56 菫の香り ーChapter ヴァルター
夏の盛りの頃。首の座ったアレクセイは日増しに愛らしくなり、その豊かな表情で周囲を和ませていた。
グレイストン公爵邸は新たな家族の誕生に湧き、月日を重ねるたびに、明るい笑い声に包まれていた。
……あくまでも、表向きは。
☆
その日もヴァルターは、定例である評議会へ参加した帰り道、人目を忍ぶように娼館へと足を運ぶ。
この頃になると、銀髪の娼婦に他の客を取らせたくなくなったヴァルターは大金を店へ払い、彼専用として囲うようになった。だがそれも、ヴァルターにとっては、微々たる金額である。
本当ならば、娼館から引き揚げさせ、別で小さくても邸を与えても良かったのだが、そうするとミレーユに勘づかれるリスクを伴う。
それならば、火遊びの範疇として言い訳の立つ娼館への出入りの方が、疑いの目も逸らしやすい。
女主人もその意を汲み、最上等の部屋を二人のために用意していた。
娼館の門を潜ったヴァルターは、いつもと違う浮足立った空気に眉を顰めた。少し歩くと見えてくる、門番の下男に声を掛けた。
「何か、あったのか?」
声を掛けられた男は、ヴァルターに気付くとひとつ頭を下げ、声を潜めて話し出す。
「へぇ。ここで働いていた雑役の男が死んだんでさぁ」
「死んだ? 病だったのか?」
「いんや。奴は酒癖が悪ぅて。酔っぱらっちまって、喧嘩でもしたんでしょうな。腹を刺されてそんまま、川へ転落死してたらしいでさぁ」
「それで、この騒ぎなのか?」
「……雑役は大体身よりがねぇ奴らばかりなもんで……。ここの木札を奴が持ってて、それを頼りに警邏が来たようでさぁ」
「なるほどな……」
「今日は裏から、廻っていきますか? 旦那」
下男はヴァルターの顔色を窺うように見上げ、顎をしゃくった。
「そうだな。知り合いがいるとも限らん……。そうしてくれるか」
「へぇ。ではこちらから」
ヴァルターは正規の入り口を避け、細い路地の奥にある裏口から館へと姿を消した。
☆
「ヴァルター様、お待ちしておりましたわ」
ヴァルターが、いつも使う部屋へはいると、鏡台で髪を梳いていたのだろう、銀髪の女性が扉を振り返った。彼の姿を認め、椅子から立ち上がって優雅に礼をする。
「あぁ、セレイナ。そのままで」
ヴァルターは彼女の元へ歩み寄ると、その華奢な肩を押し、再び椅子へと座らせた。
「今日は君に、贈り物を持ってきたんだ」
「贈り物ですか? いつも十分に頂いておりますのに……」
「そう言わずに。受け取ってもらえないかな?」
「ヴァルター様からの贈り物は、いつでも嬉しいです」
彼が『セレイナ』と呼ぶその女は、花が咲いたように微笑む。
ヴァルターはその顔を満足そうに眺めた後、懐から丁寧に包装された長細い箱を取り出した。
「これを」
そう言い、彼女に渡す。恭しくそれを受け取った彼女は、手元で丁寧に箱を撫でる。
「開けてみて」
「はい」
指先でリボンを解き、包装を開く。中から現れたのは、ヴァルターの瞳と同じ色をした、透き通る琥珀色の小瓶だった。
「これは……香水、でしょうか?」
「そう。髪用の香油でね。少しつけてみてくれるかい?」
「勿論ですわ」
彼女は言われるがままに瓶のふたを開け、数滴を掌に落とすと、銀の髪へと馴染ませるようにゆっくりと撫でつけた。
「……凄くいい香り」
「ああ、やはり君のような人にはとても良く合う」
そう言ったヴァルターは、彼女を後ろから抱きしめその髪に顔を埋めた。
「気に入ってくれたかな? これからも愛用してくれるかい?」
「勿論。とても気に入りましたわ。ありがとうございます、ヴァルター様」
ヴァルターは、彼女の髪に顔を埋めたまま、もう一度深く深呼吸をし、強く抱きしめ直す。
そこから薫り立つ、気品にみちた菫の香りがヴァルターの鼻腔を甘く、優しく擽った。
抱きしめられたままの彼女は、手にした琥珀色の瓶を、鏡台に並ぶ赤鈍色の瓶の横へ、ゆっくりと置いた。




