6 再会 -Chapter ヴァルター 【回想:1年前】
秋の日差しが街並みに降り注ぐ中、ヴァルターとミレーユは布市場を歩いていた。
ミレーユは新しい絹を探していた。冬の装いを整えるためだという。彼女の手は、ヴァルターの腕に自然と絡み付いていた。
「この色はどうかしら?」
ミレーユが淡青色の絹を手に取った。その布地を光に透かしながら、彼女の表情は明るく輝いていた。
ヴァルターは、その光景を眺めていた。自分の妻。その言葉がもたらす安定感と満足感。セレイナの面影すら薄れ始めていた。
「君に良く似合いそうだ」
彼は、妻と過ごす時間を大事にした。こうして過ごしていると、愛おしさが沸き上がってくる。誰よりも聡明で美しい自慢の妻。彼女のためならば、何でもできる。そう思えた。
その時だった。
人混みの中に、懐かしい銀色が光った。
ヴァルターの心臓が大きく跳ね、一瞬鼓動を止めた。
銀髪。可憐な容姿。気品に満ちた佇まい。
間違いない。
セレイナだ。
彼女は一人ではなく、侍女を伴って街を歩いていた。その姿は、かつてと何も変わらない。気品に満ちた歩き方。優雅な手の動き。そして遠目からでもわかる、その美貌。すべてが、あの庭園で彼の手を握っていたあのセレイナと同じ。
ヴァルターはその姿を見て、息を呑んだ。
「ヴァルター?」
ミレーユの声が聞こえたが、彼の意識はセレイナに向かっていた。
セレイナは、ふと顔を上げこちらに目線を向ける。そして、ヴァルターと目が合った。
彼女の瞳が一瞬見開かれるが、それはすぐに消えた。
セレイナはヴァルターを見たはずなのに、まるで街の風景の一部を映しているというような表情。
ヴァルターは、反射的に動こうとしたその時、セレイナが微笑んだ。それは、美しくで気品のある笑顔だったが、その笑顔の奥には、諦めに似たものを宿しても見えた。
そして、彼女とすれ違う瞬間。セレイナが再び立ち止まり、優雅に静かに頭を垂れた。
「公爵様。お久しゅうございます」
彼女の声は、穏やかだった。
「ご結婚なさいましたと、風の便りでお伺いしております」
セレイナの瞳がミレーユに向けられた。その視線には、一切の曇りがなかった。
彼女は、ミレーユに向かって微笑みかけた。
「とてもお美しい奥様ですね。どうか末永くお幸せに」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルターは理解した。
これは別れの言葉だ。
セレイナからの最後の言葉。
彼女はヴァルターを見つめたまま、静かに再び一礼した。その動作すら気品が満ちていた。
そして彼女は身を翻し、人混みの中へ消えていった。
ヴァルターは呆然と、彼女の後ろ姿を追った。
まるで時が止まったように、何の声も発することができなかった。ただ、ただ、彼女の存在が自分の心に深く入り込んできた。初めて言葉を交わしたあの日のように。魅入られるように。
ミレーユは、ヴァルターの腕を握った。
彼女はふと気づいたように、歩いてゆくセレイナを見ていた。
「お知り合いの方? 可憐で麗しい女性ですわね。ご結婚なさっておられるのかしら?」
その質問は一見さりげなく聞こえたが、鋭さを帯びていた。ヴァルターは何と答えるべきか、言葉が出なかった。
セレイナの姿は、もう人混みの中に消えていたが、彼女の最後の言葉はヴァルターの心に深く刻み込まれた。
『どうか末永くお幸せに』
別れの言葉。それを結局、彼女に言わせてしまった。宙ぶらりんで、待たせたままだった女性。己がしてきたことは、卑怯なんてものじゃない。それなのに彼女は……。
「ヴァルター。どうしたの? 顔色が悪いわ」
ミレーユの声が聞こえた。彼女の瞳は、何かを疑い始めていた。
ヴァルターは、ミレーユを見つめた。
妻の瞳にはヴァルターの前にいた女性について、何かを感じているのだとすぐにわかった。
だが、彼は何も説明しなかった。
いや、説明できなかった。
なのにミレーユは追及せず、ただ布を持ち直しヴァルターの腕をそっと引く。その仕草に優しさと、わずかな不安が感じ取れる。
ヴァルターは、彼女の手をしっかり握り返した。
「何でもないよ」
彼は、そう呟いた。
そして頭の中で、彼は初めて明確に思った。
これでいいんだ。
セレイナは、彼に自分たちの人生を歩むことを許した。彼女の最後の言葉は、その許しだったのだ。
もう、後ろを振り返ることはない。
ヴァルターは、ミレーユの手をしっかり握り、前へ歩み始めた。




