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54 相談 ーChapter ミレーユ

 小広間に入ると、父侯爵は立ち上がった。


「よく戻った、ミレーユ」


 それだけで十分な挨拶だった。視線は乳母の腕のアレクセイへ向かう。


「アレクセイを抱かせてもらえるか?」


 乳母が抱き上げ直して差し出すと、侯爵は腕に受け取った。眠ったままの顔を見下ろし、普段は崩れない目元がわずかに緩む。


「目元はミレーユ、お前に似ているな。利発そうだ。生まれたての頃より、随分としっかりとした顔になりおった」


 頬の張り、指の伸び、呼吸の安定を順に確かめる。


「骨のつき方もよい。泣かんのもいい。……うむ、これはよい子だ」


 珍しく言葉が続くので、ミレーユは胸が温かくなる。


「髪色は……ヴァルター様に似たかもしれませんわ」


 アレクセイの薄い茶色の髪を見てミレーユがそう言った瞬間、侯爵は間髪入れずに返した。


「赤子のころは皆、色が薄い。色素が落ち着けば、お前のように美しい髪色になる。我が家門の血筋を引いた子だ」


 あまりにも断言的だったので、ミレーユは継母と目を合わせ、思わず笑みをこぼした。そのことに、侯爵は気づかぬふりで続ける。


「……鼻筋はあちらのグレイストン家の血だな。ヴァルター公に似ておる。悪くはない。むしろ整っている。女泣かせになりそうだ」


 公平さと贔屓目が同時に滲む、父侯爵らしい褒め方だった。


 侯爵は満足げに息をつき、乳母へ返す。


「大事に育てているな。引き続き頼む」


 乳母が頭を下げる。その姿を見ていた夫人が穏やかに言った。


「本当に、落ち着いた抱き方をする方ね。流石、あなたが選んだ乳母だわ」


「ええ。信頼できる方ですわ」


 そう答えると一呼吸置いたミレーユは、父へ向き直る。


「お父様。せっかく戻ってまいりましたので、少々領地のことで、ご教示頂きたいことがございますの……少しお時間を頂戴しても、構いませんでしょうか」


 その言葉に、夫人の表情がわずかに和らぐ。ミレーユは、個人的な話を父侯爵としたいのだろうと察したのだ。


「まあ、そういうことなのね。なら、アレクセイのことは私に任せて頂戴。可愛い孫と過ごせるのですもの。本当に嬉しいわ。乳母もいることだし、あなたは気にせずお父様と行ってらっしゃいな」


「ありがとうございます、お母様」


「いいのよ。あなたたちが居るだけで、邸が華やぐわ。ずっと居てくれてもいいくらい」


 そんなことを夫人は口元を緩めながら、本当に嬉しそうに話す。そうしてアレクセイを抱いた乳母と侍女を共に、部屋を辞した。扉が閉まり、父と娘だけが残る。


「では、書斎へ行こうか」


「はい、お父様」


 二人は並んで廊下を進んだ。



 書斎に入ると、侯爵は執務机の前に立ち、ミレーユが腰を下ろすのを待ってから椅子に身を預けた。


「それで。本当は、何を聞きに来た」


 先ほどまでアレクセイを見ていた目は既に、侯爵そのものの鋭い眼光に変わっていた。


「実は……旦那様のことでご相談がありますの」


「聞こう」


 侯爵は指先を組み、娘の言葉を促した。


「旦那様は、夫としても父としても、私とアレクセイをとても大切にしてくださっております。彼は、政務や公務は勿論ですが、領地のこと、子に対しても誠実でいてくださいます。ただ……ここ暫く……妻として申し上げることは憚られるのですが……このようなこと、身内にしか相談もできず……」


 侯爵はわずかに眉を動かしただけで、淡々と答えた。


「……女か?」


 ミレーユは肯定も否定もせず、ただ視線を伏せる。その沈黙こそが雄弁な答えだった。


 侯爵は組んだ指先をトントンと鳴らし、諭すように口を開く。


「ミレーユ。貴族の男になら、愛人の一人や二人はいて当然だ。それも含めて甲斐性のうちと言える。見て見ぬふりをしてやるのも妻の品位だ」


 そこで一度言葉を切り、声を潜めた。


「だが、妻に疑念を抱かせるような脇の甘さは論外だ。遊びなら墓場まで隠し通すべきで、露見するようではただの阿呆だと言わざるを得ん」


 ミレーユは伏せていた顔を上げ、父を胡乱気にじっと見つめた。


「では、まさか。……お父様にもいらっしゃいますの?」


 侯爵は書類へ伸ばしかけた手を止め、娘を見返す。


「今の理屈を聞いていて、それを父に訊くか? 愚問だろう?」  


 口元に、微かな苦笑が浮かぶ。


 ミレーユは父の余裕を崩すべく、組んだ指に力を込めた。


「ヴァルターのそのお相手が……セレイナ妃でも?」


 その名を聞いた瞬間、分かりやすくはっきりと顔色を変え、侯爵の表情から笑みが消え失せた。椅子からわずかに身を起こし、鋭い眼光を娘へ向ける。


「まさか、まだ切れていなかったのか……?」


 低く抑えた声だったが、事態の深刻さを即座に理解した響きがあった。


 相手がただの貴族婦人や未亡人、あるいは平民や娼婦であれば、まだ火遊びで済んだだろう。だが、王族となった女性となれば話は違う。そこは、決して踏み越えてはならない絶対の聖域だ。


 王太子がセレイナを側妃として迎えたことは、決して秘されているわけではない。ラフォード侯爵も当然、セレイナが側妃に収まっていることは把握していた。ただ、大々的に発表されなかったというだけだ。ゆえに、国の中枢に近い王侯貴族や有力な商人たちにとっては、周知の事実であった。

 

 そして、ヴァルターとの過去の因縁も侯爵は知っていた。ミレーユとの婚姻を決める際、徹底的に行わせた身辺調査の報告書に、その名は確かに記されていたのだから。


 よりにもよってそのセレイナが、不義の相手であってはならない。絶対に。


 ミレーユは少し困ったような顔を、父侯爵に向けた。


「それを知りたいのです」


 侯爵は短く息を吐き出し、娘を正面から見据えた。それは父の顔ではなく、政を判断する当主の目だった。


「わかった。よく相談しに来てくれた。調べは任せておけ。ただし、あまり気に病むな。わかったな」


「はい……お父様、ありがとうございます」


 ミレーユは小さく頷き、強張っていた肩の力を抜いたその声には、安堵が滲んでいた。

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