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65 報告 ーChapter エリオス

 王宮に到着したエリオスは、まず自室へ向かった。


 旅装を解き、身なりを整える。オクターブに、王后へ戻った旨を伝えるよう頼んだ。


 程なくすると、オクターブが戻ってきた。


「王后陛下より、今宵の晩餐をご一緒にとのことです。陛下もご同席されると」


「わかった。少し、兄上のところへ行ってくる」


「御意に」


 オクターブは一歩下がると、エリオスが脱ぎ置いていた薄手の旅装を手に取り、部屋の奥のクローゼットへと足を向ける。長く閉め切られていた部屋の空気を入れ替え、荷を解き、整えておくつもりなのだろう。


 エリオスは部屋を出て、宮廷の廊下を歩いた。ここへ春に訪れた時とは違い、夏独特の風景へと変わっていた。窓には涼しげな色のカーテンがかけられ、直射日光を遮っている。高窓からは風が吹き抜け、厚い石壁に囲まれた回廊はひんやりとした空気を保っていた。


 

 セラフィムの執務室は、宮廷の中央棟にある。エリオスは人の往来の多い回廊を避け、静かな廊下を選んで歩き、執務室の前までくると、軽く扉を叩いた。


「入れ」


 返事を聞き扉を開けると、書類に埋もれた兄の姿があった。羽根ペンを走らせる手を止め、セラフィムが顔を上げる。


「エリオスか」


 その目が少し見開かれた。弟が自分の執務室を訪れるのは、珍しいからだろう。


「戻ったのか」


「ああ。今日は兄上と話をと思ってな」


 セラフィムの手が止まった。羽根ペンを置き、弟の顔をまじまじと見つめる。


「……お前が俺を兄上と呼ぶのは、何年ぶりだ」


「さあな」


「数十年は経っているんじゃないか」


 セラフィムが苦笑を浮かべた。エリオスは呆れたように、片眉をわずかに上げる。


「そこまでじゃないだろ」


「いや、実際そうだ。普段は俺のことを、お前と言うか名前でしか呼ばなくなっただろう?」


 執務室には侍従が二人控えていたが、二人のやり取りに口を挟む者はいない。


 エリオスは執務机に目をやった。書類が山のように積み上げられている。一つの山だけではない。三つ、四つと、机の上を埋め尽くしていた。


「嘆願書か」


「ああ。それでも精査されたものが積まれてあるんだがな」


 エリオスは机に歩み寄り、一番上の束を手に取った。


「凄い量だな」


「嘆願なのか、陳情なのか、ただの愚痴なのか。読んでみないとわからんものばかりだ」


 手に取った束を、ぱらぱらと捲る。領地の境界線の争い、税の減免願い、隣家との諍いの仲裁依頼。中には、娘の縁談を王太子に決めてほしいなどという突拍子もないものまであった。


「これ……全部切り捨てていいやつじゃないか」


「そうもいかん」


 セラフィムが首を振った。


「貴族や民が居てこその国だ。彼らの声を無視するわけにはいかない」


「そんなことを言っているから、処理できずに溜まるんだ」


 エリオスは書類を束に戻した。セラフィムが眉を下げる。


「……痛いところを突くな」


「優柔不断も、ほどほどにしておけ」


「わかっている。わかっているが……」


 セラフィムは椅子の背に凭れ、嘆息する。


「エリオス。お前のように、切り捨てるばかりでも駄目なんだ」


「……」


「俺はそれで、人を傷つけた」


 セラフィムの声が、自身に言い聞かせるように低くなる。


「一生かかっても、償えないほどに」


 セラフィムの目には、深い悔恨が滲んでいた。何のことを言っているのか、聞くまでもない。執務室の中に、沈黙が落ちる。


 エリオスは兄の顔を見つめたまま、静かに口を開いた。


「……今日は、その件で話に来た」


 セラフィムの目が、弟を捉えた。しばしの間、二人は無言で見あっていたが、大きく頷くとセラフィムは、椅子から腰を上げた。


「ならば、場所を移して話そうか」



 二人は廊下を並んで歩いた。言葉は交わさない。向かう先は、互いにわかっていた。


 中央棟から離れ、人気のない廊下を抜ける。やがて、下りの階段が現れた。石段を降りていくと、空気がひんやりと変わる。地下に近い一角だ。


 突き当たりに、重厚な扉があった。セラフィムが鍵を取り出し、錠を開ける。


 中は小さな部屋だった。半地下の作りで、窓もある。その向こう側には、青々と茂る木々が乱立しており、この部屋の存在自体が、曖昧になっている。外の窓枠には蔦植物が絡み合い、そこに咲いている夏の花の濃い朱色が際立って見えた。


 扉を閉めると、二人きりになる。


 セラフィムがそこに置かれてある、簡易な椅子に腰を下ろす。エリオスは壁に凭れ、両腕を組んだ。


「それで、セレイナ嬢は」


「先ほど、エルグレン伯爵家にセレイナを送り届けてきた」


「そうか……」


「事情を説明し、王家としての非礼を詫びてきた」


 セラフィムの顔が歪んだ。


「……詫びるべきは、俺なのに。手数をかけたな。すまない。そして、ありがとう……エリオス」


「兄上」


「詫びても、詫びきれないのに、な」


「……」


「伯爵は……落胆していなかったか?」


「娘が生きて戻ったことに、感謝を述べていた。彼は、聡明な人だ。余計な言葉はひとつも漏らさなかった」


「そうか。セレイナ嬢は、今、どう過ごしている?」


「辺境で元気にやっている。あの頃の面影は既にない。心はともかく見た目は、そうだな。あの頃より、ふくよかになったと思う」


 エリオスの言葉を聞き、セラフィムは目を伏せた。その横顔には、深い疲労と後悔、そして微かな安堵のようなものが浮かんで見えた。


「それは、よかった」


「二日後、母上とセレイナは、大聖堂で面会する予定だ」


「ああ、聞いている」


 沈黙が落ちた。


 エリオスは兄の顔を見つめた。以前よりも、どこか憔悴しているように見える。王太子としての重責だけではない。セレイナのことが、今も兄の心を蝕んでいるのだろう。


「エリオス」


「なんだ」


「セレイナ嬢を……頼む」


 その言葉に、エリオスは静かに頷いた。


「ああ。わかってる」


 どんなに愚兄でも、どんなに愚弟でも、この世にいる二人きりの血の繋がった兄弟だ。ましてやお互いの肩には、多くの民の命が乗せられているのだ。力を合わせるべきところは合わせなければならない。愚かな真似をしたときに、お互いが指摘し、正していく。


 そう、言葉にしなくても、きっと兄は察してくれているのだろう。


 エリオスは、セラフィムがほんの僅かだけ逡巡を見せつつも差し出した手を、ゆっくりと、それでも力強く握り返した。

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