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59 空白 ーChapter セラフィム

 夏の日差しが強くなりつつある、その日。セラフィムは書類に目を通しながら、いつもと変わらぬ一日を過ごしていた。執務に目を通し、政務を進め、公務を果たし、外交儀礼にも臨む。王太子としての務めに、滞りはない。


 リージェリアには、あの一件以来、複数の補佐官が付けられた。加えて、王后エリザベルナが自ら選んだ女官も配置されている。彼女がわからないことがあれば、すぐに対応できる布陣だ。


 おかげで、リージェリアは執務にも慣れてきた。社交の方は元より得意としていたから、そちらは恙なくこなしている。


 夫婦関係も、悪くはない。


 あの夜、彼女を抱きしめて守ると誓った。二人の間に大きな諍いはない。リージェリアは以前のように甘え、セラフィムもそれに応えている。傍から見れば、仲睦まじい夫婦であるように見えるだろう。


 はずなのに。


 胸の奥に、拭えない何かがある。


 セレイナへの罪悪感は消えない。彼女を傷つけたのは、紛れもなく自分だ。その事実は、どれだけ時が経っても変わらない。


 だが、それとは別の何かが、心の奥底で燻り続けている。


 リージェリアを愛している。……それは、嘘ではない。


 なのに、どこかで彼女を信じきれない自分がいる。あの夜、全てを話してくれたと思いたい。思いたいのに、どうしても疑念が消えない。


 薬のことは、結局明らかにはならなかった。侍女たちは国外追放となり、真相は闇の中だ。


 リージェリアは何も知らなかったのか。本当に?


 その問いを、セラフィムは自分自身に禁じていた。問うてはならない。問えば、全てが壊れる。


 だから今日も、何も見ないふりをして過ごそうとする。反面、そうしようとすればするほどに、脳裏で何かが疼くのだ。セレイナの、痛々しいあの姿と共に。


 セレイナと離縁をしたあの日。

 それ以来、胸の奥の空白は、少しも埋まらないままだった。



 昼過ぎ、セラフィムは執務の合間に、回廊を歩いていた。


 柱の隙間から差し込む陽光が、白い大理石に影を落としている。無意識に柱の方へ目線をやると、警邏の制服を着た二人が談笑する声が聞こえてきた。


 警邏の指揮官と、その副官らしき男だ。顔は見たことがある。王都の治安を預かる、信頼の置ける出自は下位貴族の二人だった。


「この前、川に浮かんでた仏さん、あれどうなった?」


「ああ、あれか。娼館の雑役の男だった。酒癖が悪くて、喧嘩の末に刺されて川に落ちたってことで落ち着いた」


「そりゃ、その男も自業自得ってか、無念なこったなぁ」


「そうそう。それで、その時なんだがな……見間違いかもしれんが」


 声がわずかに潜められる。


「その雑役が居た娼館に調べに行ったときに、グレイストン公に似た方を見かけたんだ」


「まさか。あの方がそのような場所に?」


「だよなぁ。人違いだろうけれど。あの堅物の公爵が娼館など、考えられんしなぁ」


 二人は軽く笑い合った。そんな二人の後ろで、セラフィムは足を止めていた。


 グレイストン公。ヴァルター。


 ミレーユの夫であり、かつてセレイナと想いを通わせていた男。


「今の話」


 セラフィムが声をかけると、二人は弾かれたように振り返った。王太子の姿を認め、慌てて頭を下げる。


「せ、セラフィム殿下……! お耳汚しを……」


「いや、構わない」


 セラフィムは柔らかな調子で言った。


「それで、本当にグレイストン公だったのか?」


「いえ、確証はございません。遠目でしたし、顔をはっきりとは……」


「そうか」


 セラフィムは頷き、そして穏やかに、しかし釘を刺すように続けた。


「確証のない噂話は、ここで留めておいてくれ。彼の名誉に関わる。頼んだよ」


「は、はい! 勿論でございます。他言は決していたしません」


 二人は深々と頭を下げ、足早に去っていった。



 その場に残されたセラフィムは、暫く動けなかった。


 ヴァルターが娼館に通っている?


 あの堅物が?


 いや、もしかしたら……。


 脳裏に、あの日のことが蘇る。


 エリオスと彼の側近であるオクターブ、そして自身の側近であるチャリオットと共に、ヴァルターに全てを話した日。リージェリアとミレーユへの疑惑。二人が繋がり、セレイナを貶めたのではないかという疑い。そして、避妊薬のこと。


 あの時のヴァルターの顔を、セラフィムは忘れられない。何かが崩れていくような、そんな表情だった。


 もしかして、あの時全てを話したせいで……。


 彼とミレーユの間に、何かが起きているのだろうか。


 だが、あの判断は間違っていなかったはずだ。ヴァルターは第三者ではない。ミレーユの夫として、知る権利があり、そして背負うべき責任もあるはずだ。



 執務室に戻ると、チャリオットが書類を整えていた。セラフィムの表情を見て、何かを察したのか、手を止めた。


「殿下? 何かございましたか」


「……いや」


 セラフィムは椅子に腰を下ろし、窓の外を見つめた。


「チャリオット。以前、ヴァルター公に全てを話しただろう? ミレーユとリージェリアの疑惑も含めて」


「はい」


「あれは、間違っていなかったよな」


 チャリオットは少し間を置いてから、静かに答えた。


「勿論です。……何か、ありましたか?」


「……先ほど、警邏の者たちが話しているのを耳にした。娼館でヴァルター公によく似た人物を見かけたと」


「……そうですか。……気になられますか?」


 と、チャリオットが静かに問う。


「気にならないと言えば、嘘になるな……。だが、彼の私的なことだ。口出しはできない」


 セラフィムは目を閉じた。


「でも……なんだろうな。引っかかりを覚えてしまうんだ」


 チャリオットは少しだけ思案した後、口を開いた。


「……調べますか?」


「私的なことだが……」


 セラフィムは再び同じ言葉を繰り返し、そして続けた。


「……頼めるか?」


「畏まりました」


 正しいことをした。そう信じたい。


 だが、その正しさが、誰かを傷つけているのかもしれない。


 ヴァルターを。そして、ミレーユを。


 元婚約者の顔が、ふと浮かんだ。


 彼女は今、どうしているのだろうか。


 子も生まれ、公爵夫人として申し分のない働きをしていると聞いている。夫婦仲も良好だと。


 だが、もしヴァルターが本当に娼館に通っているのだとしたら……。


 現に娼館通いをしているにしろ、それはヴァルターの私的なことであって、他者が介入するべきことではない。ましてや、自分が関わるべきことではない。


 わかってはいるのに、思考の中に靄が張っているように、スッキリとしないものが色濃くなっていく。



 後日、セラフィムの元に上がった報告書には『月に数度、特定の娼館にて銀髪の娼婦を使っている』とあった。


「銀髪……」


 報告書の紙を見る目が、スッと薄まる。

 

 彼はセレイナの面影を娼婦に見ているのか?


 そう問わずとも、答えはわかりきっていた。


「公……。あなたも、苦しんでいるのか」


 セラフィムの口から、思わず零れ出た言葉。妻を信じられず、逃げ場を欲している。そう、思えてならなかった。

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