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36 選んだ道と守るもの ーChapter ミレーユ

 ほんの少し前までの昔を思い出しながら、ミレーユは吐息を零すように小さく呟く。


「……本当に、あなたは変わったわね」


 今のヴァルターには、初夜の時のようなあからさまな壁は無い。

 

 あの頃のヴァルターは、妻としてミレーユを迎えることへの理不尽さの憤りを抱え、決して口にしない別の女への愛を胸に秘め、身体にも心にも触れてこなかった。そんな男が今では、時を選ばず妻に触れ、言葉も視線も遠慮なく甘い。


 その転機となったのは、あの日。ハープの演奏を披露した時だった。


 ヴァルターからの思わぬ申し出に、咄嗟にミレーユは頭の中で『計算』をした。彼が情に脆く熱いということは、日々生活をしている中で徐々にではあったが、深く理解できていた。この好機を掴めば、距離を縮められるかもしれない。この巡って来たチャンスを逃す訳にはいかなかった。


 実際に奏でた旋律は、今は儚くなったミレーユの母が弾いていたものではない。

 

 王太子妃教育で得た技術だということも、外交で必要になるということも事実ではあったが、それを『母との思い出』としたのは脚色だった。


 選んだ曲は、誰もが知っているものと、哀愁漂う旋律の子守唄。聴く人の心を、掴む曲なのは重々承知していた。


 計算のために踏み出した距離に、漸く彼の心が追いついてきた。ヴァルターはそんなことなど微塵も疑わず、ミレーユを抱き寄せて言った。


「そうだったのか。君の思い出の籠った歌だったのだな。とても美しい。君の歌声も、君自身も」


 その言葉を受けた瞬間、ミレーユの心のほうが、動揺を隠せなかった。計算と本音の境目が曖昧になったのだ。彼のことを好ましいと思い、繋いだ縁。だがそこには、まだ『愛』と呼べるものは芽生えてはいなかった。


 きっとこの夜、二人の間に初めて『愛』が芽生えたのだ。


 今、こうして眠っているヴァルターは、ミレーユが望んで形作った夫そのものだった。名前を呼び合う距離がいつ自然になったのか、はっきり思い出せない。それでも、名前を口にすると胸の奥が温かくなるのは確かだった。


 ミレーユは自分の腹に手を置いた。そこに宿る命が、確かに存在している。


(この人との子を授かった。それだけで十分)


 地位も容姿も力も、かつては『条件』に過ぎなかった。だが今は違う。どれだけ計画を巡らせても結局、本当に欲しかったのはこの穏やかな夜だったと、今なら心からわかる。


 ヴァルターの手に、自分の手を重ねる。眠っているはずなのに、彼の指が微かに返してくるように動いた。


 ミレーユはそっと、ヴァルターに身を寄せ思う。


 だからこそ、絶対に手放せないものを守るために、排斥しなければならない存在がある。


 セレイナ――


 今でもミレーユの大きな懸念である邪魔な人。


 市場でセレイナを見かけたのは、本当の夫婦になった夜から暫くしてからのこと。


 秋の午後。その日は、冬用の屋敷で使う布や衣服の素材を確かめるために、ヴァルターと共に布地市場を歩いていた。他愛も無い話で笑い合い、和やかに買い物を楽しんでいたその時だった。


 ふと視線を横へ逸らすと、人通りの向こうで銀色の髪が見えた。侍女を伴ったその銀髪の女性は、こちらの方へ歩いて来ている。


 整った衣服、真っ直ぐな姿勢。特別に声を張るでもなく、笑っているわけでもないのに、目に留まる存在だった。


(あれは……)


 遠くにいたはずのその姿が、次第に近くなる。ヴァルターの腕にかけていた手に、僅かな変化が伝わってきた。


 すれ違いざま、彼女はヴァルターを見た。その瞳がミレーユへ移る。


「公爵様。お久しゅうございます」


 澄んだ声が響いた。

 

 ミレーユへの微笑みは丁寧だったが、その奥にある彼女の想いまでも読み取ることは出来ない。


「とてもお美しい奥様ですね。どうか末永くお幸せに」


 彼女はそう言った。だが、その短い言葉に込められている彼女の想いと、ヴァルターの反応。

 

 この一瞬で、ミレーユは直ぐに察してしまった。


 ヴァルターがこの女性を深く想っていたこと。今でもその残り火は消えていないこと。


(引き裂きたいほどに、美しい)


「お知り合いの方?」


 穏やかな声で問いかけたのは意図的だった。長年の教育で身についた技だ。ミレーユが問いかけた後もヴァルターの意識は、彼女へと向いてるのがハッキリとわかった。やはり、彼女の存在は脅威だ。直感的にミレーユは、そう、悟った。



 彼女の存在が、ミレーユにとって黙認できないと決定的になったのは、リージェリアからの新しい文だった。


 セレイナが側妃として王城に迎えられたこと。その婚姻が「白い婚姻」だとセラフィムに説明されたこと。


 そして、それでもセラフィムの目に抑えきれない『欲』があったこと。


 文面は冷静を装っていたが、あの癖が滲み出ていた。


 市場で見たセレイナ。それを見たヴァルターの反応と彼女の美貌。どこかへ嫁いでくれればいい。そう思ってたのに。よりにもよって王太子の側妃になった邪魔な女。


 それらが重なる。


 義父が言っていた言葉が思い出された。

 ヴァルターは一度決めたことから後戻りしない性質だと。


(今は私と子へ向いている。それでも)


 条件が揃えば、同じようにすべてを賭けてしまう可能性は残っていた。


 リージェリアの文にあった一節を、ミレーユは何度も読み返した。


『毒芽は早く摘まないと』



 避妊薬の知識は以前から持っていた。領地の作物や薬草を調べる中で、女性たちが望まぬ妊娠を避けるために使ってきた草の名は自然と知識として、頭に入っていた。


 タチアオイ系の根と種。煎じれば妊娠しにくくなると言われている。


 どれほど濃くすれば身体に影響が出るのか。理屈としての見当はついていた。


 誰かを害するために学んだわけではない。領地の女性たちに、密かな相談があった時に『選択肢』を渡すための知識だった。だが、知識は使い方ひとつで別の顔を持つ。


 乾燥させた根を挽き、成分を抽出し、濃縮する。扱う者の皮膚に付いても問題が出ないよう形を整え、王城でも手に入る瓶に詰め替えた。


 リージェリアに渡す時、説明は簡潔だった。


『毎日。少量を。重ねることで効果が出る』


 リージェリアは瓶を懐に収め、頷いた。その先にどんな終わりが待つか、お互い理解していなかったわけではない。


 その後に起きたことは、ミレーユにはわからない。必要以上の介入は、身を亡ぼすと十分にわかっていた。



 気づけば、カーテンの隙間から見える空の色が、変わり始めていた。日の出まではまだ時間はあるが、そろそろ明けがくるだろう刻。


 ヴァルターが寝返りを打ち、ベッドが小さく軋む。ミレーユは彼を起こさぬよう、腰をベッドにずらしてゆく。


 目が慣れるにつれ、ヴァルターの寝顔が見えてくる。長い睫毛、整った鼻筋、眠っていても形を崩さない口元。


(生まれてくる子は、どちらに似るかしら)


 男女どちらにせよ、整った顔立ちになるだろう。想像すると、自然と表情が緩んだ。


 髪に触れると、柔らかく、わずかな癖が指の間を滑り落ちる。


(この人が欲しかった)


 夜会の片隅で名前を知った日から。

 

 諦めようとした未来を、選び直すと決めた日から。


(私は選んだの。そして迷わず手に入れた)


 リージェリアも自分自身も、罪を犯していないとは決して言えない。それでも後悔するかと問われたら、答えは決まっていた。


 ヴァルターの頬に触れる。薄くひげの生え始めた感触が指に当たる。


「おやすみなさい、ヴァルター」


 小さく声に出し、彼の肩へ軽く頭をを預け瞼を閉じる。


(欲しかったものは、今ここにあるわ)


 その事実だけを抱いたまま、静かに意識を沈めていった。

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