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52 女の矜持 ーChapter ミレーユ

 ヴァルターが娼館へ通うようになって、数週間ほどが過ぎたころの朝だった。

 

 ミレーユは、夜明け前の薄明かりの中で目を開いた。

 

 寝台の横は静かで、ヴァルターの姿はすでにない。昨夜も帰りが遅く、眠りにつく前に交わした会話らしい会話はなかった。


 廊下を挟んだ向かい側にあるナーサリー(育児室)から、乳母と侍女の落ち着いた声が微かに聞こえる。赤子の世話はすべて、あの部屋で行われていた。

 

 妊娠中から乳母候補を絞り、家柄・奉公歴・健康状態まで調べ尽くして選んだ乳母。その乳母と手の合う侍女たち。しっかりとした、完璧で申し分ない布陣である。


 ミレーユはゆっくりと身を起こし、寝間着のしめ紐を解く。産後の身体は、以前よりも女性らしいまろみを帯びていた。細かった腰はしなやかさが加わり女性らしさを際立たせている。胸元は以前よりも随分と豊かになり、頬にも血色が戻っている。女としての成熟を示す変化。誰が見ても、気品と色香が両立している艶めかしさがある。それなのに、あの夜、ヴァルターが口走ったのは自分の名ではなかった。


『セレイナ』


 聞こえなかったふりをしたが、間違いなく聞いた。あれは失言ではない。心の奥に沈んでいた名が、自然に浮かび上がった声だ。問いただす愚は犯さなかった。あれを掘り返せば、自ら立場を崩すだけだと知っていたからだ。


 侍女が控えめにノックし、身支度の準備が整ったことを告げる。ミレーユは鏡台の前に座り、映った自分の顔を確かめた。

 

 嫉妬はある。忘れたことなど一度もない。だが、感情に任せて動けば破滅するのは自分だ。ミレーユが守るべきは、この家、この地位、そしてヴァルターからの愛と、自身が築いた家族。



 その日の朝食の席でも、ミレーユは普段どおりの笑みを貼りつけていた。


「来週の慈善事業の件ですが、手配を進めておきますね」


「ああ、任せるよ」


「領地の税収報告書も拝見しました。素晴らしい成果ですわ」


 ミレーユは淡々と、公務に関する話題だけを丁寧に並べた。感情を差し挟む余地は一切与えない。公爵夫人としての能力。それこそが、彼女の最大の武器だった。


 ヴァルターも、いつも通りの表情で頷いた。彼が外で何をしていようと、この家を動かしているのがミレーユである事実は揺るがない。


 食事を終えたヴァルターが執務室へ向かっていく背中を見送り、ミレーユは一人、茶を口にする。


 彼の衣服には、香りの変化がある。月に数度、帰りが遅く疲労の色が強まる日が増えている。

 

 どこかで女を囲っているのだろうか。


 それ自体は構わない。

 

 ただし、その女が『セレイナ』と関わりがあるなら話は別だ。


 セレイナが生きている限り、平穏は訪れないのかもしれない。


 あの日、ヴァルターのあの囁きさえ聞かなかったならば。ミレーユ自身も、安寧の日々を送れていただろう。だが、現実に突きつけられたのは忌まわしい女の名前だった。


 ヴァルターの心を揺らす存在が、この世に残り続けるという事実が、許しがたい。


 だが今はまだ動く時ではない。

 

 ヴァルターとセレイナの関り。どこまで夫はあの女と関わっていて、何をしているのか。確証もない。それに、下手に動けば疑念を向けられるだけだ。


 ならばすべきことは一つ。

 

 自分の立場をさらに強固にすること。


 そして虎視眈々と、忌まわしい女の存在を、完璧に消失させること。



「執事長を呼んで」


 ミレーユが侍女に声をかけると、執事長が恭しく現れた。


「今月の慈善事業は、規模を広げます。孤児院への寄付金も増額を。公爵家としての印象を、より確かなものにします」


「畏まりました。先日、奥様の生家、侯爵閣下からの支援もお話がありましたが、そちらはいかがいたしましょう?」


「必要ないわ。領地の収益、余剰分の幾分かを上乗せで十分でしょう。後ほどそれについて、詰めましょう」


「畏まりました」


 迷いは一切なかった。噂を操作するのではない。実績を積み重ねるのだ。領地経営、慈善事業、社交界での評判。それらが揃えば、公爵夫人としての地位は誰にも揺らせない。


 窓の外を見ると、夏の眩しい日差しを避けながら、乳母と侍女が愛しい我が子を抱きかかえて、散歩をしている。あの子のためにも。


 私は強くなる。


 いいえ、強くなくてはならない。



 数週間後。


「ミレーユ様は、本当に立派なお方だわ」


「公爵家がこれほど安定しているのは、奥方のお力だね」


 その声は、社交界にも領地にも広がっていた。


 ヴァルターもそのことについていは、承知もしているはず。そしてミレーユに対して、感謝の言葉も常に口にしてくれている。


 ある夜、帰宅した彼をミレーユは柔らかな笑みで迎えた。


「領主会議、お疲れ様でした。慈善事業の件で、各方面から感謝の書状が届いています。あなたの名声も、いよいよ盤石ですわ」


 ヴァルターはいつも向ける優雅な微笑みで、それに応えた。


「君のおかげだ」


「いいえ。全てはあなたのため。そして、公爵家のためであり、家族のためですわ」


 完璧で正しい言葉。だがその奥に潜む計算を、ヴァルターはどれほど理解しているのだろうか。



 深夜、寝室に一人残されたミレーユは、鏡台の前に座った。


 この顔は、公爵夫人、そして母の顔。

 そして……何よりも、一人の女の顔でもある。


「私は間違えていない」


 呟く声は静かで、迷いがなかった。


 愛情は武器にならない。憎しみも後悔も、力にはならない。


 力になるのは、能力と、実績と、立場。ミレーユはそれを誰より理解していた。その先にこそ『愛』がある。実際彼女はそうして、ヴァルターからの愛を得てきたのだから。


 彼女は圧倒的に強くなる必要があった。誰にも揺るがされない場所に、立たなければならない。


 そのためなら、どんな手段でも使う。


 それが道理や倫理を犯していても。


 自分の正義は貫いて見せる。


 それがミレーユという女性の矜持であり、生き様だ。


 次にすべきことは、ヴァルターの素行調査。怪しまれず、悟られずにするには、生家を使った方がいい。


 そう決めたミレーユは翌朝、数日後に孫を連れて遊びに行く旨の先触れを、侯爵家に出すよう侍女長に言いつけた。

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