78 手筈 ーChapter エリオス
ヴァルターが涙を拭い、漸く顔を上げた。その目はまだ赤く、頬には涙の跡が残っている。公爵という立場にある男が、王子二人とそれぞれの側近の前で、ここまで己を晒したのだ。それがどれほどの覚悟だったか、エリオスには痛いほど伝わっていた。いや、何もエリオスだけではなく、その場に居た者は皆、十分わかっていただろう。
ヴァルターが落ち着くことを待っていたかのように、エリオスは静かに声を掛けた。
「ヴァルター公。『プロコピウス』という店は知っているか?」
唐突な問いに、ヴァルターが僅かに目を瞬かせる。
「カフェ・プロコピウスですか? ええ、勿論。存じております」
紳士の社交場として名の知れた店だ。公爵ほどの立場であれば、交流はもちろん、情報収集のために足を運んだことがないはずもなく。
「今後の連絡は、あそこを使おう。公爵邸への書簡は危険だ。奥方、ミレーユ夫人の目に触れる可能性がある」
妻の名が出た途端、ヴァルターの表情が引き締まる。
「はい。承知いたしました」
「まずは明日、午後三時にプロコピウスへ来てもらえないか。今後のこともある。そこで色々詰めよう」
ヴァルターが深く頷く。その頷きには、全てを託すという意志が込められているように見えた。
それを見届けると、それまで黙していたセラフィムがゆっくりと立ち上がった。椅子が軋む音が、静まり返った小書院に響く。
「今日のところは、これで解散としよう。ヴァルター、もしまた何かあればすぐに連絡してほしい」
「ありがとうございます、王太子殿下、エリオス殿下」
ヴァルターは深く、長く一礼し、小書院を後にした。扉が閉まる音に、彼が置いていった覚悟の重さが部屋に残されているようだった。
この小さな瓶が、全てを変えるかもしれない。セレイナに起きたことの真相。ミレーユの罪。そしてリージェリアとの繋がり。
ここにきてやっと、事態が大きく動き出そうとしていた。 訪れるだろう過酷な運命を予感し、残された四人は、暫く誰も口を開くことはなかった。
☆
別邸に戻ったエリオスは、ガレーニャを執務室へ呼び出した。 彼女が入ってくるなり控えていたオクターブが扉を閉じ、背後で鍵が降りる金属音を確認してから、エリオスは懐の瓶を机に置いた。
「これを調べてほしい」
ガレーニャは沈黙したまま瓶を取ると、窓の光に透かした。赤鈍色の瓶を傾けるたびに中の液体が、重たく揺れる。 彼女がその瓶を見つめる視線が鋭くなる。
「殿下、これは?」
「避妊薬だ。それを服用した女性の症状が、かつてのセレイナに起きた症状と酷似しているらしい」
エリオスの言葉に、ガレーニャは瓶の蓋を開け、鼻に瓶を寄せると匂いを慎重に確かめ始めた。匂いはすぐにはわからない。が、青臭い香りがほんの僅かだけ漂って来る。そこに重なる粘着質な匂い。ガレーニャの表情から色が消え、そこにある事実だけを伝える口調へと変わる。
「液体の色や匂いだけではまだ、断言はできません。成分も含め調べてみる必要があります。ですが、この粘り……瓶の壁面を這うような独特の澱には、覚えがあります。あの方が苦しんでおられた時、その肌から滲み出ていた不浄な色を出す成分、それだと思われます」
ガレーニャは瓶を握りしめ、エリオスを真っ直ぐに見据えた。
「成分を念入りに調べる為に、二日ください。匂い、色、成分を全て照合します」
「ああ、頼む」
「それと……症状の出ている方を、直接診察することは可能でしょうか。この液体の正体が何であれ、それが実際に人体をどう変質させているのかを確認しなければ、真実には辿り着けません。話を聞くだけでは、推測の域を出ないのです」
「わかった」
エリオスは短く頷いた。彼女の医者としての矜持、そしてセレイナを想う痛みを、彼は汲み取った。
「手筈を整えよう。それまで申し訳ないが、王宮の方で待機してもらえるか」
「もちろんです。ありがとうございます」
ガレーニャの目には、確実に仕事をして見せるという決意を見て取れた。セレイナを苦しめた者への怒り。そして、真実を暴くという覚悟。
「エリオス殿下。もしこれが、セレイナ様に使われたものと同じだったなら……私は、必ず証明してみせます」
ガレーニャが瓶を光に透かしている。その横顔は、どこまでも真剣だった。
☆
晩餐が終わるのを待ち、エリオスは隣にいたセレイナを呼び止めた。
「セレイナ、少し話がある。居間へ来てくれないか」
彼女は短く頷き、エリオスの数歩後ろを静かについてきた。
居間の扉を閉めると、ひんやりとした室内の冷気が肌を撫でる。
置かれてある椅子に向かい合って座ると、セレイナは膝の上で手を重ね、静かにエリオスの言葉を待っている。
エリオスは意識して視線をセレイナに向けて固定し、用意していた言葉を切り出した。
「ガレーニャの知識を借りたいことができた。医術に関することで、少し調べてもらっている」
「はい」
「そのこともあって、俺はガレーニャを伴い王宮へ行かなくてはならなくなった。その間……君は伯爵邸へ戻っていてくれないか」
一瞬、彼女の瞳が揺れた。エリオスはそれを、彼女が言葉の裏にある不穏な気配を察した証だと受け取った。だが、セレイナはそれ以上を追及することなく、小さく頷いた。
「わかりました。お父様とお母様とも、もう少し時間を共にしたいと思っておりました」
「帰還の予定が伸びるばかりで、すまない」
「いいえ。殿下がそう仰られることですから、何かご事情があるのでしょう」
セレイナはにっこりと微笑んだ。その表情はどこまでも凪いでいたが、エリオスにはそれが自分への信頼なのか、あるいは自身の運命に対する諦観なのか。前者であればと、心から思う。
「いってらっしゃいませ。私は、殿下のお帰りを……」
そう言いかけて、セレイナは口を噤んだ。 わずかに俯いた睫毛が影を落とす。しかし次に顔を上げたときには、その瞳に迷いはなかった。 彼女は柔らかな笑みを湛えたまま、エリオスに向けて小さく頷いた。
彼女のその言葉に、エリオスはただ「ありがとう」と返すのが精一杯だった。
セレイナが言い淀んだ言葉をエリオスは察せられた。
彼女は言っていた。「待つのは苦しいと」と。
でもいつか、その言葉が痛みではなくなるように、ゆっくりとセレイナと共に歩んで行こう。エリオスはそう決意しながらも、思考はすぐに現実へ戻される。
セレイナには本当のことをすべて話す必要はない。不安にさせる必要もない。
ただ、安全だけは確保しなければならない。
エルグレン伯爵には、このことを伝えるべきか。
明日の朝、セレイナを伯爵家へ送り届け、その折に伯爵と面談をするか。エリオスは、セレイナのその微笑みを見つめながら、頭の中で次なる段取りを組み立てていた。




