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41 砂上の城 ーChapter セラフィム

 そこからの母后の動きは速かった。


 会合の翌日には、王と王后それぞれの補佐官が一人ずつ、セラフィムの執務室を訪れた。その後ろには、妙齢の侍女長とその補佐が静かに控えている。どちらも、エリザベルナに長く付き従ってきた女たちだと、顔を見てすぐにわかった。


「セラフィム王太子殿下、本日はお時間を賜り恐れ入ります。この件につきましては、両陛下より極秘裏に進めるよう厳命を受けております。殿下におかれましては、どうかご懸念なく、格別のご協力を仰ぎたく存じます」


 堅くあいさつしたのは、母后付きの補佐官だった。エリザベルナがこの国に輿入れした折に共に来た男で、晩婚ながら此方で妻と子を持ったはずだ。穏やかな物腰は変わらずとも、その声音には、王后の本気が色濃く滲んでいる。


「手数をかける。不明な点があれば、このチャリオットに申し伝えてほしい。彼も共に精査にあたる」


 セラフィムがそう告げると、名を呼ばれたチャリオットが一歩前へ進み、深々と頭を垂れた。


 側妃を迎えることを最初に相談した相手。セレイナの身許や能力を調べ上げ、書類を揃えてきたのも彼だった。いつもセラフィムのために動き、側妃を持つ経緯を知る唯一の臣下でもある。


 セレイナの身の回りを精査するとセラフィムが告げた時、チャリオットは一瞬だけ怪訝そうに眉を動かした。彼にとっても、セレイナは『書類の上』で知るだけの存在であり、やがて『能力不足の側妃』として処理された元・側妃に過ぎなかったのだろう。離縁の報せを受けたときも、僅かな同情を瞳に浮かべただけで、静かに頷き頭を下げた。

 その態度も、今となってはセラフィム自身と何ら変わらない。


 調べは、まず出納から始まった。


 王后付きの補佐官が、セレイナ個人に割り当てられた出納帳を開く。そこには、側妃として必要な物品の購入記録が細かく記されていた。下着、手袋、扇、筆記具、化粧品や香水。時折、少し値の張る宝石やドレスも混ざっているが、身だしなみを整える為と、目に余る贅沢とは言えない。宮廷が出入りを許可している商人・商店も偏り無く使われており、問題になるような取引は無い。


 書類だけを追えば、「十分に配慮された出納」で終わる話だ。

 セラフィムは、ついそう思いかけた。


「殿下。畏れ入りますが、元側妃殿下との婚姻証明書をご用意いただけますでしょうか」


 王付きの補佐官が、静かに頭を下げる。


「わかった。チャリオット、記録書庫から持ってきてくれ」


 セラフィムは執務机の引き出しから鍵を取り出し、チャリオットに渡した。


 程なくして、チャリオットは精緻な装丁の証明書を手に戻ってきた。補佐官が丁寧にそれを受け取り、ページを繰る。婚姻証明の末尾に記されたセレイナの署名と、出納帳の署名を並べて置いた。


 二冊の紙面の間を、補佐官の指先が静かに往復する。


「殿下」


 呼びかけは落ち着いてはいたが、その中には僅かに緊張が走っている。


「この署名、おそらく同じ方の手によるものではございません」


「……どういう意味だ」


 問い返した声は、いつもの穏やかさを保っていたはずなのに、喉の奥で少しだけ引きつれる。


「こちらをご覧ください。婚姻証明の署名は、最初にのみ力が入り、そのあとは流れるように筆が走っております。払いの部分も、力を抜く癖がおありのようだ。一方、出納帳の署名は、全体に強く筆圧がかかっている。止めも払いも模倣をしようとしたせいか、最後まで均等に力が入っております」


 補佐官は、紙端を傷つけぬよう注意しながら、文字の端を指先でなぞる。


「よく模倣されてはおりますが……筆を持つ手の癖は、隠しきれるものではございません」


 言われた通り、セラフィムも身を乗り出すようにして署名を見比べた。


 インクの滲み方が違う。線の始まりと終わりが、違う。


 彼は思わず席を立つと、執務室の奥にある棚へと向かった。そこには、セレイナが王廷に迎えられた当初、共に執務を行っていた頃の書類が収められている。彼女がまとめた報告書、上奏文、要約書。

 

 一冊を抜き出し、机に並べて置く。


 婚姻証明、執務書類、出納帳。


 三つを並べて眺めれば、答えは否応なく浮かび上がった。


「……出納は、偽造されているということか」


 口に出した瞬間、その言葉が重みを持って胸に落ちた。


 誰が何のために。

 

 横領か?

 

 だとすれば、この帳面に記された品々はどこへ消えた。


 思考がそこまで巡り、すぐに行き場を失う。


「殿下」


 王后付きの補佐官が静かに頭を下げた。


「次に、元側妃殿下の私室を拝見したく存じます。そのために、彼女付きだった侍女たちを呼び寄せていただけますか?」


「ああ……チャリオット、悪いがもう一度、遣いを頼む。セレイナ付きだった侍女を連れてきてくれ」


「畏まりました」


 チャリオットが部屋を出る。その間にも、補佐官たちは他の経費帳をひとつひとつ洗い始める。数字と印章が淡々と照らし合わされていく音だけが、部屋の空気を支配していた。


 セラフィムは、そこに座っているほかはなかった。目の前で紙が捲られる音が続く。セラフィムは姿勢を変えず、そのまま机上に視線を落とした。表情を乱すまいとする感覚は、考えるより先に身体が覚えている。


 それでも、胸の内側では不快な何かが崩れるような……そんな音がずっと鳴っている。


 やがて、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 戻ってきたチャリオットの顔には、珍しく苛立ちの色が滲んでいた。その後ろには、肩を小さく竦めた侍女が二人。まさに『ガックリ』という擬音が似合うほど深く頭を垂れ、顔を上げようとしない。


「お時間を取らせてしまい、申し訳ございません……元側妃殿下の侍女たちなのですが、今は王太子妃殿下付きとして仕えているとのことで」


「それは、セレイナがいなくなったからか?」


「いえ……彼女の輿入れ後、ふた月ほどはこの二人が付き添っていたそうですが、その後は王太子妃殿下の侍女が受け持つようになったと」


「どういうことだ」


 言葉は穏やかさを保っていたが、自身の耳には、いつもより少し硬く聞こえた。チャリオットは視線を伏せ、言葉を選ぶように口を結ぶ。


「もうよい。それはあとで聞く。先にセレイナの私室へ案内してくれ」


 淡々と告げると、補佐官たちが一瞬だけ目を見張った。『側妃でありながら、部屋の場所も知らぬのか』とでもいうように。その驚きの気配は、言葉にならずとも伝わってくる。


 セラフィムは、その視線ごと飲み込んだ。否定する言葉は、どこにも見当たらない。


 頭を垂れたままの侍女の後ろに付き従い、一行は王太子夫妻の居城の裏手へと向かう。


 王太子の為に整えられた宮。その一角、奥まった廊下の突き当たりに、セレイナの部屋はあった。外から眺める限り、扉も壁も他の間と変わらぬ造りをしている。


「開けてくれ」


 セラフィムの声に、侍女の一人が震える手で鍵を取り出し、錠前に差し込んだ。金属がかすかに擦れる音と共に、鍵が回る。チャリオットが扉を押し開き、そのまま脇に退いた。


 最初に足を踏み入れたのは、セラフィムだった。


 婚姻中、一度も訪れなかった部屋。知らずにいた扉の向こう側。


 そこは、驚くほど整っていた。床には埃ひとつなく、家具の配置も乱れがない。ベッド、鏡台、小さな書き物机、クローゼット。必要最低限のものは揃っている。


 ただ、生活の気配が、ほとんどなかった。


 ベッドだけは、人が横になった痕跡がかろうじてあるが、それ以外には、積み重ねられた日々が見当たらない。椅子の背もたれに衣服が掛けられた形跡もなく、机の上には書きかけの紙一枚ない。壁に飾りも、窓辺に花もない。


 見た目だけ整えられた、空っぽの部屋。


 王后の侍女長が、低い声で問いかけた。


「お部屋に手を入れること、お許しいただけますでしょうか」


「……許可する」


 侍女長とその補佐が、まずクローゼットへと向かう。扉を開けば、ドレスの数は少ない。裾が擦り切れかけたものが二、三着。刺繍の糸がほつれたままになっているものもある。


 鏡台の引き出しを開ければ、化粧品の瓶がいくつか並んでいた。どれも中身はほとんど残っておらず、底をかき集めるように使った痕がある。


「宝石箱も、これだけです」


 侍女長が小物棚から取り出したのは、いくつかの小箱だった。


 蓋に刻まれた紋章を見て、セラフィムは息を呑む。


 伯爵家の紋章。セレイナが輿入れしたとき、実家から持参した品に刻まれていた家紋だ。


「そのほかに、王宮から与えられた宝飾の類は?」


 王付きの補佐官が問いかけると、侍女長は首を振った。


「箱はこれだけでございます。中身も……」


 箱を開ける音が続く。中には、数点の飾りが残っているだけだった。それも、決して豪奢なものではない。


 チャリオットが、堪えきれずに奥歯を噛みしめる気配がした。


 セラフィムは、部屋の中央に立ったまま動けなかった。


 書類の上では『過分なまでの支給』と記されていた。なのに。実際に与えられていたのは、輿入れの折に持参したものの残りと、擦り切れた日用品だけ。


 彼女は、ここで眠っていた。綺麗に片づけられた、この空の部屋で。


 侍女二人は、扉の傍で小さく身を縮めている。セラフィムと目を合わせまいとし、震える手を握りしめる。その怯えは、責め立てられることへの恐怖だけではない。見て見ぬふりを続けてきた自分たちの罪を、いまようやく突きつけられた者の震えなのだろう。


 それでも、誰よりも長く目を逸らしてきたのは、自分だ。


 王太子妃を守るための盾として、都合よく彼女を使った癖に。与えるべきものは何ひとつ、確かめもしなかった。


 胸の内側で、静かに何かが崩れてゆく。膝が、自然と床につく。気づいたときには、絨毯が敷かれてあるはずのそこから、冷たさが這い上がってくるように思えた。


「……なんてことだ」


 セレイナが受けた仕打ちだけではない。それを許していた、この場の全員。そして何より、誰よりも深く目を背けていた自分自身。


 書類だけを信じた。それで務めを果たしたつもりになっていた。


 目の前の外見だけ整えられた虚ろな部屋は、その全てを否定していた。外から見れば整っている。だが、一歩中に入れば、積み上げたはずのものは何もない。


「俺は……俺は……! 何を見ていたのだ!」


 その問いは、誰からの答えも求めてはいない。


 チャリオットが小さく息を呑む気配がした。彼の拳もまた、震えている。


 だがセラフィムは、顔を上げなかった。


 あげられなかった。

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