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57 夏の光 ーChapter エリオス

 夏がそろそろ盛りを迎える頃。辺境の港町は、強い陽射しに照らされていた。


 エリオスは馬車を降りると、オクターブと共に石畳の通りを歩いた。潮の香りが風に混じり、荷揚げの声が遠くから聞こえてくる。


「殿下。今月に入って、もう三度目ですね」


「……それがどうした」


「いえ、何も」


 オクターブは何の感情も乗せずに答えたが、その目はどこか楽しげだった。


 通りを抜けた先に、白壁の小さな店が見えてくる。『裁縫店ー星の森』と記された木の看板。窓辺には夏の花が飾られ、扉は開け放たれていた。



 店内に足を踏み入れると、針仕事をしていたセレイナが顔を上げた。


「エリオス殿下。オクターブ様も」


 彼女は驚いた表情の後、嬉しそうな笑みを浮かべる。


「また来てしまいました。お仕事中にすみません」


 オクターブがそう言いながら、店内を見回す。


 棚には丁寧に仕立てられた品々が並んでいた。麻の肌着、薄手の寝間着、レース編みの襟飾り。そして、あの『天使の靴下』が色とりどりに揃っている。小さな星と翼の刺繍が、それぞれ少しずつ違う意匠で施されていた。


 エリオスは棚に近づき、手巾を手に取った。縁には小さな錨と波の模様。港町らしい図案だ。


「これは」


「船乗りの方々の奥様に人気があって。航海の無事を祈る意味を込めているんです」


 セレイナが傍に来て、説明を加えた。


「客の要望を聞いて、図案を考えたのか」


「はい。皆さんそれぞれ、大切な方がいらっしゃいますから。その想いを形にできたらと思って」


 エリオスは手巾を棚に戻した。ふと、その隣に並んだ小さな巾着袋が目に入る。


「これは?」


「香り袋です。乾燥させた花弁と香草を詰めてあります」


 手に取ると、ほんのりと花の甘い香りがする。


「衣装箪笥に入れておくと、衣に香りが移るんです。船乗りの方が長い航海から戻られた時、奥様の香りがすると安心するそうで。お好きな香りを入れたりもできますから」


 その言葉に、エリオスは袋を見つめたまま、少し黙った。


「……ひとつ、買わせてもらってもいいか?」


「え?」


「駄目か?」


「いえ、そういうわけでは……ありがとうございます」


 セレイナが戸惑いながらも、丁寧に包んでくれる。エリオスはその様子を見ながら、自分が何をしているのかと思った。


 香り袋など、使う当てもない。だが、彼女の作ったものを手元に置いておきたかった。それだけだ。



 奥からガレーニャが顔を出し、果実水を盆に載せて運んできた。


「殿下、オクターブ様。暑い中お疲れ様です。どうぞ、果実水です。脱水症状を起こされますと大変ですからね。水分補給はしっかりと」


「すまないな」


 小さな応接の間で、皆がそれぞれ椅子に腰を下ろす。セレイナは果実水を注ぎながら、近況を話した。


「来月、港で航海祈願の祭礼があるそうなんですが。その時に品を並べてみないかと、お声がけいただいたんです」


「ほう? 出すのか?」


「いえ、お断りしました」


 エリオスが眉を上げる。


「なぜだ? 店を知って貰えるいい機会だろう?」


「店を空けることになりますし、私とガレーニャの二人でで出店の準備をするのも大変ですから。無理はしないことにしているんです」


 セレイナの声は穏やかだった。言い訳でも遠慮でもない。自分の力量を弁えた上での判断だと、すぐにわかった。


「手伝いを出そうか」


「いえ、大丈夫です」


 きっぱりとした返事だった。


「殿下には、もう十分すぎるほどよくしていただきました。これ以上ご迷惑はおかけできません」


「迷惑ではない」


「それでも」


 セレイナは微笑んだ。


「自分の足で歩くと決めましたから。少しずつ、自分のできる範囲で広げていきます」


 その言葉に、エリオスは暫し黙った。彼女は求めもしないし、頼らない。自らの力で地に足をつけて、人生を歩もうとしている。それが眩しくもあり、同時に歯痒くもあった。


「……そうか」


 エリオスは果実水を一口含んでから一呼吸置くと、何気ない調子で続けた。


「祭礼の日は、俺も港の視察に出る予定だ」


「そうなのですか?」


「ああ。交易量と人の往来が増えている時期だからな。オクターブ、確か当日は人手が要ると言っていたな?」


 突然話を振られたオクターブは、一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに涼しい顔で応じた。


「ええ、はい。祭礼は人出も多いですから。荷の運搬やら警備やら、居館の者を何人か出す予定です」


「その者たちだが、祭礼の間は暇を持て余すだろう。どこか働き口があれば、遊ばせておくより余程いい」


 エリオスはセレイナに目を向けた。


「もし人手が足りないところがあれば、使ってやってくれ。俺のためではなく、働かせてやるためだ」


 セレイナは少し目を見開いた。


 それから、小さく笑った。


「……殿下は、お上手ですね」


「何がだ?」


「いえ、何でもありません」


 セレイナは器を両手で包み、その冷たさを確かめるように指先を動かした。


「では、もしその方たちが本当にお暇でしたら……お手伝いいただけると、嬉しいです」


「そうか。では、そういうことだ」


 エリオスは素っ気なく答えたが、その目元がわずかに緩んでいたことに、本人は気づいていない。


 傍らのオクターブとガレーニャは微笑ましく、静かにそれを見ていた。



 帰り際、エリオスはふと足を止めた。


 棚の隅に、見慣れた色の瓶が並んでいる。レーヌ商会の香水瓶だ。かつて王都で買い求め、彼女に贈ったもの。栓の形がそれぞれ違う、あのシリーズのものだ。


 瓶は空になっていたが、小さな花が一輪ずつ挿されていた。


「あ……」


 セレイナが視線に気づき、少し頬を染めた。


「綺麗な瓶でしたから。捨てるのが勿体なくて」


「そうか」


 エリオスは、それ以上何も言わなかった。


 ……嬉しいだとは、気恥ずかしく、言えなかった。



 馬車が港町を離れ、居館への道を進む。

 

 エリオスは窓の外を見つめたまま、手の中の包みを握っていた。香り袋。仄かな甘さが、まだ指先に残っている。


「殿下」

 

 オクターブが静かに口を開いた。


「なんだ」


「その香り袋、どうなさるおつもりで?」


「……わからん」


「そうですか」

 

 沈黙が落ちる。馬車の車輪が石畳を踏む音だけが響く。


「殿下」


「なんだ」


 繰り返されるオクターブの呼びかけに、エリオスは面倒だと言わんばかりに眉を寄せて返事をする。


「私が申し上げるのも何ですが」


「言いたいことがあるなら、さっさと言え」


「セレイナ様、本当にお綺麗になられましたね」

 

 エリオスは答えなかった。

 

 わかっている。

 

 彼女が美しいことも。その美しさが、外見だけのものではないことも。後見人だとは言え、自分がなぜ、月に何度もあの店に足を運ぶのかも。

 

 だが。

「俺は残念だが、王族だ。これは決して覆らない。彼女は、王家の……俺の家族のせいで、あんな目に遭った。そしてやっと、自分の足で立ち始めたところだろ」


「はい」


「また……巻き込むわけにはいかん」


「……そうでしょうか」

 

 オクターブの声は穏やかだった。


「巻き込むかどうかは、セレイナ様がお決めになることでは?」


「彼女は賢い。俺が何か言えば、断れなくなる」


「では、何も仰らないと?」


「ああ」

 

 エリオスは目を閉じた。


「俺も彼女も、一人で生きていくことに不安はない。そういう人間だ。だから、このままでいい」


 『見守ると決めたのだから』と、エリオスはその言葉は口からは零さず、飲み込んだ。


「本当に、そうお思いですか?」


「……ああ」

 

 嘘ではない。一生独身でも構わないと、ずっと思ってきた。王族の結婚は面倒事が多い。跡目争い、政略、派閥というようなことに、関わりたいとも思えなかった。そんな自身の考えは既に、両親にも伝えており、敢えて婚約者も作らずにいた。女性との交流をしてこなかったわけではない。だが、本気になることもなく、恋愛や惚れた腫れたというような関係になるようなことは、してこなかった。

 

 冬の間、ポツリポツリと自身のことを話してくれたセレイナも、同じだと言っていた。結婚に夢を見ず、ひとりでも生きていけると。それはそうだろう、と思った。それこそ彼女は、恋愛や結婚に、夢を持てるような経験をしてこなかったのだ。

 

 だからこそ、二人の間には余計な駆け引きがない。下心なく、ただ純粋に、互いを案じることができる。

 心地のよい距離感。その居心地の良さを、壊したくなかった。


「殿下」


「だから、なんだ」


「来月の祭礼、楽しみですね」

 

オクターブが何気ない調子で言った。


「……視察だ」


「ええ、もちろん。視察ですね」

 

 エリオスは寄せた眉を深くし、ため息をつきつつも、オクターブをギロリと睨む。


「その言い方はなんだ」


「いえ、何も。その眼付き、お行儀の悪いころへ戻ってますよ」

 

 エリオスに睨まれながらもオクターブは、何ともないように涼しい顔のまま、窓の外へ目を向けた。


「ただ、先ほどのお言い回し、見事でしたね。『俺のためではなく、働かせてやるためだ』とは。セレイナ様も断りようがない」


「……うるさい」


「殿下がそこまで女性に、気を遣われるとは……」


「黙れ」

 

 オクターブは肩を竦めた。が、その口元には楽しそうに笑みを浮かべていた。

 エリオスは窓の外に目を戻す。夏の陽射しが眩しい。遠くに、白壁の店がまだ小さく見えていた。

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