80 裏口の密談 ーChapter エリオス
午後二時。エリオスはカフェ・プロコピウスの裏口から店に入った。
表から出入りすれば、王子がこの店に居ることが知れる。今はそれを避けたかった。
オクターブを伴い、狭い通路を抜けると、ロベルトが待っていた。金色の髪を後ろに撫でつけ、人懐こい垂れ目が笑っている。
「珍しいな、裏口から来るとは。何か後ろめたいことでもあるのか?」
「ある」
そう短く答えたエリオスに、ロベルトの笑みが深くなる。
「ほう」
「今日から暫く、この店の個室を使わせてもらいたい。出入りは裏口からにしたい。俺がここに来ていることを、誰にも知られたくない」
「なるほど」
ロベルトは腕を組み、エリオスを見つめた。その目は笑っているが、どこか鋭い。
「それと、ややこしい事案に巻き込まれてもらう」
「ややこしい事案、ね。詳しくは聞かんが……高くつくぞ?」
ロベルトはにやりと笑った。
「わかった」
エリオスが頷くと、ロベルトは満足げに肩を竦めた。
「確か、三時に客がくるんだろ? それは昨日に言付けを聞いたから、個室を用意させてある」
「ああ。それと、二日後にも使う。その時は、女を一人連れてくる」
「女?」
「診察だ。侍医が診る」
ロベルトは一瞬だけ眉を上げたが、それ以上は何も聞かなかった。
「わかった。誰にも見られないようにする。任せておけ」
「恩に着る」
エリオスはロベルトに案内され個室へ向かいながら、時計を確認した。三時まで、あと一時間。
☆
午後三時。カフェ・プロコピウスの個室には、深く煎られた珈琲の重く刺激のある香りが淀んでいた。
革張りの椅子に深く腰掛け、エリオスは窓の外を見下ろした。石畳を走る馬車の車輪音や、通りを行き交う人々の話し声が、ひとつの塊となって届いてくる。そうした日常の喧騒が、この室内の静まり返った空気とは無縁のものとして流れていく。
扉の傍らでは、オクターブが壁に背を預け控えていた。
やがて控えめなノックが響き、ヴァルターが入室した。昨日の憔悴しきった様子とは異なり、身なりこそ整えられていたが、その眼窩の窪みには濃い疲労の色が滲み出ていた。
ヴァルターが一礼して向かいの席に就くと、エリオスは珈琲に口をつけ、その苦味で意識を研ぎ澄ませてから切り出した。
「瓶の成分を調べている。結果が出るまで、二日ほどかかる」
「……承知いたしました」
ヴァルターの声は低く、乾いていた。
「それと、もうひとつ。侍医が、その者を直接診たいと言っている」
その瞬間、ヴァルターの指先がピクリと跳ね、膝の上のズボンを強く握りしめた。
「直接……ですか」
「話を聞くだけでは限界がある。肌の状態や衰弱の度合いを、医者の眼で確認しなければならない」
ヴァルターは沈黙した。彼女を外へ連れ出すことへの不安だろう。誰かに見られれば、何が起きるかわからない。
エリオスは続けた。
「この店の裏口を使える。人目につかない。念のため、髪は隠すようにして連れてきてくれ」
「ここへ、連れてくるのですか」
「ああ。この店のオーナーは俺の古い友人だ。個室への出入りに余計な詮索はさせない。口も堅い」
ヴァルターは視線を落とし、頭の中で段取りを反芻するように唇を動かした。やがて、顔を上げる。
「承知いたしました。段取りは私が整えます」
「二日後の午後三時。ここへ連れてきてくれ。診察には貴公は立ち会わない方がいいだろう。侍医とオクターブだけだ。その後診察の結果を聞く」
「殿下は……」
「俺がいれば彼女が怯える。それに公爵も同室しない方が、侍医は診やすいだろう。別室で控えておく」
ヴァルターが力強く頷くのを確認し、エリオスはさらに踏み込んだ。
「診察が終われば、彼女はそのまま安全な場所へ移す。暫くの間、娼館へは戻さない」
「保護、するということですか」
「そうだ。彼女は重要な証人となる。それに、そのまま放置すれば、いずれ雑役夫と同じ運命を辿ることになるかもしれん。用心に越したことはないだろう」
ヴァルターは頷いた。「二日後、必ず」そう言って、個室を辞した。
☆
ヴァルターが去った後、入れ替わるようにロベルトが姿を現した。
彼はテーブルの空になった珈琲カップを一瞥し、面白そうに眉を上げる。
「で、どうだった。ややこしい事案とやらは」
「二日後に女を一人、ここへ連れてくる。用が済んだ後、匿いたい。どこか適当な場所はないか?」
「匿う?」
ロベルトの目が、その美貌も相まってか小悪魔的に光り、含み笑いをする。が、そのあと、ハッとした様子を見せて、その眼光が違う色を見せた。
「……おい待て。まさか、あの銀の女神じゃないだろうな!」
身を乗り出すロベルトを、エリオスが鋭い視線で射抜く。だがロベルトは怯むどころか、さらに熱を帯びた口調で畳みかけた。
「もし彼女だっていうなら、隠すなんて言わず、俺が喜んでお迎えにあがるぜ。跪いてでもお守り役を仰せつかりたいくらいだ」
「……戯言を。別の件だ」
冷たく突き放すエリオスの態度に、ロベルトは「なんだ、つまらないな」と肩をすくめ、遊びを切り捨てた実務家の顔に戻った。
「お前の頼みだ、詮索はしないでおいてやる。……で、その連れてくる女の身分は?」
「娼婦だ」
エリオスの答えを聞き、ロベルトは納得したように顎を引いた。
「なるほど、娼婦か。なら話は早い。そこまで身分が高くないのであれば、蒸し湯屋の裏手に手頃な空き部屋がいくつかあるはずだ。あそこなら人通りも多いし、かえって誰も気に留めないだろうよ。人目を盗んで隠れるには最適だ」
控えていたオクターブが、静かに口を開く。
「私が手配いたしましょうか」
「頼む。二日後だ。それまでに整えておいてくれ」
「御意」
返事をするオクターブの横でロベルトは、エリオスの背中を軽く叩くような気安さで笑ってみせた。
「まあ、お前の役に立てるなら、いつだって喜んで手を貸すぜ」
「頼りにしてるぞ」
エリオスも口角を少しだけ上げた顔を見せ、そのままオクターブと共に個室を後にした。




