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82 手料理と晩餐 ーChapter エリオス

 伯爵邸に馬車が着いたのは、夕刻のことだった。


 本来ならばオクターブだけでガレーニャを迎えに行けばよかった。

 だがエリオスは、自ら馬車に乗り込んだ。


 理由は、自分でもわかっている。

 セレイナの顔が見たかった。


 馬車が止まり、御者が扉を開ける。


 エリオスが降り立つと、伯爵邸の玄関扉が静かに開いた。玄関番が一礼し、道を開ける。


 玄関ホールには、伯爵が待っていた。馬車の音を聞きつけた邸の者が知らせ、出迎えに来たのだろう。


「殿下、お戻りお待ちしておりました」


 伯爵が深く頭を下げる。エリオスは軽く手を上げた。


「ガレーニャを迎えに来ただけだ。すぐに失礼する」


 その時、階段の上から足音が聞こえた。


 見上げると、セレイナが降りてくるところだった。その後ろにガレーニャと伯爵夫人が続いている。


 セレイナの目がわずかに見開かれた。エリオスと視線が合い、どちらともなく口元が綻ぶ。


「エリオス殿下」


 声を出したのは、伯爵夫人。夫人は玄関ホールまで来ると、丁寧なカーテシーをし、セレイナもそれに倣う。簡素な服のガレーニャは深く頭を下げた。


「顔を上げてくれ。毎回、丁寧な挨拶はしなくても大丈夫だ」


 苦笑いを僅かに見せたエリオスに、挨拶を解いたセレイナ達は、顔を見合わせて小さく笑いあった。

 

 そして伯爵夫人がおっとりした口調でエリオスに話掛けた。


「エリオス殿下、それにオクターブ様。畏れ多いのですが、もしよろしければ晩餐をご一緒にいかがですか。今丁度、支度が整ったところでござまして」


「いや、それは……」


 断ろうとした言葉が、途中で止まった。


 夫人の隣に居たセレイナが、エリオスを見たまま嬉しそうな表情を浮かべている。


「よろしければ、殿下」


 セレイナの声は、普段よりもほんの少しだけ高く、皆で過ごしたいという彼女の気持ちが伝わって来たのだ。


 それを聞いて、エリオスは断る理由を失った。


「……では、お言葉に甘えよう」



 食堂の長テーブルに、六人が着席した。


 上座に伯爵、その対面に伯爵夫人。エリオスの正面にはセレイナが座り、その横にガレーニャ。エリオスの隣にはオクターブが座した。


 給仕たちが静かに動き、前菜が運ばれてくる。


 大皿がテーブルの中央に置かれた瞬間、エリオスは目を見張った。


 美しく焼き上げられたパイ生地に包まれた料理。表面には繊細な模様が刻まれ、冷やされた状態で供されている。夏の暑い時期には、こうした冷製の前菜が好まれる。


「パテ・アンクルートです」


 伯爵夫人が微笑んだ。


「セレイナとガレーニャ様と、三人で作りましたの。殿下とオクターブ様に召し上がっていただきたくて」


 給仕が切り分け、エリオスから取り分けた皿を置いてゆく。断面からは、幾層にも重なった肉の層と、ハーブの緑が覗いていた。


 エリオスはセレイナを見た。彼女は少しだけ頬を染め、視線を伏せている。


「お口に合えばよいのですが……」


 その隣で、ガレーニャが言葉を添える。


「私はほぼ何もしておりません。作られたのはほとんどセレイナ様です。私はハーブを刻んだだけで……」


「そんなことないわ。ガレーニャがハーブを選んでくれたから、香りが良くなったのよ? 使う野菜なども考えてくれて、栄養バランスも抜群だもの」


 セレイナが首を振る。ガレーニャは眼鏡を押し上げながら、照れたように視線を逸らした。


 そんな和やかな空気の中、皆の前に皿が行き渡った。


 それを見届けたエリオスは、自分が食さなければ誰も食べられないことを承知しており、迷うことなくフォークで一切れを口に運んだ。


 まず、バターの効いたパイ生地のサクサクとした食感が広がる。次に、肉の旨味とハーブの香りが口の中に広がり、やがて溶け合う。冷やされているからこそ、脂の甘みと香草の爽やかさが際立っている。


「これは……美味い」


 エリオスが感想を言うと、セレイナの表情がパッと綻んだ。


 隣のオクターブも、静かにパイを口に運んでいた。普段は感情を表に出さない男だが、その目がわずかに和らいでいるように見える。ガレーニャの方をちらりと見て、彼も小さく頷いていた。


 ガレーニャは眼鏡の奥の目を伏せ、黙々と食事を続けていた。だがその頬が、ほんのりと赤く染めていた。


「これは、生涯忘れえぬ味でございます」


 オクターブが、社交辞令なのか本気なのかどちらともつかぬ賛辞を並べる。


「オクターブ様、ありがとうございます。でも、お母様の鶏のガランティーヌも美味しいのですよ」


 セレイナが伯爵夫人の方を見て言った。


「まあ、そんなことないわ。セレイナのパイ生地は、私よりずっと上手よ」


「どちらも絶品なことには違いない。お陰で儂は、余計な肉を体につけぬよう、気を張らねばならん」


 と伯爵も何度も頷きながら、目じりの皺を深くし娘と妻の顔を交互に見やっていた。


「まぁ、あなた」「まぁ! お父様」


 同じような反応をする母娘のやり取りを聞きながら、エリオスは二切れ目を口に運んだ。


 その後も運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、肩を張らない和やかな晩餐は続いた。時には笑いあったり、時には真面目な話になったり。


 エルグラン伯爵とエリオスは、商いと領政。立場は違えど経済のこととなると、話題が尽きることはなかった。



 そんな和やかでもあり、想像以上に充実した晩餐が終わり、エリオス達は玄関で見送りを受けた。


 夜の帳が下り、屋敷の周囲は静まり返っている。玄関のガス灯が、六人の姿を照らしていた。


 伯爵夫人がガレーニャに何か声をかけている。「また一緒にお料理をしましょう」という言葉が聞こえた。ガレーニャは眼鏡を押し上げながら、ぎこちなく頷いている。


 伯爵はオクターブと言葉を交わしていた。二人の間で、何か真剣な話がなされているようだった。おそらくは、今後の予定など、細かな擦り合わせだろう。


 エリオスはセレイナの前に立った。


 彼女は静かにこちらを見上げている。ガス灯の淡い光が、その銀髪を淡く照らしていた。


「今日はとても良い晩餐だった。ありがとう、セレイナ。エルグレン家の皆は、本当に温かいな。セレイナ、貴方が純粋な理由が分かった気がする」


「いいえ、そんな……」


 セレイナが俯き加減で、小さく微笑む。その頬がほんのりと染まって見えた。そんなセレイナに、自然と顔を綻ばせながら、エリオスは何気なく問いかける。


「他に得意な料理はあるのか?」


 セレイナは少し考えるように首を傾げた。


「得意というほどでは……。お菓子なら、タルトを焼くことが多いですけれど」


「そうか」


 エリオスは少し間を置いてから、言った。


「実は、パテ・アンクルートは、昔から好物だった」


 セレイナの目が、驚いたように見開かれた。


「……そう、だったのですか」


「ああ。だから今日は、偶然だったにしろ、嬉しかった」


 その言葉に、セレイナの表情が変わった。驚きから、じわりと喜びが滲んでいく。目元が緩み、口元は弧を描いていた。


「それでしたら、もっと早くお作りすればよかった」


「ならば、また、何か作ってもらえるか?」


 セレイナは一瞬だけ驚いた表情をしたが、直ぐに花が咲くように微笑んだ。


「もちろんです。殿下のお好きなもの、何でも」


 その笑顔を、周囲の四人が見守っていた。伯爵夫人が口元を押さえ、目を細めている。伯爵は腕を組み、満足げに頷いた。オクターブは無表情のままだったが、その視線はどこか温かい。ガレーニャは眼鏡を押し上げながら、小さく息をついていた。


 エリオスは彼女の肩にそっと手を置き、軽く引き寄せた。ただの別れの挨拶。礼儀の範疇は越えてはいない抱擁。セレイナの体が、わずかに強張ったが、それもすぐに力が抜けた。


「すぐに迎えに来る」


「はい」


 セレイナの返事を聞いた後、エリオスは伯爵の方へ向き直った。伯爵が歩み寄り、手を差し出す。それは臣下としてというよりも、娘を託す父親の想いが込められているように感じた。


「伯爵、今日はよい時間だった。感謝する」


「勿体ないお言葉でございます」


 固く握手を交わす。表面的な言葉よりも、合わせた掌には言い表せない想いが伝わるようだった。

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