表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

78/95

78 手筈 ーChapter エリオス

 ヴァルターが涙を拭い、漸く顔を上げた。その目はまだ赤く、頬には涙の跡が残っている。公爵という立場にある男が、王子二人とそれぞれの側近の前で、ここまで己を晒したのだ。それがどれほどの覚悟だったか、エリオスには痛いほど伝わっていた。いや、何もエリオスだけではなく、その場に居た者は皆、十分わかっていただろう。


 ヴァルターが落ち着くことを待っていたかのように、エリオスは静かに声を掛けた。


「ヴァルター公。『プロコピウス』という店は知っているか?」


 唐突な問いに、ヴァルターが僅かに目を瞬かせる。


「カフェ・プロコピウスですか? ええ、勿論。存じております」


 紳士の社交場として名の知れた店だ。公爵ほどの立場であれば、交流はもちろん、情報収集のために足を運んだことがないはずもなく。


「今後の連絡は、あそこを使おう。公爵邸への書簡は危険だ。奥方、ミレーユ夫人の目に触れる可能性がある」


 妻の名が出た途端、ヴァルターの表情が引き締まる。


「はい。承知いたしました」


「まずは明日、午後三時にプロコピウスへ来てもらえないか。今後のこともある。そこで色々詰めよう」


 ヴァルターが深く頷く。その頷きには、全てを託すという意志が込められているように見えた。


 それを見届けると、それまで黙していたセラフィムがゆっくりと立ち上がった。椅子が軋む音が、静まり返った小書院に響く。


「今日のところは、これで解散としよう。ヴァルター、もしまた何かあればすぐに連絡してほしい」


「ありがとうございます、王太子殿下、エリオス殿下」

 

 ヴァルターは深く、長く一礼し、小書院を後にした。扉が閉まる音に、彼が置いていった覚悟の重さが部屋に残されているようだった。


 この小さな瓶が、全てを変えるかもしれない。セレイナに起きたことの真相。ミレーユの罪。そしてリージェリアとの繋がり。


 ここにきてやっと、事態が大きく動き出そうとしていた。 訪れるだろう過酷な運命を予感し、残された四人は、暫く誰も口を開くことはなかった。



 

 別邸に戻ったエリオスは、ガレーニャを執務室へ呼び出した。 彼女が入ってくるなり控えていたオクターブが扉を閉じ、背後で鍵が降りる金属音を確認してから、エリオスは懐の瓶を机に置いた。


「これを調べてほしい」

 

 ガレーニャは沈黙したまま瓶を取ると、窓の光に透かした。赤鈍色の瓶を傾けるたびに中の液体が、重たく揺れる。 彼女がその瓶を見つめる視線が鋭くなる。


「殿下、これは?」


「避妊薬だ。それを服用した女性の症状が、かつてのセレイナに起きた症状と酷似しているらしい」


 エリオスの言葉に、ガレーニャは瓶の蓋を開け、鼻に瓶を寄せると匂いを慎重に確かめ始めた。匂いはすぐにはわからない。が、青臭い香りがほんの僅かだけ漂って来る。そこに重なる粘着質な匂い。ガレーニャの表情から色が消え、そこにある事実だけを伝える口調へと変わる。


「液体の色や匂いだけではまだ、断言はできません。成分も含め調べてみる必要があります。ですが、この粘り……瓶の壁面を這うような独特の(おり)には、覚えがあります。あの方が苦しんでおられた時、その肌から滲み出ていた不浄な色を出す成分、それだと思われます」


 ガレーニャは瓶を握りしめ、エリオスを真っ直ぐに見据えた。


「成分を念入りに調べる為に、二日ください。匂い、色、成分を全て照合します」


「ああ、頼む」


「それと……症状の出ている方を、直接診察することは可能でしょうか。この液体の正体が何であれ、それが実際に人体をどう変質させているのかを確認しなければ、真実には辿り着けません。話を聞くだけでは、推測の域を出ないのです」


「わかった」


 エリオスは短く頷いた。彼女の医者としての矜持、そしてセレイナを想う痛みを、彼は汲み取った。


「手筈を整えよう。それまで申し訳ないが、王宮の方で待機してもらえるか」


「もちろんです。ありがとうございます」


 ガレーニャの目には、確実に仕事をして見せるという決意を見て取れた。セレイナを苦しめた者への怒り。そして、真実を暴くという覚悟。


「エリオス殿下。もしこれが、セレイナ様に使われたものと同じだったなら……私は、必ず証明してみせます」


 ガレーニャが瓶を光に透かしている。その横顔は、どこまでも真剣だった。


 

 晩餐が終わるのを待ち、エリオスは隣にいたセレイナを呼び止めた。


 「セレイナ、少し話がある。居間へ来てくれないか」


 彼女は短く頷き、エリオスの数歩後ろを静かについてきた。


 居間の扉を閉めると、ひんやりとした室内の冷気が肌を撫でる。


 置かれてある椅子に向かい合って座ると、セレイナは膝の上で手を重ね、静かにエリオスの言葉を待っている。

 エリオスは意識して視線をセレイナに向けて固定し、用意していた言葉を切り出した。


「ガレーニャの知識を借りたいことができた。医術に関することで、少し調べてもらっている」


「はい」


「そのこともあって、俺はガレーニャを伴い王宮へ行かなくてはならなくなった。その間……君は伯爵邸へ戻っていてくれないか」


 一瞬、彼女の瞳が揺れた。エリオスはそれを、彼女が言葉の裏にある不穏な気配を察した証だと受け取った。だが、セレイナはそれ以上を追及することなく、小さく頷いた。


「わかりました。お父様とお母様とも、もう少し時間を共にしたいと思っておりました」


「帰還の予定が伸びるばかりで、すまない」


「いいえ。殿下がそう仰られることですから、何かご事情があるのでしょう」


 セレイナはにっこりと微笑んだ。その表情はどこまでも凪いでいたが、エリオスにはそれが自分への信頼なのか、あるいは自身の運命に対する諦観なのか。前者であればと、心から思う。


「いってらっしゃいませ。私は、殿下のお帰りを……」


 そう言いかけて、セレイナは口を噤んだ。 わずかに俯いた睫毛が影を落とす。しかし次に顔を上げたときには、その瞳に迷いはなかった。 彼女は柔らかな笑みを湛えたまま、エリオスに向けて小さく頷いた。


 彼女のその言葉に、エリオスはただ「ありがとう」と返すのが精一杯だった。

 セレイナが言い淀んだ言葉をエリオスは察せられた。

 

 彼女は言っていた。「待つのは苦しいと」と。

 でもいつか、その言葉が痛みではなくなるように、ゆっくりとセレイナと共に歩んで行こう。エリオスはそう決意しながらも、思考はすぐに現実へ戻される。


 セレイナには本当のことをすべて話す必要はない。不安にさせる必要もない。

 ただ、安全だけは確保しなければならない。


 エルグレン伯爵には、このことを伝えるべきか。


 明日の朝、セレイナを伯爵家へ送り届け、その折に伯爵と面談をするか。エリオスは、セレイナのその微笑みを見つめながら、頭の中で次なる段取りを組み立てていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ