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58 航海祈願祭 ーChapter セレイナ

 港町に夏の祭礼がやってきた。


 航海祈願祭。航海の無事と豊漁を願う、船乗りや商人たちに昔から伝わる祭りだ。港には色とりどりの旗が翻り、通りには屋台が軒を連ねている。潮風に混ざり、焼き菓子の甘い香り、肉を焼く香辛料の香ばしさが漂ってきた。


 港の方に用意された、祭りの露店が並ぶ区画。その一角を借り受け、セレイナは台の上に商品を並べていた。天使の靴下、刺繍入りの手巾、香り袋。どれも丁寧に仕立てた自信作だ。


「セレイナ様、こちらの配置でよろしいですか」


 居館から手伝いに来てくれた若い侍従女(じじゅうめ)が、台の端に籠を置きながら尋ねる。


「ありがとう。そこで大丈夫です」


 結局、三人もの人手を借りることになった。エリオスの申し出を断りきれなかった自分に、少しだけ苦笑する。


 でもこうして、賑やかな祭りの日に店を出せるのは、やはり嬉しかった。



 祭礼が始まって暫く経った頃、露店の前に人だかりができ始めた。


「まあ、この刺繍、素敵ねぇ」


 船乗りの妻たちが、手巾を手に取りながら話している。


「この錨の模様、細かいところまで丁寧に縫ってあるのね」


「ありがとうございます。海に出る方たちの安全を願いながら、祈りを込めて縫っています」


 セレイナが答えると、女たちは嬉しそうに笑った。


「あんた『星の森』の店主さんだろう? 噂は聞いてたけど、本当に綺麗な銀髪とお顔だねぇ」


「ああ、うちの旦那も言ってたよ。港でちょっとした噂なんだってさ。若い男連中が『星の森って裁縫店に別嬪さんがいる』って」


「気品があるものねぇ。どこかのお嬢様なのかしら?」


「いえ、私はただの……」


 言葉に詰まったその時、傍らでガレーニャがさりげなく口を添えた。


「この子は私の従妹なんです。裁縫が得意なものですから、一緒に店をやっているんですよ」


「あらまぁ、そうなの。仲のいい従姉妹ねぇ」


 女たちは納得した様子で、次々と品を買い求めていく。気づけば、台の上の商品は半分ほどに減っていた。



 昼を過ぎた頃。


 港の方から、祭り独特の様々な楽器の音色が聞こえてきた。祝福の儀式が始まったのだろう。人々がそちらへ流れていき、通りは少し静かになった。


「セレイナ様、少し休まれてはいかがですか」


 侍従女の一人が声をかけてくれた。


「ありがとう。でも大丈夫です。皆さんこそ、交代で儀式を見てきてくださいね」


「でも……」


「私も残りますから、大丈夫ですよ」


 ガレーニャがそう言って、彼女たちを促した。侍従女たちは顔を見合わせた後、礼を言って港の方へと歩いていった。


 二人になった露店で、セレイナは椅子に腰を下ろした。


「ガレーニャも見てきてね?」


「いえ、私は別に。それより」


 ガレーニャが悪戯っぽく笑う。


「さっきのご婦人方の話、聞きました? 若い男連中に評判だそうで」


「もう、揶揄わないで」


「揶揄ってなんていませんよ。事実じゃないですか」


 セレイナは困ったように笑って、空を見上げた。夏の青空に、白い雲がゆっくりと流れている。


 その時「すみません、ガレーニャ先生、少し構いませんか?」と、見知った顔の女性が声を掛けてきた。


「はい、いいですよ。セレイナ様、少し席を外しますね」


「ええ」


 その場に一人になったセレイナは、浮かぶ雲を見ながらふと思う。


 去年の今頃、自分は何をしていただろう。


 城の中で、窓から見える空だけを眺めていた。あの頃は、こうして外の空気を吸うことすら、夢のようだった。


「……あの頃が、嘘みたい」


 独り言のように呟いた声に、別の声が重なった。


「今、この時間は嘘じゃないぞ」


 顔を声のした方へ向けると、エリオスが立っていた。

 薄い灰青の上着に、襟元はゆるく開けられている。ラフさの中にも気品が漂う、エリオスらしい清潔感のある装いをしていた。


「殿下……!」


 慌てて立ち上がろうとするセレイナを、エリオスが手で制した。


「そのままで。儀式の挨拶を済ませた帰りに、少し寄っただけだから」


 その後ろには、オクターブの姿もあった。


「お邪魔します。賑わっているようですね」


 オクターブがそう言いながら、台の上を見回す。


「はい。おかげさまで、皆さまお手に取ってくださって」


「それは良かった。殿下も安心しましたね」


「……別に、安心も何も」


 エリオスが素っ気なく言って、台の上の商品に目を向ける。


「かなり売れたんだな」


「居館の方々にも、本当によくしていただきました」


「そうか。なら、出店した甲斐があったか」


「はい」


 セレイナは小さく頷いた。


 エリオスが傍にいると、不思議と心が落ち着く。それは、ガレーニャといる時の安心感とも、侍従女たちへの感謝とも、少し違う気がした。何が違うのかは、うまく言葉にできない。ただ、胸の鼓動が少し早くなる。


 そんな風にやり取りをしていた時、


「すみません。オクターブ様、少しお願いがあるのですが」


 先ほどまで、祭に来ていた女性と話していたガレーニャが突然、声をかけた。


「あちらの方で気分が悪いという方がいるらしくて。この暑さですから、脱水症状かもしれません。一緒に来ていただけますか? もしもの場合、救護場へ連れて行かなければなりませんので」


「ああ、それは。殿下、少し失礼してもよろしいですか」


「もちろんだ。すぐに行ってやれ」


 オクターブとガレーニャが人混みの方へ歩いていく。セレイナは、久方ぶりにエリオスと二人きりになった現状に、僅かに頬が熱くなった。


 少しの静寂の時間。その合間を縫うように、遠くから祭の楽の音が聞こえてくる。


「……去年の今頃か」


 エリオスがぽつりと言葉を落とす。


「俺はこの辺境にいた。ここに来た数年前から、この風景は変わってはいない」


 エリオスの横顔を見つめる。彼もまた、遠くを見つめていた。


「……セレイナ、君が来た以外は、な」


「……え」


「あの頃が嘘みたいだと言っていたな」


「……はい」


「俺もだ。時間は、あっと言う間にすぎる。良いことも、悪いことも。だが……」


 エリオスがこちらを向き、セレイナと目が合う。


「今は、俺も、君も、ここにいる。それは確かなことだ」


「……はい」


 セレイナは、小さく微笑んだ。


 この方に助けていただいたから、今の自分がいる。店を持ち、自分の手で生計を立て、こうして祭りの日に笑っていられる。あの城の中で、死んだように生きていた自分が。


「殿下……ありがとうございます」


 何度言っても足りない言葉を、また口にしていた。それを聞いたエリオスは、ほんの少しだけ眉を寄せる。


「礼を言われるようなことはしていない」


「いいえ。私にとっては……」


 言葉が続かなかった。


 どう言えばいいのかわからない。この感謝と安心感、そして込み上げてくる温かさを。

 エリオスはしばらくセレイナを見つめていたが、やがて視線を逸らし、台の上の香り袋を手に取った。


「これは、俺が買ったものと同じ香りか?」


「はい。同じ調合です」


「そうか」


 彼は香り袋を元の場所に戻し、それから少し間を置いて言った。


「……この前買った香り袋は、執務室の机の引き出しに入れている」


「え?」


「書類仕事に疲れた時、少し気が紛れる」


 セレイナは目を瞬いた。


 エリオスは相変わらず素っ気ない顔をしていたが、その耳が微かに赤くなった気がした。


 気のせいかもしれない。


 でも。


「……よかったです」


 自然と、笑みが溢れる。


「お役に立てているなら、嬉しいです」


 エリオスは何も答えなかったが、セレイナにはその目元が緩んだように見えた。



 港の方から、人々が戻ってき始めた。海への祝福の儀式が終わったのだろう。


 オクターブとガレーニャも、人混みの方から戻ってきた。


「殿下、戻りました。そろそろ次の視察に向かわれたほうがいいかと」


「ああ、わかっている」


 エリオスが腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、踵を返そうとしたその時、


「殿下」


 気がつくと、セレイナは彼を呼び止めていた。


「どうした?」


「あの……」


 何を言いたかったのか、自分でもわからない。ただ、もう少しだけ、ここにいてほしいと思った。


「……いえ。お気をつけて。今日はありがとうございました」


 セレイナは慌てて頭を下げた。


 エリオスは少し口元を緩め、「ああ」とだけ答えて歩き出し、オクターブが軽く会釈をして、その後に続く。


 二人の背中が人混みに消えていくのを、セレイナは見送った。胸の奥に、小さな寂しさが残る。それが何なのか、自分でもわからない。もしかしたら、わかっていつつも認めることを、拒否しているのかもしれない。


 でも、エリオスがまた来てくれることを、心のどこかで願っている自分がいた。


「……行かれましたね」


 ガレーニャが隣に立ち、同じ方向を見つめながら言った。


「そうね……」


「セレイナ様」


「なあに?」


「……いえ、何でも」


 ガレーニャは穏やかに微笑んだ。その目が、何かを見透かしているようで、セレイナは少し居心地が悪くなる。


「そんな顔で……見ないで」


 セレイナの頬が少し赤くなった。そんな彼女を見たガレーニャは、言葉を継ぐ。


「オクターブ様がおっしゃってましたよ。殿下、最近は表情が柔らかくなられたと」


「……そう、なの?」


「ええ。きっと、今の辺境の空気が合っているのでしょうね」


 ガレーニャはそれ以上は何も言わず、台の商品を整え始めた。


 セレイナは、エリオスが消えていった方向をもう一度見つめた。表情が柔らかく、という言葉が脳裏に張り付き、言いようのない感情と交じり合ってゆく。


 楽団が奏でる音色に、人々の賑やかな声と潮風の香りが混ざり合う。その全てが、今日はとても特別なものに感じられた。

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