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73 星と誓い ーChapter セレイナ

 王都での主な用事をほぼ終え、東辺境要地へ帰る日も近づいていた。


 その夜、セレイナは珍しく自らエリオスの部屋を訪ねた。軽く扉を叩くと、程なくしてエリオス本人が顔を出した。


「セレイナ? どうした」


「あの、夜分に申し訳ありません。もしよろしければ、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 エリオスは一瞬、部屋の中を振り返った。夜更け前に女性を、自室に入れるわけにはいかないと思ってくれたのだろう。少し考えるそぶりの後、エリオスは扉を閉め廊下に出てきた。


「ここでの夜空は、東辺境要地で見るのとはまた違う趣がある。少し歩かないか?」


 エリオスからの承諾の意の返事に、セレイナは微笑みつつ頷いた。


 二人は並んで、別荘の庭園へと足を向ける。夏の夜風が心地よく肌を撫でてゆく。セレイナの緩く結われた髪が、風にふわりと揺れた。胸元には、王都でエリオスから贈られたペンダントが、庭園を照らすガス灯の光を反射して輝いていた。


 庭園のガゼボ付近まで来ると、二人は足を止めた。見上げれば、王都の空にも星が瞬いている。東辺境要地ほどの数ではないが、それでもここで見る夜空も美しかった。


「殿下」


 セレイナは、静かにエリオスへ話を始めた。


「王都では、本当にお世話になりました。両親との再会も、王后陛下との面会も、全て殿下のおかげです」


「いや、俺は何もしていない。……整えただけで、全て、セレイナ自身が決めたことだ」


「いいえ。殿下が居てくださらなければ、私は一歩も踏み出せなかったと思います」


 セレイナは手に持っていた包みを解き、丁寧に折りたたまれた布を取り出した。深い青色の絹が、月明かりを受けてかすかに光っている。


「これを、受け取っていただけますか」


 エリオスの目が、わずかに見開かれた。


「俺に、か?」


「はい。ペンダントのお礼と……いつもお世話になっているのに、何もお返しできなくて。スカーフです。せめてもの気持ちを込めて……」


 エリオスは受け取ったスカーフを、そっと広げた。


 端には『エリオス』と流麗な文字で小さく刺繍されている。青みがかった黒の糸が使われており、光の加減で深い光を放っていた。その横には、小さな星と、プラタナスの青い枝葉が繊細に縫い取られている。


 エリオスは、その刺繍を指先でそっと撫でた。


「これは……」


 その視線に気づいたセレイナが、少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「糸は、先日、王都で購入させていただいたものを。……殿下の御髪の色に似ていたので」


「そうか」


「星は……東辺境要地での聖夜に見た、あの素晴らしい景色を想って。それと、プラタナスの枝葉は、殿下と秋の並木道を見るとお約束しましたから」


 セレイナは照れを隠すように、はにかみながら微笑んだ。


「私もあの風景が好きなんです。夏の緑でしたけれど、それでも、辺境の象徴のような気がして。だから……秋になっったら、その景色をみたあと、また秋のプラタナスの刺繍をしたものを、お贈りしても構いませんでしょうか?」


 エリオスの顔に、眩いばかりの笑みが浮かんだ。心からの喜びが、その碧い瞳に溢れている。

 滅多にそんな顔を見せないエリオスに、セレイナは驚きと嬉しさが胸に満ちてゆく。


「ありがとう。大切にする」


 そう言ってから、エリオスはスカーフをセレイナに差し出した。


「よかったら、つけてもらえないか」


「はい。喜んで」


 セレイナがスカーフを受け取ると、エリオスは彼女の目線に合わせるように腰をかがめた。


 顔と顔が、真っ直ぐに近づく。


 思わず、セレイナの頬に朱が差した。こんなに近くで、エリオスの顔を見たことがあっただろうか。長い睫毛も、整った鼻筋も、全てがはっきりと見える。


 エリオスはセレイナの動揺を察したのか、静かに目を閉じた。


 セレイナは震える指先でスカーフを首に巻き、丁寧に結んでいく。その間、エリオスとのあまりに近すぎる距離と。身近に感じる彼が纏う香りで、鼓動が早まってゆく。


 緊張の中、なんとか結び終え、


「……できました」


 セレイナが顔を上げると、エリオスが静かに目を開いた。 至近距離で、碧い瞳が真っ直ぐに自分を捉えている。


 セレイナの手は、まだエリオスの首元のスカーフに添えられたままだった。離さなければ、と思うのに、指先が熱を持ったように動かない。


 エリオスの視線が、わずかにセレイナの唇へと動く。


 どちらからともなく、吸い寄せられるように。 重なり合う吐息が熱を帯び、触れるか触れないかの距離で一瞬、時が止まった。


 やがて、零れ落ちるような自然さで、唇が重なった。


 早まる鼓動。ジッと体の芯に火が付くような感覚。夢なのか現なのか、それさえもわからない時間。


 やがて、ハッとしたようにエリオスが唇を離した。セレイナも小さく身を引き、慌てて頭を下げる。


「不躾な真似を……っ! 申し訳あ……」


 思わずセレイナがそう言い、謝罪しようとすると、エリオスは黙ったままさらに一歩、距離を詰めた。そしてそのまま、言葉を言い終わらないセレイナを、その腕の中に抱き入れる。


 何が起きているのか思考が追い付かないセレイナの鼓動は、早まることを抑えてくれない。


「もし、こうしてるのが嫌なら、遠慮なく言ってくれ」


 低く優しいエリオスの声が、セレイナの耳元で響く。腕の中に閉じ込められたまま、セレイナは小さく首を横に振った。


「嫌では、ありません」


「それは、俺への配慮か? もしくは同情……か?」


 エリオスの声に、硬さが混じった。抱きしめる腕の力が、わずかに緩む。


「セレイナ、頼む。本当に嫌なら、離れて欲しい。その方が、俺のためになる」


 セレイナはエリオスの胸に頬を預けたまま、もう一度首を振った。離れたくない。そう思った。この温もりを、手放したくない。その想いが、自然と身体を動かしていた。


「本当に、嫌ではありません。でも、私……」


 次の言葉が、喉の奥から出てこない。そんなセレイナを抱くエリオスの腕が、僅かに力が込められた。


「俺は、貴方を守らなければと思っていた。王族として、その責があると。でも、違う。俺はセレイナ、貴方が好きだ。放したくないと、心から思えるほどに」


 セレイナの目が、大きく見開かれる。そして、閉じ込められている腕の中で、エリオスの顔を見るように視線を挙げた。エリオスはセレイナが想像していたよりも遥かに優しい顔で、セレイナのその顔を見つめ返していた。


「エリオス殿下。私も……お慕いしております。でも……」


 言葉を続けようとする、セレイナの声が震える。口にしていいことなのか。自分でもわからない。出してしまったらきっと、もう、後戻りできない事だけは、頭のどこかで理解していた。


「私は一度、セラフィム殿下の側妃となった身です。それに、私には多分……婚姻とか、恋愛とか……そういうことをしてはいけないと思うのです」


「セレイナ……。そういったことが、怖いか?」


 エリオスの静かな問いに、セレイナは小さく頷いた。


「はい。怖いです。また……傷つくのかもしれないと思うと」


 エリオスはセレイナの肩を少し離し、その顔を見つめ直した。いつの間にか溢れ出ていたのだろう、セレイナの涙で濡れたその頬を、そっと指で拭う。


「誓おう。決して、貴方を離さないと」


 セレイナは、エリオスの言葉に目を伏せた。


「ただ……意図せず、貴方を傷つけることはあるかもしれない。だがその時は、必ず言って欲しい。俺は貴方を、誰よりも大切にする。だから……俺の傍に、いてくれないだろうか」


 セレイナは答えられなかった。


 暫く抱きしめられたまま、沈黙が続く。それは静かな間。

 やがてエリオスが、小さな息を吐いた。


「すまない。急かしてしまった」


 そう言うと、エリオスは首元のスカーフにゆっくりと視線を落とした。


「これが、嬉しくて」


 エリオスがもう一度、セレイナに視線を戻し直す。


「返事は、いつでもいい。それが一年後だろうが、十年後だろうがいつになっても構わない。俺は変わらず、貴方を待つ」


 それを聞いた途端、セレイナの胸をその言葉が貫く。待つことは、もう嫌だと思っていた。


 だが今、目の前のこの人は、自分が待つと言っている。一年でも十年でも、変わらず待つと。


「殿下」


 セレイナは顔を上げた。涙で滲んだ視界の中で、エリオスの碧い瞳がまっすぐにこちらを見ている。


「私は……待たせたくありません。待つことの辛さを、私は知っています。だから、殿下を待たせたくない。でも、今すぐには……」


「構わない」


 エリオスが、セレイナの言葉を穏やかに遮った。


「俺は一人で人生を歩けると思っていた。ずっとそうしてきたし、それでいいと思っていた」


 エリオスの視線が、夜空へと向けられる。


「だが、貴方と過ごすうちに気づいた。一人で歩くのと、誰かと一緒に歩くのは、全く違うのだと。そのことが今、初めてはっきりと分かった」


 エリオスは再びセレイナを見つめ、そして声に力を込めて言葉を落とした。


「貴方が望むのであれば、婚姻や婚約といった形式的な物でなくてもいい。生涯貴方だけ……だから、ただ……ただ、俺の傍にいて欲しい。どこかに行ってしまわないで欲しい」


 セレイナに届いたその声は、普段は見せない切実さと弱さが交じり合っているような気がした。


「それが今の、俺の素直な気持ちだ」


「私も……私も、殿下と歩く景色が好きです」


 セレイナはエリオスの胸にそっと額を預けた。


「どこにも、行きません。私は……殿下の傍にいたいです」


 エリオスはそっとセレイナを抱き寄せ、その髪を優しく撫でた。


 夏の夜風が、二人の間を吹き抜けていく。


 二人の頭上と、エリオスの首元には、同じ星が二人を包むように輝いていた。

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