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55 安堵と屈辱 ーChapter ミレーユ

 里帰りから二週間ほどが過ぎた、ある朝のことだった。

 

 朝食を終え、食後の茶を楽しんでいると、執事が銀盆に載せた一通の手紙を運んできた。


「奥様、ラフォード侯爵閣下より書状でございます」


「まあ、お父様から? 珍しいわね」


 ミレーユは小首を傾げ、不思議そうに手紙を受け取った。対面に座るヴァルターも、カップを置いて視線を向ける。


「義父上からか。何かあったのか?」


「わかりませんわ。急ぎの用事かしら」


 ミレーユは、執事がそっと差し出したペーパーナイフを受け取り、丁寧に封を切る。中から取り出した便箋に目を通すと、彼女の表情がぱっと華やいだ。


「まあ、嬉しい! 見つかったのね」


 心底嬉しそうな声を上げるミレーユに、ヴァルターが興味深そうに身を乗り出す。


「良い知らせか?」


「ええ、とても。ヴァルター、これを見てくださる?」


 ミレーユは広げた手紙を、喜びを隠せないといった様子で夫へと差し出した。


「先日、実家へ戻った折にふと思い出して、お父様にお願いしていたの。弟の……サンジュルドが赤子の頃に使っていた産着のことよ。とても質の良い刺繍入りのもので、アレクセイにも着せてあげたいと思っていたのだけれど、どこに仕舞ったかわからなくなっていて」


 ヴァルターが手紙を受け取り、目を通す。

 

 そこには確かに、侯爵の筆跡で『頼まれていた品が整った。いつでも取りに来なさい』と記されていた。どこからどう読んでも、初孫を可愛がる祖父からの、他愛ない連絡にしか見えない。


「サンジュルド君のか。今は確か、寄宿舎に入っているのだったな」


 ヴァルターは手紙から顔を上げ、穏やかに相槌を打った。その表情はいつも通り、穏やかで優しく、完璧な良き夫のものだ。


「ええ。思い出の品ですもの。……ですので、今日の午後、受け取りに実家へ戻ってもよろしいかしら?」


「ああ、もちろん構わないよ。アレクセイも連れて行くのか?」


「いいえ。あの子は今日、少し寝つきが浅かったみたいだから、連れまわすのは可哀想だわ。乳母と侍女に任せて、私一人で行ってきます。夕刻までには戻るようにするわ」


「そうか。わかった。こちらのことは気にしなくていい。気を付けて行っておいで」


 ヴァルターは快く送り出した。

 

 ミレーユは内心で冷ややかに笑う。彼が快諾したのは、妻がいない数時間を『自由』だと感じたからではないか。そんな邪推が頭を過ぎるが、表情には一切出さずに優雅に微笑んでみせた。


「ありがとう、ヴァルター。お土産は貴方の好きな、白葡萄酒でも買ってくるわね。行って参ります」



 数刻後。ミレーユがラフォード侯爵邸の書斎に入ると、空気は一変した。

 

 彼女が椅子に腰を下ろすや否や、父侯爵は人払いを済ませ、重厚な扉に鍵をかけた。机の上には、すでに一通の報告書が置かれている。


 侯爵は娘の顔をじっと見据え、低い声で切り出した。


「お前が前回、泊まりがけでこちらに来た夜の話だ。どうやらあの夜、ヴァルター公は動いていたようだ」


 ミレーユの眉がぴくりと動く。やはり、妻の目が届かない夜を選んで動いたのか。その事実に、胸の奥でどす黒い感情が渦巻く。


「結論から言おう。……相手は、セレイナ妃ではない」


 その言葉を聞いた瞬間、ミレーユの身体から一気に力が抜けた。緊張で張っていた糸が切れ、安堵のあまり椅子に深く身を預ける。


「……ああ、よかった……」


 心底からの安堵だった。


 相手がどこの誰であろうと、ただの火遊びなら構わない。金で解決できるか、あるいは無視すればいいだけの話だ。


 だが、あの忌まわしい女だけは別。


 ミレーユの矜持が、心が、感情が、決して許さない。


「ありがとうございます。やはり私の杞憂でしたのね。……それで、お相手はどこの家門のご婦人ですの? それとも未亡人?」


 ミレーユは扇子を開き、口元を隠して優雅に微笑んだ。勝利の確信が、彼女の表情に余裕を取り戻させる。


 だが、父は答えなかった。眉間の皺を深くし、言いづらそうに視線を逸らす。


「……それが、どうやら貴族ではないらしい」


「あら、では平民? 商人の娘とかかしら」


「違う。……娼婦のようだ」


 その言葉に、ミレーユは拍子抜けしたように瞬きをした。そして次の瞬間、くすりと小さく笑った。


「まぁ……娼婦、ですの?」


 扇子で口元を隠し、さらに肩の力を抜く。


「なんだ、そんなことでしたのね。驚かせないでくださいませ、お父様。……貴族男性ですもの。私も産後でしたし、その……多少そういった場所を利用していても、寧ろ目を瞑るべき範疇のことですわ」


 ミレーユの心には、明らかな余裕が戻っていた。

 

 家や立場を脅かすような『本気の恋』でなければいい。ただの性欲処理なら、生理現象のようなものだ。公爵家の跡取りも産んだ今、夫が外で多少遊ぼうが、何ら問題はない。


「そうだな。ただの火遊びなら、私もわざわざここまで慎重になり、報告はせん」


 侯爵の声は低く、重かった。ミレーユの余裕を打ち砕くように、鋭い視線が突き刺さる。


「問題は、彼がその娼館で誰を使っているか、だ」


「誰って……ただの娼婦でしょう?」


「報告によれば、彼はそこで必ず……『銀髪の女』を指名している」


 え?


 ミレーユの動きが止まった。


「……銀髪?」


「そうだ。その店に一人だけいる、珍しい銀髪の娼婦だそうだ。彼は他の女には目もくれず、必ずその女を使う」


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 銀髪。この国では珍しいその髪色。

 

 ミレーユの知る限り、その髪を持つ女は数少ない。


 セレイナ。


 記憶の蓋が開き、あの夜の出来事が鮮明に蘇る。肌を重ね、熱に浮かされた夫が、ミレーユの耳元で漏らした言葉。


『……セレイナ……』


 何度も、杞憂だと思おうとした。

 

 だが、事実は違ったのだ。


 彼は外で、銀髪の女を抱いている。セレイナと同じ色の髪を持つ女を。


 扇子が、音もなく絨毯の上に滑り落ちた。ミレーユの顔から、血の気が引いていく。


(……やはり、そうだったの?)


 ミレーユの脳裏に、今朝のヴァルターの顔が浮かんだ。

 

 彼はいつも通りだった。優しく微笑み、私を気遣い、アレクセイを愛おしそうに見つめていた。完璧な夫。完璧な父親。


 あれは、嘘?


 いいえ、そんなはずはない。あんなに私を愛おしそうに抱くのに。あの日、ハープを弾いた夜、彼は間違いなく私を選んだ。セレイナを排除し、私が彼を勝ち取ったはずだ。


 なのに、なぜ?

 

 なぜ今さら、裏であの女の幻影を追い求めているの?


(……ヴァルターは、私を見ていなかったの?)


 疑念が、黒いインクのように心に滲み広がる。


 もし、彼が娼婦を抱きながら『セレイナ』と呼んでいるとしたら?

 あの夜、私を抱きながらそう呼んだように。


 私のことも、セレイナだと思って抱いているの?


 ミレーユの背筋に、冷たいものが走った。


 娼館で偽物を抱き、過去の女を求めているのに。家では、何事もなかったかのように、愛する夫であり続けている。


 その変わらなさが、急に得体の知れないものに思えてきた。


 彼は何を考えている?私の隣で笑いながら、本当は誰を見ている?


「……お父様。ひとつ、確認したいことが」


 顔を上げたミレーユの瞳からは、かつての輝きが消え失せ、ただ暗く冷たい炎だけが揺らめいていた。


「なんだ?」


「その銀髪の娼婦。まさか……本物のセレイナ妃では、ありませんわよね……?」


 表向きはまだ、離縁のことは発表されていない。このミレーユの質問は、決して公では口にしてはならない禁忌だ。だがそれでも、ミレーユはその名前を落とした。父侯爵も、その意味は察して余りあったのか、そのことについては何も言わず、ただ、ゆっくりとかみ砕くように答えた。


「ああ。そこは別人で間違いはない。似ているのは髪色だけで、似ても似つかない容姿らしい」


「そうですか」


 万が一にもあり得ないことではあったが、セレイナではないとハッキリ否定されたことで、一瞬安堵する。が、直ぐにまた、ギリギリと胸が痛みだす。


 その痛みを誤魔化すように、ミレーユはなるべく落ち着いた声色で父を改めて見た。


「……アレクセイの産着を。持って帰らなくてはなりません。……大丈夫。私は公爵家の女主人であり、この侯爵家……お父様の娘ですもの。きっちり処理いたしますわ」


 強がりにも聞こえるその言葉に、侯爵は短く息を吐いた。


「ああ。産着は用意させてある。ミレーユ……あまり、思いつめるなよ。どうしようもないときは、必ず私を頼りなさい」


「ええ、勿論です、お父様。……いつもお心遣い感謝しておりますわ……」


 父がベルを鳴らし、侍女を呼ぶ。ミレーユは化粧を直し、完璧な微笑みをその顔に貼り付けた。



 帰り道、馬車の中でミレーユは、膝の上に置かれた美しい刺繍の産着を見つめた。

 

 弟が使い、今度は我が子が使うはずの、愛の象徴。そして、約束通り買った高級な白葡萄酒の包み。


 だが、彼女の目には何も映らない。


 ただ、『銀髪』という事実と、あの夜聞いた『セレイナ』という夫の声だけが、頭の中で巡り離れてくれなかった。


 排除したはずなのに!

 

 勝ったはずなのに!


 なぜ、亡霊がそこにいるの?


「……偽りだわ」


 誰にともなく呟く。


 すべては偽り。愛も、勝利も、幸福も。


 忌まわしい銀髪の女。


 ミレーユはギリリと奥歯を噛み締め、産着の柔らかな布地を、指が白くなるほど強く、強く握りしめた。

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