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5 王命 -Chapter ヴァルター 【回想:2年半前】

 ミレーユ・ラフォード。


 婚姻相手のその名前を聞いたとき、ヴァルターはその意味を理解するのに少し時間を要した。王太子セラフィムの元婚約者。その王太子が隣国の王女と婚姻することになったため、自分の妻となることが決まった女性。


 つまり、彼女も自分と同じく、王命に翻弄された者だった。


 玉座の間での王からの言葉は、疑問の余地を残さなかった。婚姻することは命令であり、それは拒否できるものではない。貴族として領地を守るためには、王命に従うほかない。ヴァルターはそれを理解していた。だが、その理解と納得は、別のものだった。


 セレイナへの約束。あの夜、庭園で彼女の手を握りながら交わした言葉。


「和平が整ったら、必ず婚姻しよう」


 その言葉の重さが、今、彼の胸を押しつぶしていた。



 ヴァルターは夜更けに手紙を書いた。何度も何度も、書いては破る。


 最終的に、彼が送った手紙にはこう書いた。


「セレイナへ。申し訳ない。本当に申し訳ない。王命が下った。他の貴族令嬢との婚姻を命じられた。これは拒否することができない。だが、聞いてほしい。決して、縛るつもりはない。それでも……待ってくれるのであれば、三年待ってほしい。我儘なのは承知している。相手の女性と白い結婚なら、婚姻を解消する道もあるかもしれない。セレイナとの未来も、まだ見出せるかもしれない。三年待ってくれないだろうか? 本当に申し訳ない」


 その手紙を送った後、ヴァルターは自分の矛盾に気づいていた。


 ミレーユという女性を妻にしながら、セレイナへの道を探す。それは卑劣な選択だ。だが、セレイナを失うことはできなかった。その感情が、ヴァルターを支配していた。



 婚儀の日。ヴァルターは白のドレスを身に纏う花嫁を見た。ほぼ初対面に等しい令嬢。妻となるミレーユは、気品に満ちた表情で、祭壇の前で待つ自分の方へ歩んでくる。その背筋は一点の曇りもなく真っすぐだった。多くの人間が彼女を見つめている。王太子妃の座を失った女性。そして、今、公爵夫人となる女性。


 視線の重さを感じているはずなのに、彼女は顔色ひとつ変えなかった。


 祭壇で彼女の手を取ったとき、ヴァルターは彼女の手がかすかに震えているのに気づいた。完璧な表情の奥に、彼女も怯えているのだと。同情が、ヴァルターの中に生まれた。だが同時に、それ以上の感情もあった。セレイナを失ったことへの、言い様のない感情。もしかしたら、彼女に対して無意識に、理不尽に、憎しみの感情も抱いていたと、今ならわかる。


 その後の初夜のことは、最初から決めていた。


 寝室でミレーユを前にしたとき、ヴァルターは彼女の背後にセレイナの姿を思い浮かべていた。だから彼は、一定の距離を置き、彼女に近づかなかった。それは相手を思いやることだ、そう自分に言い聞かせながら。


 実際には、セレイナを裏切る行為を延期しているに過ぎないのだが、ヴァルターはそれを直視することができなかった。


 翌朝、彼女の行動を見て、ヴァルターは驚いた。


 朝食の準備。台所の人間たちへの指示。邸内の執務の整理。彼女は何も言われないのに、公爵家に必要なことを見抜き、手を動かしていた。その動きには無駄がなく、相手を傷つけない気品も感じさせる。


「ごめんなさいね。このスープの塩加減、もう少し抑えて頂けるとありがたいの。私、薄味が好みで」


 料理人に対しても、命令ではなく提案として言葉を選んでいた。その配慮に、料理人は不機嫌さを見せずに改善を約束した。


 ヴァルターは、彼女が王太子妃教育を受けていたことを思い出した。つまり、彼女はこの状況で花開くように準備されていたのだ。王太子妃になるためではなく結果として、この家の妻として、公爵夫人として、その力を発揮することになったわけだ。


 夜の図書館で、彼女が書籍を読んでいるのを見かけたとき、ヴァルターは思わず声をかけた。


「まだ起きているのか?」


 彼女は顔を上げ、照れ笑いを浮かべた。


「申し訳ありません。穀物の不作について、気になることがありまして。調べていたのです」


 その姿を見ていて、ヴァルターは気づき始めた。彼女に対する自分の感情が、変わり始めていることに。それが何なのか、最初は判別できなかった。敬意なのか。それとも、何か別のもの。


 だが、時が経つにつれ、その感情は明確になっていった。


 夕餐のたびに、彼女の話を聞きたいと思い、領地のことについて彼女に相談したいと思い、彼女の笑顔を見たいと思う自分。


 その全てが、ヴァルターの中で絡み合い、自分自身の変化に驚きを覚えた。


 ハープの音を聞いたとき、ヴァルターは確実に変わった。


 彼女の指が弦を撫でるたび、その音色が心の奥底に響く。歌声には、どこかしら悲しみが込められていた。それが母親への思いなのだと、彼女の言葉で知った。


 その瞬間、ヴァルターは心は完全に捉えられた。


 恋愛というものが、こんなにも単純で、複雑で、避けられないものだとは思わなかった。


 彼は彼女に近づいた。


「ミレーユ」


 彼の声は、低く、震えていた。


 彼女は、ハープから手を離し、ヴァルターを見つめた。その瞳には、彼への感情が明確に映っていた。


 二人の距離は、一瞬にして縮まった。


 彼の唇が、彼女の唇にそっと触れた。最初は優しく、そして次第に深く。


 彼女は、彼の胸に両手を置いた。その手は、震えていた。だが、それは恐れではなく、期待の震えに思えた。


 キスが終わった時、二人の間には、もはや何の迷いもなかった。


 ヴァルターは彼女の手を取り、寝室へ導いた。その時、彼の心には、セレイナへの罪悪感は存在しなかった。


 ミレーユをベッドの上で抱きしめたその瞬間、全てが終わったのだ。


 セレイナとの三年という約束も。白い結婚という可能性も。そして、ヴァルターの中に残っていた、かすかな希望も。


 全て。


 それでも、彼は彼女を愛していた。ミレーユを。


 それは、自分の弱さなのか、それとも、本当の愛なのか。


 ヴァルターは、もう考えることをやめていた。

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