと微笑む。


「恐縮でございます。では、失礼いたします」


 侍女が一礼をしたあと、ワゴンをそっと押しながら退室して行った。

 湯気が立ち上り、室内に茶葉の香りが漂う。リージェリアはカップに口をつけたが、味はよくわからなかった。脳内では、それどころでは無かった。


 まさか……


 まさか、まさか。


 セラフィムはセレイナと会っているの?


 だから私とは、閨を共にしていないの?


 離縁したのに?


 最近のセラフィムの態度を思い返す。執務が忙しいと言って、夜は別々に過ごすことが増えていた。それ自体は珍しいことではない。王太子としての務めは多い。だから気にしないようにしていた。


 でも、本当にそれだけだろうか。


 忙しいのではなく、避けているのだとしたら。


 あの日のことを思い出す。執務室の扉の隙間から見た、セラフィムの横顔。セレイナを見つめる彼の喉が、大きく上下に動いた。あれは理性ではなかった。男の、抑えようのない欲だった。


 そんなセラフィムをあの時、初めて見た。

 いままでどんなに遠回しだろうが、あからさまであろうが、女性達に言い寄られても、軽く躱し流していたのに。


 だからこそ。あの誓いは、遠くない未来に簡単に破られる。そう確信したから動いたのだ。ミレーユと共に。


 セレイナはもう消えたはずだった。辺境に追いやられ、二度とこの宮廷には戻ってこない。その筈だった。


 なのに、なぜミレーユは警告を送ってきたのか。


 (まさか、そんなことはないわよ……ね)


 でも。


 半分以上、茶が残ったままのカップを置いたリージェリアは、自身を抱きしめるように両手を回し、腕を擦った。


 まるで地の底から伸びた手に掴まれた、重いドレスを引き摺るような、ぞわっとした感覚が背中を這う。

 

 その正体が何なのか、言葉に出来ないからこそ、恐ろしかった。



 その夜、リージェリアはセラフィムの執務室を訪れた。


 扉を叩くと、中から「入れ」という声がした。いつもと変わらない、落ち着いた声。リージェリアは微笑みを貼り付けて、扉を開けた。


「お忙しいところ、ごめんなさい。少しだけ、顔が見たくなって」


 セラフィムは机に向かったまま、書類から顔を上げた。翡翠色の瞳がリージェリアを見る。その瞳はいつもと変わらず優しい。


「リージェか。どうしたんだい? こんな時間に」


「こんな時間に、というほど遅くはないでしょう?」


 リージェリアは机の傍まで歩み寄り、夫の顔を覗き込んだ。いつもより、少し疲れているように見える。目の下に薄い影がある。


「最近、お忙しそうね」


「ああ。少し立て込んでいてね」


「そう……」


 リージェリアは、何気ない風を装いながら、言葉を選んだ。


「今夜も、一緒に過ごせないのかしら?」


 セラフィムの手が、一瞬止まった。


 ほんの一瞬。だが、すぐに、傍に居るリージェリアの頭を撫でてくれる。


「すまない、リージェ。今夜も少し、片付けなければならないことがあってね」


「そうなのね」


 リージェリアは微笑んだ。完璧な、王太子妃としての微笑み。


「無理はしないでね、セラフィム。あなたが倒れると、皆が困っちゃうわ」


「ああ、わかっているよ。ありがとう」


 セラフィムはにこやかに応えてくれる。いつもと何も変わらない、はず。

 なのに。どこかが違う。


 何かを隠している。そう感じるのは、気のせいだろうか。疑心暗鬼になりすぎているのかもしれないと、リージェリアはセラフィムの顔を覗き込みながら、そう、言い聞かせた。


「それじゃあ、おやすみなさい」


「ああ、おやすみ」


 そう言うとセラフィムはリージェリアに微笑みを見せると、その視線を書類に落とし、再び羽根ペンを走らせ始めた。


 リージェリアはそれを見た後、静かに執務室を後にした。扉を閉め、回廊を歩きながら、唇を噛んだ。


 やはり、何かがおかしい。


 最後、彼はいつもなら、口づけを落としてくれたはずだ。


 それがなかった。


 たったそれだけのこと、と言えばそれまでだ。だが、リージェリアには確信があった。


 セラフィムは何かを隠している。


 ミレーユの警告と、エリオス殿下が帰還しているのではないかという推測。そして何より、セラフィムの態度。


 全部が繋がっているような気がする。でも、その糸の先が見えない。



 リージェリアは自室に戻ると、そのままふらりと椅子に深く腰掛けた。


(大丈夫、大丈夫よ。何も起きていないわ)


 そう再び自分に言い聞かせながら、リージェリアは眠れない夜を過ごした。

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