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56 菫の香り ーChapter ヴァルター

 夏の盛りの頃。首の座ったアレクセイは日増しに愛らしくなり、その豊かな表情で周囲を和ませていた。  


 グレイストン公爵邸は新たな家族の誕生に湧き、月日を重ねるたびに、明るい笑い声に包まれていた。


 ……あくまでも、表向きは。



 その日もヴァルターは、定例である評議会へ参加した帰り道、人目を忍ぶように娼館へと足を運ぶ。


 この頃になると、銀髪の娼婦に他の客を取らせたくなくなったヴァルターは大金を店へ払い、彼専用として囲うようになった。だがそれも、ヴァルターにとっては、微々たる金額である。


 本当ならば、娼館から引き揚げさせ、別で小さくても邸を与えても良かったのだが、そうするとミレーユに勘づかれるリスクを伴う。

 それならば、火遊びの範疇として言い訳の立つ娼館への出入りの方が、疑いの目も逸らしやすい。  

 

 女主人もその意を汲み、最上等の部屋を二人のために用意していた。


 娼館の門を潜ったヴァルターは、いつもと違う浮足立った空気に眉を顰めた。少し歩くと見えてくる、門番の下男に声を掛けた。


「何か、あったのか?」


 声を掛けられた男は、ヴァルターに気付くとひとつ頭を下げ、声を潜めて話し出す。


「へぇ。ここで働いていた雑役の男が死んだんでさぁ」


「死んだ? 病だったのか?」


「いんや。奴は酒癖が悪ぅて。酔っぱらっちまって、喧嘩でもしたんでしょうな。腹を刺されてそんまま、川へ転落死してたらしいでさぁ」


「それで、この騒ぎなのか?」


「……雑役は大体身よりがねぇ奴らばかりなもんで……。ここの木札を奴が持ってて、それを頼りに警邏が来たようでさぁ」


「なるほどな……」


「今日は裏から、廻っていきますか? 旦那」


 下男はヴァルターの顔色を窺うように見上げ、顎をしゃくった。


「そうだな。知り合いがいるとも限らん……。そうしてくれるか」


「へぇ。ではこちらから」


 ヴァルターは正規の入り口を避け、細い路地の奥にある裏口から館へと姿を消した。



「ヴァルター様、お待ちしておりましたわ」


 ヴァルターが、いつも使う部屋へはいると、鏡台で髪を梳いていたのだろう、銀髪の女性が扉を振り返った。彼の姿を認め、椅子から立ち上がって優雅に礼をする。


「あぁ、セレイナ。そのままで」


 ヴァルターは彼女の元へ歩み寄ると、その華奢な肩を押し、再び椅子へと座らせた。


「今日は君に、贈り物を持ってきたんだ」


「贈り物ですか? いつも十分に頂いておりますのに……」


「そう言わずに。受け取ってもらえないかな?」


「ヴァルター様からの贈り物は、いつでも嬉しいです」


 彼が『セレイナ』と呼ぶその女は、花が咲いたように微笑む。


 ヴァルターはその顔を満足そうに眺めた後、懐から丁寧に包装された長細い箱を取り出した。


「これを」


 そう言い、彼女に渡す。恭しくそれを受け取った彼女は、手元で丁寧に箱を撫でる。


「開けてみて」


「はい」


 指先でリボンを解き、包装を開く。中から現れたのは、ヴァルターの瞳と同じ色をした、透き通る琥珀色の小瓶だった。


「これは……香水、でしょうか?」


「そう。髪用の香油でね。少しつけてみてくれるかい?」


「勿論ですわ」


 彼女は言われるがままに瓶のふたを開け、数滴を掌に落とすと、銀の髪へと馴染ませるようにゆっくりと撫でつけた。


「……凄くいい香り」


「ああ、やはり君のような人にはとても良く合う」


 そう言ったヴァルターは、彼女を後ろから抱きしめその髪に顔を埋めた。


「気に入ってくれたかな? これからも愛用してくれるかい?」


「勿論。とても気に入りましたわ。ありがとうございます、ヴァルター様」


 ヴァルターは、彼女の髪に顔を埋めたまま、もう一度深く深呼吸をし、強く抱きしめ直す。


 そこから薫り立つ、気品にみちた(スミレ)の香りがヴァルターの鼻腔を甘く、優しく擽った。


 抱きしめられたままの彼女は、手にした琥珀色の瓶を、鏡台に並ぶ赤鈍色の瓶の横へ、ゆっくりと置いた。

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